GWへ。休日には出費が伴うから休日手当を支給せよと言った人がいた。至言だ。




2004ソスN4ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2642004

 韮汁や体臭を売る私小説

                           花田春兆

語は「韮(にら)」で春。私は「韮汁」もレバニラ炒めなども好きなほうだが、韮の強い香りを臭気と感じて嫌う人も少なくない。作者も、いささか敬遠気味に食べているような気がする。「私小説」を読みさしての食事だろうか。あくどいばかりに自己を晒した小説と韮汁との取り合わせは、もうそれだけで「むっ」とするような雰囲気を醸し出している。加えて「体臭を売る」と侮蔑しているのだから、よほどその小説を書いた作家に嫌悪の念を覚えたのだろう。しかし、侮蔑し嫌悪しても、だからといって途中で放り出せないのが私小説だ。何もこんなことまで書かなくてもよいのに、などと思いつつも、ついつい最後まで引きずられ読まされてしまうのである。私小説といってもいろいろだけれど、共通しているのは、作者にとっての「事実」が作品を支える土台になっているところだ。読者は書かれていることが「事実」だと思うからこそ反発を覚えたり、逆に共感したりして引きずられていくのである。だいぶ前に、掲句の作者が書いた富田木歩伝を読んだことがあるが、実に心根の優しい書き方だった。良く言えば抑制の効いた文章に感心し、しかし一方でどこか物足りない感じがしたことを覚えている。たぶん「事実」の書き方に、優しい手心を加え過ぎたためではなかろうか。後にこの句を知って、そんなことを思った。ところで事実といえば、俳句も作者にとっての事実であることを前提に読む人は多い。いかにフィクショナルに俳人が詠んでも、読者は事実として受け止める癖がついているから、あらぬ誤解が生じたりする。古くは日野草城の「ミヤコホテル」シリーズがそうであったように、フィクションで事実ならぬ「真実」を描き出そうという試みは、現在でもなかなか通じないようだ。俳句もまた、私小説ならぬ「私俳句」から逃れられないのか。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2542004

 桜蘂散りつくづくと地べたなる

                           宮澤明寿

語は「桜蘂(さくらしべ)散る」で春。「桜蘂降る」に分類。桜の花が散ったあとで、萼(がく)に残った蘂が散って落ちること。我が家の近くでは、ちょうどいま、散っている最中だ。この現象に気がつくのは、散る様子が見えたからというよりも、そのあたりの「地べた」が赤くなっていることからである。まず赤くなっている地べたに気がついて、次に桜の木をちょっと仰いでみて納得する人が大半だろう。そして作者は、もう一度地べたに目を戻した。蘂の様子を見るためだが、いつしか「つくづくと」地べたのほうに見入っていたというのである。そうだ、これが地べたというものなんだ。と、ひとり感に入っている様子が、よく伝わってくる。こういうときでもないと、人が地べたをつくづくと手応えをもって感じるようなことはあるまい。これが落花の様子だと地べたよりも花びらのほうに目を奪われるが、地味な蕊ゆえに、こういうことが起きる。蕊が散ってくれたおかげで、作者は地べたを発見できたというわけだ。似たような体験をお持ちの方も、多いのではなかろうか。何でもないような発見ではあるが、当人にとってはとても大事なことだから、こう書き留めておく必要があった。その気持ちも、よくわかる。似たような体験といえば、私などは写真を撮っているときにしばしば感じる。ねらった被写体よりも、それこそ地べただとか水だとか、あるいは空であるとか。日頃気にも留めていないような物質や空間に、思いがけない魅力を覚えることがある。何故だろうか。おそらくは人間の目とは違い、カメラのレンズは被写体も周辺の事物もみな公平に捉えてしまうから、発見につながりやすいのだろう。逆に人間の目ははじめから公平じゃないので、掲句のように、発見までにはいささか手間取るのにちがいない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


April 2442004

 家族寫眞に噴水みじかく白き春

                           竹中 宏

らりと読み下せば、こうなる。家族で撮った春の写真に、噴水が写り込んでいる。シャッター・チャンスのせいで、噴水の丈は短い。画面は、光線の加減でハレーションでも起こしたのだろうか。全体的に、写真は白っぽい仕上がりになっている。そんな写真の世界を「白き春」と締めくくって、明るい家族写真にひとしずくの哀感を落としてみせた恰好だ。このときにこの理解は、一句を棒のようにつづけて読むことから生まれてくる。むろんこう読んでも一向にかまわないと私は思うが、そう読まない読み方もできるところが、実は竹中俳句の面白さではないのかと、一方では考えている。すなわち、棒のように読み下さないとすれば、キーとなるのは「噴水みじかく」で、この中句は前句に属するのか、あるいは後五に含まれるのかという問題が出てくる。前句の一部と見れば、噴水は写真に写っているのだし、後句につながるとすれば、弱々しく水のあがらない現実の噴水となる。どちらなのだろうか。と、いろいろに斟酌してみても、実は無駄な努力であろうというのが、私なりの結論である。この一句だけからそんなことを言うのは無理があるけれど、この人の句の多くから推して、この中句は前後どちらにも同時にかけられていると読まざるを得ないのだ。しかもそれは作者の作句意識が曖昧だからというのではなく、逆に明確に意図した多重性の演出方法から来ているのである。中句を媒介にすることで、掲句の場合には写真と現実の世界とが自由に出入りできるようになる。その出入りの繰り返しの中で、家族のありようは写真の中の噴水のように、短くともこれから高く噴き上がるように思えたり、現実のそれのようにしょんぼりするように思えたりする。そして、このどちらが真とは言えないところに、「白き春」の乾いた情感が漂うことになるのである。またそして、更に細かくも読める。「噴水」までと「みじかく白き春」と切れば、どうなるだろうか。後は、諸兄姉におまかせしましょう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)




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