『婆力』(原題"0ld and Smart")なる翻訳書。何と読むのか。「バリキ」だって。




2004ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342004

 勤めの途中藤の真下の虚空抜ける

                           堀 葦男

語は「藤」で春。「虚空」は抽象的な造形空間ではなくて、むしろ実感に属する世界だろう。「通勤の途中」、大きな藤棚の「真下」を通り抜けていく。さしかかると、それまでの空間とはまったく違い、そこだけがなんだか現実離れした異空間のように感じられる。現実味や生活臭などとは切れてしまっている空間だ。それを「虚空」と詠んだ。通勤の途次だから、藤を仰いでつらつら眺めるような時間的心理的な余裕はない。ただ足早に通り抜けていくだけの感じが、よく「虚空」に照応しているではないか。束の間の「虚空」を抜ければ、再びいつもの散文的な空間がどこまでも広がっているのだから、ますますさきほどの不思議な虚空感覚が色濃くなる気分なのだ。藤棚の下を擦過するようにしてしか、花と触れ合えない現代人のありようがよく描出されている。これもまた、忙しい現代人の「花見」の一様態だと言えば、皮肉に過ぎるだろうか。そして私には、働く現代人のこのような虚空感覚は、他の場面でも瞬時さまざまに発生しては消えているにちがいないとも思われた。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。スペイン人は走った後で考える」とは、笠信太郎が戦後『ものの見方について』で有名にした言葉だ。ならば日本人はどうかというと、すなわち「日本人は誰かが走っているから後をついて走る」と、それこそ誰かがうまいことを言った。でも日本人は一方で、後をついて走りながらも何か違うんだよなあとも感じている。そこに必然的に生じてくるのが、この種の虚空感覚というものなのだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


April 2242004

 若芝へぬすみ足して毬ひろふ

                           伊東好子

語は「若芝(わかしば)」で春。夏には「青芝」となる。西条八十の『毬(まり)と殿様』じゃないけれど、昔から「てんてん手毬」は、手が逸れるととんでもない方向に飛んでいくことになっている。この童謡では垣根を越えて表の通りまで飛んで出た手毬が、たまたま通りかかった殿様の籠に飛び込んで、なんとそのまま東海道を下り、遠く紀州まで行ってしまうというお話だった。句ではそこまで突飛ではないが、公園などの(たぶん)立ち入り禁止区域の芝生に入ってしまい、おっかなびっくり「ぬすみ足」で拾いに行っている。幼いころの回想か、あるいは眼前で女の子たちが遊んでいる光景の一齣だろう。叱られはしないかとドキドキしている女の子の心と、初々しい若芝の色彩とがよく釣り合っていて、いかにも春の好日といった雰囲気が出ている。これが男の子となれば、手毬ではなくて野球のボールだ。田舎には芝生などという洒落た場所はなかったけれど、同じような体験は私にもある。芝生ならぬ畑の真ん中にボールが飛び込んでしまうことはしょっちゅうで、やはりぬすみ足で拾いに行くのだが、大人に見つかるとビンタを覚悟しておかなければならなかった。こちらは作物を踏まぬように注意を払っているつもりでも、大人からすれば単なる畑の踏み荒らし行為としか写らない。一人がつかまれば共同責任ということで、全員整列させられて説教されビンタをくらったものである。誰もまだ体罰反対などと言わなかった時代だ。話が脱線した。繰り返しみたいになるけれど、掲句の良さは女の子のぬすみ足の様子ではなく、あくまでも「ドキドキする心」が若芝の上にあるという、その半具象的な描き方にあると言えるだろう。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 2142004

 山国の蝶を荒しと思はずや

                           高浜虚子

語は「蝶」で春。作者は「思はずや」と問いかけてはいるが、べつだん読者にむかって「思う」か「思わない」かの答えを求めているわけではない。この質問のなかに、既に作者の答えは含まれている。「山国の蝶を荒し」と感じたからこそ、問いかけの形で自分の確信に念を押してみせたのだ。「きっと誰もがもそう思うはずだ」と言わんばかりに……。優美にして華麗、あるいは繊細にして可憐。詩歌や絵画に出てくる蝶は多くこのように類型的であり、実際に蝶を見るときの私たちの感覚もそんなところだろう。ところが「山国の蝶」は違うぞと、掲句は興奮気味に言っている。山国育ちの蝶は優美可憐とはほど遠く逞しい感じで、しかも気性(蝶にそんなものがあるとして)は激しいのだと。そしてここで注目すべきは、、蝶の荒々しさになぞらえるかのように、この句の表現方法もまた荒々しい点だ。そこが、作者いちばんの眼目だと、私には思われる。すなわち、作者の得意は、蝶に意外な荒々しさを見出した発見よりも、むしろかく表現しえた方法の自覚にあったのではなかろうか。仮に内容は同じだとしても、問いかけ方式でない場合の句を想像してみると、掲句の持つ方法的パワーが、より一層強く感じられてくるようだ。まことに、物も言いようなのである。これは決して、作者をからかって言うわけじゃない。物も言いようだからこそ、短い文芸としての俳句は面白くもあり難しくもあるのだから。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)




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