金子 敦の句

April 1342004

 春の雲よりノンちゃんの声聞こゆ

                           金子 敦

語は「春の雲」。白い綿のようにふわりと浮いていて、ときに淡い愁いを含んでいるようにも感じられる。句は、そんな雲を眺めていたら、ふっと「ノンちゃん」の声が聞こえてくるような気がしたというのである。郷愁の句だ。「ノンちゃん」は、石井桃子の書いた『ノンちゃん雲に乗る』の主人公の女の子だ。この本は戦後間もなく刊行され、多くの子供たちに読まれたようだが、今でも読まれているのかしらん。私は、田舎の小学校の学級文庫にあったのを読んだ。正直に言って、血わき肉躍る小説や講談本が好きだった私には、あまり面白い本ではなかった。主人公が女の子だったせいもあるのだろう。それも、良い子で優等生の……。したがってストーリーもよく覚えていないのだけれど、しかし「雲に乗る」という発想には心魅かれたようで、やはりふっと掲句の作者と同じような気持ちになったりすることはある。雲に乗った(本当は、池の水に映った雲の上の世界に落ちた)ノンちゃんは、雲の上のおじいさんと実にいろいろな話をしていた。その二人のやりとりする様子がぼんやりと思い出され、そのうちに本を読んだ当時の現実の生活のあれこれの断片的記憶が浮び上ってきて、妙に甘酸っぱいような気分になるのである。紙に書かれた物語だから、むろんノンチャンの声は誰も聞いたことはない。でも、作者には声が聞こえている。ここが句の眼目で、春の雲の夢うつつの感じとよく溶け合っている。同じ作者で、もう一句。「雲に乗る仕度してをりつくしんぼ」。『砂糖壺』(2004)所収。(清水哲男)


June 2362008

 いつせいに子らゐなくなる夏座敷

                           金子 敦

戚一同が集まっての法事の座敷だろうか。私にも何度も体験はあるが、故人にさして思い入れがない場合には、ゆっくりと進行する決まりごとに、大人でもいらいらするときがある。ましてや子供にとっては退屈千万。窓の外は日差しが強く、室内が明るいだけに、余計に苛々してしまうのだ。それでも神妙なふりをして坊さんの読経などを聞いているうちに、やっと式次第が終了し、さあ子供は外で遊んできてもいいよということになる。むろん、しびれをきらしていた子供らはまさに「いっせいに」外に出て行ってしまう。残る子なんて、いやしない。なんということもない情景ではあるけれど、この句は実は大人も同時に解放された気分が隠し味になっているのであって、そこらへんが実に巧みに詠まれている。余談めくが、しかし何かとわずらわしい子供らがこういう場所に集まることそれ自体が、この親族一同にとっての盛りの時期だったことが、後になるとよくわかってくる。少子化ということもあり、こんな情景も今ではなかなかお目にかかれなくなってきているのかもしれない。『冬夕焼』(2008)所収。(清水哲男)


March 2432009

 朧夜のぽこんと鳴りし流し台

                           金子 敦

の回りのものが立てる音には、住人にそっと寄り添うような優し気なものと、ぞっと孤独を引き立てる音とがある。前者は、階段がきゅーと鳴る場所だったり(暗闇のなかわざわざ踏んで下りたりする)、水道の出だしのキョッという音(あ、準備して待っていたんですがついうっかり眠ってしまって、ちょっと驚いちゃいましたよ、という感じ)などは、思わず「一緒に暮らしているんだね」と微笑みかけたくなる。しかし、掲句の「ぽこん」は後者である。この音に聞き覚えのある方は、インスタント焼きそばの湯切り経験者だと確信する。流し台に熱い湯を捨てるとき、必ずステンレスが「ぽこん」というか「ぼこっ」と音を立てる。それはもう、とてつもなく唐突に孤独を感じさせる音なのである。なるべく音がしないように場所を変えてみたり、少量ずつこぼしてみたりするが、流し台は「どうだ、寂しいだろう」とばかりに必ず鳴る。固く錠をかけていた胸の奥の扉が開き、潤んだ春の夜がするするっと忍び込んでくる。『冬夕焼』(2008)所収。(土肥あき子)


June 0462012

 木の匙に少し手強き氷菓かな

                           金子 敦

の食堂などに「氷」と書かれた小さな幟旗が立つ季節になった。かき氷だが、句の氷菓はコンビニなどで売られているカップ入りのアイスクリームやシャーベットである。買うと、木の匙をつけてくれる。最近ではプラスチック製の匙もあるけれど、あれは味気ない気がして好きじゃない。この木の匙はたいがい小さくて薄っぺらいから、ギンギンに冷えているアイスクリームを食べようと思っても、少し溶けてくるまでは崩そうにも崩せない。句はそのことを「手強い」と言っているのだ。でも、作者はその手強さに困っているわけではなく、むしろ崩そうとしてなかなか崩れない感触を楽しんでいる。夏の日のささやかな楽しみは、こういうところにも潜んでいるわけだ。蛇足だが、木の匙の材質には白樺がいちばん適当らしい。白樺には、ほとんど独自の匂いがないからだそうだ。『乗船券』(2012)所収。(清水哲男)


August 1182012

 さざなみの形に残る桃の皮

                           金子 敦

本古来の桃の実は小粒で、産毛が密生していて毛桃と呼ばれ〈苦桃に戀せじものと思ひける〉(高濱虚子)などと詠まれているが現在、桃といえば白桃、色といい形といい、はにかむように優しく、甘くてみずみずしい果実の代表だ。その皮は、実が少し硬めだと果物ナイフで、熟していると指ですうっとはがすように剥けるが、この句の場合はナイフで剥いたのだろう。皮の薄さとところどころに残る果実の水気で、林檎や梨とは違う静けさを持って横たわる皮、そこにさざなみの形を見る感覚は、桃の果実同様みずみずしい。〈無花果の中に微細な星あまた〉〈なんでもないなんでもないと蜜柑むく〉など果物をはじめ、食べ物の佳句が印象的な句集『乗船券』(2012)より。(今井肖子)


July 0372015

 消えかけし虹へペンギン歩み寄る

                           金子 敦

ンギンは主に南半球に生息する 海鳥であり、飛ぶことができない。海中では翼を羽ばたかせて泳ぐ。海中を自在に泳ぎ回る様はしばしば「水中を飛ぶ」と形容される。陸上ではよちよちと歩く姿がよく知られているが、氷上や砂浜などでは腹ばいになって滑ったりする。飛ぶことを失った鳥。話は逸れるが、小生の周りにパニック障害に苦しむ者が居る。自分の行動が自分の意のままにならないのだ。勤めに出ようにもそこへ向かう一歩が硬直して踏み出せない。今空へ向かって飛出せないペンギンの姿が重なって見えてくる。真っ白な南極に七色の虹が掛り今消えかかっている。普段見慣れぬ虹に見とれていたペンギンが、もう少し夢の時間を惜しむかのように歩み寄って行った。もしも飛べたなら空へ向かって羽ばたいたろうか。それでもペンギンは消えかけた虹へ向かってよちよちと歩み寄って行くのであった。他に<メビウスの帯の中なる昼寝覚><月の舟の乗船券を渡さるる><白薔薇に吸ひこまれたる雨の音>などあり。『乗船券』(2012)所収。(藤嶋 務)


July 2872016

 古傷にじんわり沁みてくる夕焼

                           金子 敦

傷はいろんな場所にある。身体にも残る古傷同様、心に残る古傷がふっとよみがえる。そんな時には思い出すことが自体が苦しく、恥ずかしく、そのときの情景や言葉が心に痛いのだ。なんて浅はかだったのだろう。西に沈んでゆく夕日が雲を染めるとともに自分の中の古傷にじんわり沁みてゆく。そんな情景だろうか。先日遥か南の島で太平洋に沈んでゆく夕焼を見た。水平線に沈んでゆく夕日の最後の光が波間に消えるまでたっぷり1時間はあっただろうか。壮大な夕焼けのただなかに立ち、古傷にじんわり沁みてゆく貴重な時間だった。『セレネッラ』第8号(2016年6月)所収。(三宅やよい)




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