April 13 2004
春の雲よりノンちゃんの声聞こゆ
金子 敦
季語は「春の雲」。白い綿のようにふわりと浮いていて、ときに淡い愁いを含んでいるようにも感じられる。句は、そんな雲を眺めていたら、ふっと「ノンちゃん」の声が聞こえてくるような気がしたというのである。郷愁の句だ。「ノンちゃん」は、石井桃子の書いた『ノンちゃん雲に乗る』の主人公の女の子だ。この本は戦後間もなく刊行され、多くの子供たちに読まれたようだが、今でも読まれているのかしらん。私は、田舎の小学校の学級文庫にあったのを読んだ。正直に言って、血わき肉躍る小説や講談本が好きだった私には、あまり面白い本ではなかった。主人公が女の子だったせいもあるのだろう。それも、良い子で優等生の……。したがってストーリーもよく覚えていないのだけれど、しかし「雲に乗る」という発想には心魅かれたようで、やはりふっと掲句の作者と同じような気持ちになったりすることはある。雲に乗った(本当は、池の水に映った雲の上の世界に落ちた)ノンちゃんは、雲の上のおじいさんと実にいろいろな話をしていた。その二人のやりとりする様子がぼんやりと思い出され、そのうちに本を読んだ当時の現実の生活のあれこれの断片的記憶が浮び上ってきて、妙に甘酸っぱいような気分になるのである。紙に書かれた物語だから、むろんノンチャンの声は誰も聞いたことはない。でも、作者には声が聞こえている。ここが句の眼目で、春の雲の夢うつつの感じとよく溶け合っている。同じ作者で、もう一句。「雲に乗る仕度してをりつくしんぼ」。『砂糖壺』(2004)所収。(清水哲男)
June 23 2008
いつせいに子らゐなくなる夏座敷
金子 敦
親戚一同が集まっての法事の座敷だろうか。私にも何度も体験はあるが、故人にさして思い入れがない場合には、ゆっくりと進行する決まりごとに、大人でもいらいらするときがある。ましてや子供にとっては退屈千万。窓の外は日差しが強く、室内が明るいだけに、余計に苛々してしまうのだ。それでも神妙なふりをして坊さんの読経などを聞いているうちに、やっと式次第が終了し、さあ子供は外で遊んできてもいいよということになる。むろん、しびれをきらしていた子供らはまさに「いっせいに」外に出て行ってしまう。残る子なんて、いやしない。なんということもない情景ではあるけれど、この句は実は大人も同時に解放された気分が隠し味になっているのであって、そこらへんが実に巧みに詠まれている。余談めくが、しかし何かとわずらわしい子供らがこういう場所に集まることそれ自体が、この親族一同にとっての盛りの時期だったことが、後になるとよくわかってくる。少子化ということもあり、こんな情景も今ではなかなかお目にかかれなくなってきているのかもしれない。『冬夕焼』(2008)所収。(清水哲男)
March 24 2009
朧夜のぽこんと鳴りし流し台
金子 敦
身の回りのものが立てる音には、住人にそっと寄り添うような優し気なものと、ぞっと孤独を引き立てる音とがある。前者は、階段がきゅーと鳴る場所だったり(暗闇のなかわざわざ踏んで下りたりする)、水道の出だしのキョッという音(あ、準備して待っていたんですがついうっかり眠ってしまって、ちょっと驚いちゃいましたよ、という感じ)などは、思わず「一緒に暮らしているんだね」と微笑みかけたくなる。しかし、掲句の「ぽこん」は後者である。この音に聞き覚えのある方は、インスタント焼きそばの湯切り経験者だと確信する。流し台に熱い湯を捨てるとき、必ずステンレスが「ぽこん」というか「ぼこっ」と音を立てる。それはもう、とてつもなく唐突に孤独を感じさせる音なのである。なるべく音がしないように場所を変えてみたり、少量ずつこぼしてみたりするが、流し台は「どうだ、寂しいだろう」とばかりに必ず鳴る。固く錠をかけていた胸の奥の扉が開き、潤んだ春の夜がするするっと忍び込んでくる。『冬夕焼』(2008)所収。(土肥あき子)
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