武装グループが24時間以内に人質解放とアルジャジーラTVが報道。午前三時。




2004N411句(前日までの二句を含む)

April 1142004

 パンジーや父の死以後の小平和

                           草間時彦

語は「パンジー」で春。「菫(すみれ)」に分類。自筆年譜の三十九歳の項に「父時光逝去。生涯、身辺から女性の香りが絶えなかった人である。没後、乱れに乱れた家庭の始末に追われる」(1959年11月)とある。いわゆる遊び人だったのだろう。借財も多かったようだ。それでも「菊の香や父の屍へささやく母」「南天や妻の涙はこぼるるまま」と、家族はみな優しかった。句は、そんな迷惑をかけられどおしの父親が逝き、ようやく静かな暮らしを得ての感懐だ。春光を浴びて庭先に咲くパンジーが、ことのほか目に沁みる。どこにでもあるような花だけれど、作者はしみじみと見つめている。心がすさんでいた日々には、こんなにも小さな花に見入ったことはなかっただろう。このときに「パンジー」と「小平和」とはつき過ぎかもしれないが、こういう句ではむしろつき過ぎのほうが効果的だろう。こねくりまわした取りあわせよりも、このほうが安堵した気持ちが素朴に滲み出てくる。つき過ぎも、一概には否定できないのである。それにしても、花の表情とは面白いものだ。我が家の近所には花好きのお宅が多く、それぞれが四季折々に色々な花を咲かせては楽しませてくれる。パンジーなどの小さな花が好きなお宅、辛夷や木蓮など木の花が好きなお宅、あるいは薔薇しか咲かせないお宅や黄色い花にこだわるお宅もあったりする。通りがかりの庭にそうした花々を見かけると、咲かせたお宅の暮らしぶりまでがなんとなく伺えるような気がして微笑ましい。間もなく、いつも通る道のお宅に、私の大好きな小手毬の花が咲く。毎年、楽しみにしている。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 1042004

 クローバ咲き泉光りて十九世紀

                           加藤かけい

語は「クローバ」で春。「苜蓿(うまごやし・もくしゅく)」に分類。正確に言うとクローバと苜蓿は別種であり、前者は「白つめくさ」のことだが、俳句ではこれらを混同して使ってきている。作者は1900年生まれ(1983年没)だから、20世紀の俳人だ。すなわち掲句は、前世紀である「十九世紀」に思いを馳せた句ということになる。世紀を詠み込んだ句は珍しいと言えようが、クローバの咲く野の泉辺に立ったとき、作者の思いはごく自然に、おそらくはヨーロッパ絵画に描かれた野の風景に飛んだのではなかろうか。苜蓿は南ヨーロッパ原産だそうだが、そういうことは知らなくても、いちばん似合いそうなのはヨーロッパの田舎だろう。それも二十世紀でもなく十八世紀以前でもなくて、やはり十九世紀でなければならない。暗黒面だけを探れば、十九世紀のヨーロッパは戦争や殺戮の連続であり、決して句のように明るい時代ではなかった。が、一方では絵画などの芸術が花開いた世紀でもあって、それらの伝える野の風景は多く明るさを湛えていたのだった。暮らしは低くとも思いは高くとでも言おうか、そんなエネルギーに近代日本の芸術文化も多大な影響を受け、今日にいたるも私たちの感性の一部として働いている。二十世紀という世界的にギスギスした社会のなかで、そんなヨーロッパに憧れるのは、もはや戻ってこない青春を哀惜するのに似て、この句は手放しに明るい句柄ながら、底に流れている一抹の悲哀感に気づかされるのだ。ひるがえって、将来「二十世紀」が詠まれることがあるとすれば、どんな句になるのだろうか。少なくとも、明るい世界ではないだろうな。そんなことも思った。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 0942004

 遠足の列大丸の中とおる

                           田川飛旅子

語は「遠足」で春。気候がよいこともあるが、春に遠足が多いのは、新しいクラスメート同士が親しくなる機会を作る意味もありそうだ。来週あたりから、あちこちで見かけることになるだろう。句は戦後四年目の作というから、まだデパートが珍しく思えた時代だ。遠足の行程に、いわゆる社会科見学として組み込まれていたのだろうか。いきなりぞろぞろと、子供たちの一団が「大丸」デパートの中に入ってきた。今とは違い、当時の子供らはこういう場所ではあまり騒がなかったような気がする。周囲のきらびやかな環境に気圧されるばかりで、さすがの悪童連も声が出なかったのだ。内弁慶が多かった。しかし、とにかく遠足の列とデパートの店内とでは、あまりに互いの雰囲気がなじまない。作者は客としているわけだが、すぐに遠足だとはわかっても、心理的な対応が追いつかない。あっけにとられたような気分の中を、子供たちが緊張した表情で通っていくのを見やっている。そんなところだろう。こういう遠足もあったのだ。大丸が東京駅に店を構えたのはちょうど50年前の1954年のことなので、作句の舞台は東京ではない。京都か大阪か、あるいは神戸か。いずれにしても関西地方かと思われる。私がはじめて連れていってもらったデパートも関西で、大阪駅前の阪急だった。まだ八歳。覚えているのは、蛇腹式の扉のついたエレベーターに乗ったことくらいで、それこそただただ店内のキラキラした様子に圧倒されっぱなしであった。だから、多少とも掲句の遠足の子供たちの側の気持ちはわかるような気がするのである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます