重苦しい緊張感が続いていますね。やり場の無い感情がぐるぐると渦巻いてます。




2004ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042004

 クローバ咲き泉光りて十九世紀

                           加藤かけい

語は「クローバ」で春。「苜蓿(うまごやし・もくしゅく)」に分類。正確に言うとクローバと苜蓿は別種であり、前者は「白つめくさ」のことだが、俳句ではこれらを混同して使ってきている。作者は1900年生まれ(1983年没)だから、20世紀の俳人だ。すなわち掲句は、前世紀である「十九世紀」に思いを馳せた句ということになる。世紀を詠み込んだ句は珍しいと言えようが、クローバの咲く野の泉辺に立ったとき、作者の思いはごく自然に、おそらくはヨーロッパ絵画に描かれた野の風景に飛んだのではなかろうか。苜蓿は南ヨーロッパ原産だそうだが、そういうことは知らなくても、いちばん似合いそうなのはヨーロッパの田舎だろう。それも二十世紀でもなく十八世紀以前でもなくて、やはり十九世紀でなければならない。暗黒面だけを探れば、十九世紀のヨーロッパは戦争や殺戮の連続であり、決して句のように明るい時代ではなかった。が、一方では絵画などの芸術が花開いた世紀でもあって、それらの伝える野の風景は多く明るさを湛えていたのだった。暮らしは低くとも思いは高くとでも言おうか、そんなエネルギーに近代日本の芸術文化も多大な影響を受け、今日にいたるも私たちの感性の一部として働いている。二十世紀という世界的にギスギスした社会のなかで、そんなヨーロッパに憧れるのは、もはや戻ってこない青春を哀惜するのに似て、この句は手放しに明るい句柄ながら、底に流れている一抹の悲哀感に気づかされるのだ。ひるがえって、将来「二十世紀」が詠まれることがあるとすれば、どんな句になるのだろうか。少なくとも、明るい世界ではないだろうな。そんなことも思った。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 0942004

 遠足の列大丸の中とおる

                           田川飛旅子

語は「遠足」で春。気候がよいこともあるが、春に遠足が多いのは、新しいクラスメート同士が親しくなる機会を作る意味もありそうだ。来週あたりから、あちこちで見かけることになるだろう。句は戦後四年目の作というから、まだデパートが珍しく思えた時代だ。遠足の行程に、いわゆる社会科見学として組み込まれていたのだろうか。いきなりぞろぞろと、子供たちの一団が「大丸」デパートの中に入ってきた。今とは違い、当時の子供らはこういう場所ではあまり騒がなかったような気がする。周囲のきらびやかな環境に気圧されるばかりで、さすがの悪童連も声が出なかったのだ。内弁慶が多かった。しかし、とにかく遠足の列とデパートの店内とでは、あまりに互いの雰囲気がなじまない。作者は客としているわけだが、すぐに遠足だとはわかっても、心理的な対応が追いつかない。あっけにとられたような気分の中を、子供たちが緊張した表情で通っていくのを見やっている。そんなところだろう。こういう遠足もあったのだ。大丸が東京駅に店を構えたのはちょうど50年前の1954年のことなので、作句の舞台は東京ではない。京都か大阪か、あるいは神戸か。いずれにしても関西地方かと思われる。私がはじめて連れていってもらったデパートも関西で、大阪駅前の阪急だった。まだ八歳。覚えているのは、蛇腹式の扉のついたエレベーターに乗ったことくらいで、それこそただただ店内のキラキラした様子に圧倒されっぱなしであった。だから、多少とも掲句の遠足の子供たちの側の気持ちはわかるような気がするのである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0842004

 豆の花校内放送雲に乗る

                           中林明美

語は「豆の花」で春。俳句では、春咲きの蚕豆(そらまめ)と豌豆(えんどう)の花を指す例が多い。家庭菜園だろうか。今年も豆の花が咲いた。晴天好日。それだけでも春の気分は浮き立つのに、近くの学校からは子供の元気な声のアナウンスが流れてくる。校内放送が「雲に乗る」わけだが、作者もなんだかふわふわとした春の雲のなかにたゆたっているような気持ちになっている。とても気持ちのよい句だ。このときに作者の手柄は、「雲に乗る」というような常套語を使いながらも、稚拙な表現に落ちていないところにある。落ちていないのは「豆の花」と「校内放送」との取り合わせの妙によるのであって、両者のいずれかが他の何かであったりすれば、句は一挙に崩れ落ちてしまいかねない。「豆の花」と「校内放送」とはもちろん何の関係もないのだが、しかしこうして並べられてみると、まずは作者の暮らしている日常的な場所がよく見えてくる。つまり、句景が鮮明になる。鮮明だから、小さな豆の花の可憐な明るさと校内放送の元気な声の明るさとが、無理なくつながってくるというわけだ。この作者については、坪内稔典が「明美の俳句は読者の心をきれいにする」と書いていて、私も同感である。そして「読者の心をきれいにする」第一条件は、読者が句を読むに際して余計な詮索の手間をかけさせずに、すっと自分の世界に誘うということだ。そのためには、まずなによりも句景をはっきりさせることが大切だけれど、そのことによる稚拙表現への転落は避けなければならない。ここが難しい。掲句は一見平凡な作品のように写るかもしれないが、この難しさをクリアーした上での「なんでもなさ」だと言っておきたい。句集冒頭の句は「山笑う駅長さんに道を聞く」というものだ。開巻一ページ目からして、大いに心をきれいにしてくれた。『月への道』(2003)所収。(清水哲男)




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