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April 0842004

 豆の花校内放送雲に乗る

                           中林明美

語は「豆の花」で春。俳句では、春咲きの蚕豆(そらまめ)と豌豆(えんどう)の花を指す例が多い。家庭菜園だろうか。今年も豆の花が咲いた。晴天好日。それだけでも春の気分は浮き立つのに、近くの学校からは子供の元気な声のアナウンスが流れてくる。校内放送が「雲に乗る」わけだが、作者もなんだかふわふわとした春の雲のなかにたゆたっているような気持ちになっている。とても気持ちのよい句だ。このときに作者の手柄は、「雲に乗る」というような常套語を使いながらも、稚拙な表現に落ちていないところにある。落ちていないのは「豆の花」と「校内放送」との取り合わせの妙によるのであって、両者のいずれかが他の何かであったりすれば、句は一挙に崩れ落ちてしまいかねない。「豆の花」と「校内放送」とはもちろん何の関係もないのだが、しかしこうして並べられてみると、まずは作者の暮らしている日常的な場所がよく見えてくる。つまり、句景が鮮明になる。鮮明だから、小さな豆の花の可憐な明るさと校内放送の元気な声の明るさとが、無理なくつながってくるというわけだ。この作者については、坪内稔典が「明美の俳句は読者の心をきれいにする」と書いていて、私も同感である。そして「読者の心をきれいにする」第一条件は、読者が句を読むに際して余計な詮索の手間をかけさせずに、すっと自分の世界に誘うということだ。そのためには、まずなによりも句景をはっきりさせることが大切だけれど、そのことによる稚拙表現への転落は避けなければならない。ここが難しい。掲句は一見平凡な作品のように写るかもしれないが、この難しさをクリアーした上での「なんでもなさ」だと言っておきたい。句集冒頭の句は「山笑う駅長さんに道を聞く」というものだ。開巻一ページ目からして、大いに心をきれいにしてくれた。『月への道』(2003)所収。(清水哲男)




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