今宵は中原中也賞受賞の久谷雉君をお祝いする会。まだ十九歳、これからだなあ。




2004ソスN4ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0542004

 入学す戦後飢餓の日生れし子

                           上野 泰

語は「入学」。戦後八年目四月の句だから、入学した子はまさに「飢餓の日」に生まれている。たいへんな食糧難の日々だった。母親の体力は消耗していたろうし、粉ミルクなども満足に手に入らなかったろうし、その他種々の悪条件のなかでの子育てはさぞかし大変なことだったろう。そんな苦労を重ねて育てた子が、今日晴れて入学式を迎えたのだ。作者の父親としての喜びが、じわりと伝わってくる。同じ日の句に「一本の前歯がぬけて入学す」もあり、ユーモラスな図でありながら、前歯がぬけかわるまでに成長したことを喜ぶ親心がしんみりと滲んでいる。ひとり作者にかぎらず、これらは当時の親すべてに共通して当てはまる感慨だ。共通するといえば、どんなに時代が変わっても、とりわけて第一子が入学するときの親の気持ちには、子供が生まれたころの日々の暮らしのことがおのずから想起されるものである。なにせ当たり前のことながら新米の親だったわけだから、赤ん坊についてはわからないことだらけ。ちょっと様子が変だと思うと、育児の本だとか家庭医学書などのページを繰ったりして、ああでもないこうでもあろうかと苦労させられた。加えて、これからの暮らし向きの心配もいろいろとあった。それが、とにもかくにも入学の日を迎えたのだ。やっと人生のスタートラインに立ったにすぎないのだけれど、親にしてみれば何か大きな事業をなしとげたような気にすらなるものなのだ。今年もそんな親たちの感慨を背景にして、全国でたくさんの一年生が誕生する。この子たちの人生に幸多かれと、素直に祈らずにはいられない。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 0442004

 綺麗事並べて春の卓とせり

                           櫂未知子

意は、いかにも春らしい綺麗(きれい)な彩りの物ばかりを並べたてて、テーブルを装ったということだろう。しかし、綺麗事をいくら並べてみても、やはり全体も綺麗事であるにしかすぎない。装った当人が、そのことをいちばん良く知っている。これから来客でもあるのだろうか。気になって、なんとなく気後れがしている。そんな自嘲を含んだ句だ……。おそらく多くの読者はそう読むはずだと思うけれど、なかにはまったく正反対の意味に解する人もいそうである。というのも、綺麗事の本義は単に表面だけを取り繕った綺麗さの意味ではなくて、そのものずばり、良い意味で「物事を手際よく美しく仕上げること」だからだ。この意味で読むと、掲句の解釈はがらりと変わってしまう。我ながら上手に「春の卓」を作れたという満足感に、作者が浸っていることになる。浮き浮きしている図だ。どちらの解釈を、作者は求めているのだろうか。もとより、私にもわかりっこない。けれども、今日では本義はすっかり忘れ去られているようなので、やはり前者と取るのが自然ではあるのだろう。「君の仕事はいつも綺麗事だ」と言われて、ニコニコする人はまずいないはずだからだ。すなわち、綺麗事の本義はもはや死んでしまったと言ってもよい。同様の例には、たとえば「笑止千万」がある。本義は「悲しくて笑いなどは出てこない」だが、現今では逆の意味でしか通用しない。どうして、こんなにも正反対の転倒が起きるのか。言葉とは面白いものだ。ところで最近、柳家小三治のトークショーの録音を聞いていたら、この「綺麗事」を本義で使っているシーンに出くわした。となれば、落語の世界などではむしろ良い意味で使うことが多いのだろうか。本義の綺麗事に感心する小三治の咄を聞いていて、とても懐しいような気分がした。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


April 0342004

 春あけぼの川舟に隕石が墜ちる

                           金子兜太

語は「春あけぼの」で「春暁(しゅんぎょう)」に分類。また、むろんご存知とは思いますが、いちおう「隕石(いんせき)」の定義を復習しておきましょう。「■隕石(meteorite)。地球外から地球に飛び込んできた固体惑星物質の総称。その大部分は、火星と木星の間に位置する小惑星帯から由来したものであり、45.5億年前の原始太陽系の中で形成された小天体の破片である。しかしその一部には、彗星(すいせい)の残骸(ざんがい)と考えられるもの、あるいは火星、月の表面物質が、なんらかの衝撃によって飛散したと思われるものも混在する・(C)小学館」。句は、東の空がほのぼのとしらみかける時分の川の情景だ。舫ってある「川舟」が、夜の闇の底から徐々に輪郭をあらわしはじめている。薄もやのかかった川辺に、人影や動くものは見られない。さながら一幅の日本画にでもなりそうな春暁の刻の静かな川景色だ。そしてもしも作者が日本画の描き手であれば、絵はここで止めておくだろう。せっかくの静寂な光景に、あたら波風を立てるようなことはしたくないだろう。つまり、「すべて世は事もなし」と満足するのである。もちろん、そのような抒情性も悪くはない。が、現代人の感覚からすると、何か物たらない恨みは残る。古くさいのだ。そこで作者は、はるかな宇宙空間から「隕石」をいくつか「墜」としてみた。と、パッと情景は新しいそれに切り替わった。といって、この隕石の落下が古い抒情性を少しも壊していないところに注目しよう。壊しているどころか、それを補強しリフレッシュし、厚みさえ加えている。気の遠くなるような時間をかけて暗黒空間を経由してきた隕石が、いま地球の川舟とともに春暁のなかに姿をあらわした。その新鮮で大きく張った抒情性こそは、すぐれて現代的と言うべきである。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)




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