いきなり阪神巨人の激突だ。岡田堀内両新監督のお手並み拝見。秋まで楽しもう。




2004ソスN4ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0242004

 別々に拾ふタクシー花の雨

                           岡田史乃

語は「花の雨」。せっかくの花見だったのに、雨が降ってきたので早々に切り上げてバラバラにタクシーで帰る。散々だ。とも読めなくはないけれど、そう読んだのでは面白くない。むしろ作者は多忙ゆえか他の何かへの関心事のせいで、花のことなどあまり頭になかったと解すべきではなかろうか。誰かと会って話し込み、表に出てみたらあいにくの雨になっていた。傘を持ってこなかったから仕方なくタクシーで帰らざるをえず、お互い別方向なので「別々に拾ふ」ことになった。そこでその人とは別れ、タクシーを探す目で街路をあちこち見つめているうちに、遠くの方に咲いた桜が雨に煙っている様子がうかがわれたのだろう。そこで、ああ今年も花の季節が来ているのだと、作者はいまさらのように気づいたのだった。さすれば、この雨は「花の雨」だとも……。このとき、タクシーを別々に拾うという日常的な散文的行為に舞い降りたような季節感は、はからずも作者の気持ちを淡い抒情性でくるむことになったのである。そしてまた、その照り返しのようにして、つい先ほどまで会っていた相手との関係に散文性を越えた何かを感じたような気がする。シチュエーションは違うにしても、こういう感じは誰にもしばしば起きることだろう。たいていはその場かぎりで忘れてしまう感情だが、掲句のように詠み止めてみるとなかなかに味わい深いものとなる。とはいえ、この種の感情をもたらしたシーンを、的確に詠み込むシャッター・チャンスを掴まえるのは非常に難しい。だからこの句には、苦もなく詠まれているようでいて、いざ真似をして作ってみると四苦八苦してしまうような句のサンプルみたいなところもある。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


April 0142004

 白飯に女髪かくれて四月馬鹿

                           秋元不死男

語は「四月馬鹿」だが、さあ、わからない。わかるのは「白飯」とあるから、白い米の飯に乏しかった戦中戦後の食料難の時代の作句だという程度のことである。そこで、ああでもないこうでもないと散々考えた末に、勝手にこう読むことに決めた。したがって、これから書くことは大嘘かもしれません(笑)。まず漢字の読みだが、「白飯」は往時の流行語で「ギンシャリ」を当て、「女髪」は「メガミ」と読んでみた。「メガミ」は「女神」に通じていて、しかし作者の眼前にいる女性をそう呼ぶのは照れ臭いので、少し引いて「女髪」とし、髪の美しさだけを象徴的に匂わせたという(珍)解釈だ。ただし、古来「女の髪の毛には大象も繋がる」と言うから、まんざら的外れでもないかもしれない。こう読んでしまうと句意はおのずから明らかとなる。すなわち、色気よりも食い気先行ということ。久しぶりの「ギンシャリ」にありついて、その誘惑の力の前には「女神」も「女髪」もあらばこそ、「白飯」の魅力に色気はどこかにすっ飛んでしまったと言うのである。すなわち自嘲的「四月馬鹿」の句であり、可笑しくも物悲しい味のする句だ。おそらく同時代の作句と思われる句に、原田種茅の「四月馬鹿ホームのこぼれ米を踏む」がある。闇屋がこぼしていった米粒だろう。気づかずに踏んでしまってから、「痛いっ」と感じている。人目がなければそっとかき寄せて、拾って帰りたいほどの「米」を踏んでしまった「馬鹿」。半世紀前には、こんな現実があったのだ。それにつけても、昔から「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、しかし、足りすぎると今度は現今の我が国のようなテイタラクとはあいなってしまう。そういえば、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とも言うんだっけ。まことに中庸の道を行くとは難しいものである。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


March 3132004

 蝌蚪うごく火星に水のありしかな

                           八木幹夫

語は「蝌蚪(かと)」で春。「おたまじゃくし」のこと。時事句と言ってよいだろう。今月はじめにアメリカ航空宇宙局(NASA)の科学者チームが、無人探査車『オポチュニティー』が火星上にかつて生命を支えるのに十分なほどの水が存在していた証拠を発見した、との発表を受けている。残念なことに生物体が存在した痕跡は見つからなかったそうだが、火星人を空想した昔から、地球とは違う星の生命体に対する私たち人間の関心は高かった。存在する(した)とすれば、いったいどんき生き物なのだろうか。人間に似ているのか、それとも植物のようなものなのか、あるいはまた地球上の諸生物とはまったく形状の異なったものなのか。等々、空想や想像をしはじめたらキリがない。でも最近では、火星には生命体の存在できる物質的諸条件は無いという説が有力視されていたために、なんとなく皆がっかりしていた。そこに、今度の発表だ。再び私たちの想像力は息を吹き返し、好奇心に火がつく恰好になった。そこらへんの「蝌蚪」を見ている作者の頭にも、それがあったに違いない。自然に火星の生物へと思いが飛び、存在したとすれば、たとえばこんな姿だったのだろうかと、ぼんやりと想像している。このときに「蝌蚪泳ぐ」ではなく「うごく」としたところが、秀逸だ。「泳ぐ」などではあまりに地球的で人間臭い表現になってしまう。そうではなくて、火星の見知らぬ生物は地球人が見たこともない不気味な「うごき」をするはずなのだ。だから、この句では「うごく」しかない。いずれにせよ、こうした新しい話題を取り込む俳句は少ないということもあり、貴重な一句として書き留めておきたい。第52回「余白句会」(2004年3月28日)出句四句のうち。(清水哲男)




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