2004N4句

April 0142004

 白飯に女髪かくれて四月馬鹿

                           秋元不死男

語は「四月馬鹿」だが、さあ、わからない。わかるのは「白飯」とあるから、白い米の飯に乏しかった戦中戦後の食料難の時代の作句だという程度のことである。そこで、ああでもないこうでもないと散々考えた末に、勝手にこう読むことに決めた。したがって、これから書くことは大嘘かもしれません(笑)。まず漢字の読みだが、「白飯」は往時の流行語で「ギンシャリ」を当て、「女髪」は「メガミ」と読んでみた。「メガミ」は「女神」に通じていて、しかし作者の眼前にいる女性をそう呼ぶのは照れ臭いので、少し引いて「女髪」とし、髪の美しさだけを象徴的に匂わせたという(珍)解釈だ。ただし、古来「女の髪の毛には大象も繋がる」と言うから、まんざら的外れでもないかもしれない。こう読んでしまうと句意はおのずから明らかとなる。すなわち、色気よりも食い気先行ということ。久しぶりの「ギンシャリ」にありついて、その誘惑の力の前には「女神」も「女髪」もあらばこそ、「白飯」の魅力に色気はどこかにすっ飛んでしまったと言うのである。すなわち自嘲的「四月馬鹿」の句であり、可笑しくも物悲しい味のする句だ。おそらく同時代の作句と思われる句に、原田種茅の「四月馬鹿ホームのこぼれ米を踏む」がある。闇屋がこぼしていった米粒だろう。気づかずに踏んでしまってから、「痛いっ」と感じている。人目がなければそっとかき寄せて、拾って帰りたいほどの「米」を踏んでしまった「馬鹿」。半世紀前には、こんな現実があったのだ。それにつけても、昔から「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、しかし、足りすぎると今度は現今の我が国のようなテイタラクとはあいなってしまう。そういえば、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とも言うんだっけ。まことに中庸の道を行くとは難しいものである。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 0242004

 別々に拾ふタクシー花の雨

                           岡田史乃

語は「花の雨」。せっかくの花見だったのに、雨が降ってきたので早々に切り上げてバラバラにタクシーで帰る。散々だ。とも読めなくはないけれど、そう読んだのでは面白くない。むしろ作者は多忙ゆえか他の何かへの関心事のせいで、花のことなどあまり頭になかったと解すべきではなかろうか。誰かと会って話し込み、表に出てみたらあいにくの雨になっていた。傘を持ってこなかったから仕方なくタクシーで帰らざるをえず、お互い別方向なので「別々に拾ふ」ことになった。そこでその人とは別れ、タクシーを探す目で街路をあちこち見つめているうちに、遠くの方に咲いた桜が雨に煙っている様子がうかがわれたのだろう。そこで、ああ今年も花の季節が来ているのだと、作者はいまさらのように気づいたのだった。さすれば、この雨は「花の雨」だとも……。このとき、タクシーを別々に拾うという日常的な散文的行為に舞い降りたような季節感は、はからずも作者の気持ちを淡い抒情性でくるむことになったのである。そしてまた、その照り返しのようにして、つい先ほどまで会っていた相手との関係に散文性を越えた何かを感じたような気がする。シチュエーションは違うにしても、こういう感じは誰にもしばしば起きることだろう。たいていはその場かぎりで忘れてしまう感情だが、掲句のように詠み止めてみるとなかなかに味わい深いものとなる。とはいえ、この種の感情をもたらしたシーンを、的確に詠み込むシャッター・チャンスを掴まえるのは非常に難しい。だからこの句には、苦もなく詠まれているようでいて、いざ真似をして作ってみると四苦八苦してしまうような句のサンプルみたいなところもある。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


April 0342004

 春あけぼの川舟に隕石が墜ちる

                           金子兜太

語は「春あけぼの」で「春暁(しゅんぎょう)」に分類。また、むろんご存知とは思いますが、いちおう「隕石(いんせき)」の定義を復習しておきましょう。「■隕石(meteorite)。地球外から地球に飛び込んできた固体惑星物質の総称。その大部分は、火星と木星の間に位置する小惑星帯から由来したものであり、45.5億年前の原始太陽系の中で形成された小天体の破片である。しかしその一部には、彗星(すいせい)の残骸(ざんがい)と考えられるもの、あるいは火星、月の表面物質が、なんらかの衝撃によって飛散したと思われるものも混在する・(C)小学館」。句は、東の空がほのぼのとしらみかける時分の川の情景だ。舫ってある「川舟」が、夜の闇の底から徐々に輪郭をあらわしはじめている。薄もやのかかった川辺に、人影や動くものは見られない。さながら一幅の日本画にでもなりそうな春暁の刻の静かな川景色だ。そしてもしも作者が日本画の描き手であれば、絵はここで止めておくだろう。せっかくの静寂な光景に、あたら波風を立てるようなことはしたくないだろう。つまり、「すべて世は事もなし」と満足するのである。もちろん、そのような抒情性も悪くはない。が、現代人の感覚からすると、何か物たらない恨みは残る。古くさいのだ。そこで作者は、はるかな宇宙空間から「隕石」をいくつか「墜」としてみた。と、パッと情景は新しいそれに切り替わった。といって、この隕石の落下が古い抒情性を少しも壊していないところに注目しよう。壊しているどころか、それを補強しリフレッシュし、厚みさえ加えている。気の遠くなるような時間をかけて暗黒空間を経由してきた隕石が、いま地球の川舟とともに春暁のなかに姿をあらわした。その新鮮で大きく張った抒情性こそは、すぐれて現代的と言うべきである。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)


April 0442004

 綺麗事並べて春の卓とせり

                           櫂未知子

意は、いかにも春らしい綺麗(きれい)な彩りの物ばかりを並べたてて、テーブルを装ったということだろう。しかし、綺麗事をいくら並べてみても、やはり全体も綺麗事であるにしかすぎない。装った当人が、そのことをいちばん良く知っている。これから来客でもあるのだろうか。気になって、なんとなく気後れがしている。そんな自嘲を含んだ句だ……。おそらく多くの読者はそう読むはずだと思うけれど、なかにはまったく正反対の意味に解する人もいそうである。というのも、綺麗事の本義は単に表面だけを取り繕った綺麗さの意味ではなくて、そのものずばり、良い意味で「物事を手際よく美しく仕上げること」だからだ。この意味で読むと、掲句の解釈はがらりと変わってしまう。我ながら上手に「春の卓」を作れたという満足感に、作者が浸っていることになる。浮き浮きしている図だ。どちらの解釈を、作者は求めているのだろうか。もとより、私にもわかりっこない。けれども、今日では本義はすっかり忘れ去られているようなので、やはり前者と取るのが自然ではあるのだろう。「君の仕事はいつも綺麗事だ」と言われて、ニコニコする人はまずいないはずだからだ。すなわち、綺麗事の本義はもはや死んでしまったと言ってもよい。同様の例には、たとえば「笑止千万」がある。本義は「悲しくて笑いなどは出てこない」だが、現今では逆の意味でしか通用しない。どうして、こんなにも正反対の転倒が起きるのか。言葉とは面白いものだ。ところで最近、柳家小三治のトークショーの録音を聞いていたら、この「綺麗事」を本義で使っているシーンに出くわした。となれば、落語の世界などではむしろ良い意味で使うことが多いのだろうか。本義の綺麗事に感心する小三治の咄を聞いていて、とても懐しいような気分がした。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


April 0542004

 入学す戦後飢餓の日生れし子

                           上野 泰

語は「入学」。戦後八年目四月の句だから、入学した子はまさに「飢餓の日」に生まれている。たいへんな食糧難の日々だった。母親の体力は消耗していたろうし、粉ミルクなども満足に手に入らなかったろうし、その他種々の悪条件のなかでの子育てはさぞかし大変なことだったろう。そんな苦労を重ねて育てた子が、今日晴れて入学式を迎えたのだ。作者の父親としての喜びが、じわりと伝わってくる。同じ日の句に「一本の前歯がぬけて入学す」もあり、ユーモラスな図でありながら、前歯がぬけかわるまでに成長したことを喜ぶ親心がしんみりと滲んでいる。ひとり作者にかぎらず、これらは当時の親すべてに共通して当てはまる感慨だ。共通するといえば、どんなに時代が変わっても、とりわけて第一子が入学するときの親の気持ちには、子供が生まれたころの日々の暮らしのことがおのずから想起されるものである。なにせ当たり前のことながら新米の親だったわけだから、赤ん坊についてはわからないことだらけ。ちょっと様子が変だと思うと、育児の本だとか家庭医学書などのページを繰ったりして、ああでもないこうでもあろうかと苦労させられた。加えて、これからの暮らし向きの心配もいろいろとあった。それが、とにもかくにも入学の日を迎えたのだ。やっと人生のスタートラインに立ったにすぎないのだけれど、親にしてみれば何か大きな事業をなしとげたような気にすらなるものなのだ。今年もそんな親たちの感慨を背景にして、全国でたくさんの一年生が誕生する。この子たちの人生に幸多かれと、素直に祈らずにはいられない。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 0642004

 山やくや舟の片帆の片あかり

                           久芳水颯

語は「山やく(山焼く)」で春。野山の枯草や枯木を焼き払うこと。かつて焼畑農業が行われていたころ、山岳では山を焼き、その跡地にソバ、ヒエなどを蒔いた。害虫駆除の意味合いもあったようだ。たまには、こんな句もよいものである。まるで良く出来た小唄か民謡の一節のように小粋な味がする。河か湖か、あるいは海の近くなのかもしれない。いずれにしても、山焼きの火の明りが水辺にまで届いてきて、行く舟の片帆に映っている。それを「片あかり」と叙したところが、小憎らしいほどに巧みだ。山焼きと舟との取り合わせも珍しく、しかしべつだん手柄顔もせずにさらりと言い捨てているあたりが粋なのだ。この句は、元禄期の無名俳人ばかりのアンソロジーである柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)に出ている。宵曲は句の景を指して「西洋画にでもありそうな景色」と評しているが、そんなモダンな彩りを持つ粋加減でもある。ところで山焼きと舟の取りあわせといえば、後の世の一茶にもわりに有名な句がある。「山焼の明りに下る夜舟の火」が、それだ。が、掲句と比べてしまうと、いかにも野暮ったい感は拭えない。理由を、宵曲が次のように書いているので紹介しておく。「『七番日記』には「夜舟かな」となっているが、その方がかえっていいかも知れない。山焼の明りが火である上に、更に火を点ずるのは、句として働きがないからである。片帆に片明りするの遥(はるか)に印象的なるに如かぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる」。(清水哲男)


April 0742004

 けろりくわんとして柳と烏かな

                           小林一茶

語は「柳」で春。「梅にウグイス」や「枯れ枝にカラス」ならば絵になるけれど、「柳にカラス」ではなんともサマにならない。しかし、現実には柳にカラスがとまることもあるわけで、絵になるもならぬも、彼らの知ったことではないのである。ただ人間の目からすると、この取り合わせはどことなく滑稽に映るし、両者ともに互いのミスマッチに気がつかないままキョトンとしているふうに見えてしまう。その様子を指して「けろりくわん」とは言い得て妙だ。眉間に皴を寄せて作句するような俳人には絶対に詠めない句で、こういうところに一茶の愛される所以があるのだろう。柳といえば、こんな句もある。「柳からももんがあと出る子かな」。垂れている柳の葉を髪の毛のように見せかけ、誰かを驚かそうと「ももんがあ」のように肘をはりながら「子」が突然に姿を現わしたというのである。「お化けだぞおっ」というわけだが、むろん怖くも何ともない。しかし一茶は、しなだれている柳の葉を頭髪に見立てた子供の知恵に感心しつつ微笑している。このあたりにもまた、芭蕉や蕪村などとは違って、常に庶民の生活に目を向けつづけた彼の真骨頂がよく出ていると言えよう。一茶という俳人は、最後までごく普通の生活者として生きようとした人であり、芭蕉的な隠者風エリート志向を嫌った人だった。どちらが良いというものでもなかろうが、俳句三百年余の流れを見ていると、この二様のあり方は現代においても継承されていることがわかる。そして、とかく真面目好みの日本人には芭蕉的なる世界をありがたがる性向が強く、一茶的なるそれをどこかで軽んじていることもよくわかってくる。が、それでよいのだろうか。それこそ真面目に、この問題は考えられなければならないと思う(清水哲男)


April 0842004

 豆の花校内放送雲に乗る

                           中林明美

語は「豆の花」で春。俳句では、春咲きの蚕豆(そらまめ)と豌豆(えんどう)の花を指す例が多い。家庭菜園だろうか。今年も豆の花が咲いた。晴天好日。それだけでも春の気分は浮き立つのに、近くの学校からは子供の元気な声のアナウンスが流れてくる。校内放送が「雲に乗る」わけだが、作者もなんだかふわふわとした春の雲のなかにたゆたっているような気持ちになっている。とても気持ちのよい句だ。このときに作者の手柄は、「雲に乗る」というような常套語を使いながらも、稚拙な表現に落ちていないところにある。落ちていないのは「豆の花」と「校内放送」との取り合わせの妙によるのであって、両者のいずれかが他の何かであったりすれば、句は一挙に崩れ落ちてしまいかねない。「豆の花」と「校内放送」とはもちろん何の関係もないのだが、しかしこうして並べられてみると、まずは作者の暮らしている日常的な場所がよく見えてくる。つまり、句景が鮮明になる。鮮明だから、小さな豆の花の可憐な明るさと校内放送の元気な声の明るさとが、無理なくつながってくるというわけだ。この作者については、坪内稔典が「明美の俳句は読者の心をきれいにする」と書いていて、私も同感である。そして「読者の心をきれいにする」第一条件は、読者が句を読むに際して余計な詮索の手間をかけさせずに、すっと自分の世界に誘うということだ。そのためには、まずなによりも句景をはっきりさせることが大切だけれど、そのことによる稚拙表現への転落は避けなければならない。ここが難しい。掲句は一見平凡な作品のように写るかもしれないが、この難しさをクリアーした上での「なんでもなさ」だと言っておきたい。句集冒頭の句は「山笑う駅長さんに道を聞く」というものだ。開巻一ページ目からして、大いに心をきれいにしてくれた。『月への道』(2003)所収。(清水哲男)


April 0942004

 遠足の列大丸の中とおる

                           田川飛旅子

語は「遠足」で春。気候がよいこともあるが、春に遠足が多いのは、新しいクラスメート同士が親しくなる機会を作る意味もありそうだ。来週あたりから、あちこちで見かけることになるだろう。句は戦後四年目の作というから、まだデパートが珍しく思えた時代だ。遠足の行程に、いわゆる社会科見学として組み込まれていたのだろうか。いきなりぞろぞろと、子供たちの一団が「大丸」デパートの中に入ってきた。今とは違い、当時の子供らはこういう場所ではあまり騒がなかったような気がする。周囲のきらびやかな環境に気圧されるばかりで、さすがの悪童連も声が出なかったのだ。内弁慶が多かった。しかし、とにかく遠足の列とデパートの店内とでは、あまりに互いの雰囲気がなじまない。作者は客としているわけだが、すぐに遠足だとはわかっても、心理的な対応が追いつかない。あっけにとられたような気分の中を、子供たちが緊張した表情で通っていくのを見やっている。そんなところだろう。こういう遠足もあったのだ。大丸が東京駅に店を構えたのはちょうど50年前の1954年のことなので、作句の舞台は東京ではない。京都か大阪か、あるいは神戸か。いずれにしても関西地方かと思われる。私がはじめて連れていってもらったデパートも関西で、大阪駅前の阪急だった。まだ八歳。覚えているのは、蛇腹式の扉のついたエレベーターに乗ったことくらいで、それこそただただ店内のキラキラした様子に圧倒されっぱなしであった。だから、多少とも掲句の遠足の子供たちの側の気持ちはわかるような気がするのである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1042004

 クローバ咲き泉光りて十九世紀

                           加藤かけい

語は「クローバ」で春。「苜蓿(うまごやし・もくしゅく)」に分類。正確に言うとクローバと苜蓿は別種であり、前者は「白つめくさ」のことだが、俳句ではこれらを混同して使ってきている。作者は1900年生まれ(1983年没)だから、20世紀の俳人だ。すなわち掲句は、前世紀である「十九世紀」に思いを馳せた句ということになる。世紀を詠み込んだ句は珍しいと言えようが、クローバの咲く野の泉辺に立ったとき、作者の思いはごく自然に、おそらくはヨーロッパ絵画に描かれた野の風景に飛んだのではなかろうか。苜蓿は南ヨーロッパ原産だそうだが、そういうことは知らなくても、いちばん似合いそうなのはヨーロッパの田舎だろう。それも二十世紀でもなく十八世紀以前でもなくて、やはり十九世紀でなければならない。暗黒面だけを探れば、十九世紀のヨーロッパは戦争や殺戮の連続であり、決して句のように明るい時代ではなかった。が、一方では絵画などの芸術が花開いた世紀でもあって、それらの伝える野の風景は多く明るさを湛えていたのだった。暮らしは低くとも思いは高くとでも言おうか、そんなエネルギーに近代日本の芸術文化も多大な影響を受け、今日にいたるも私たちの感性の一部として働いている。二十世紀という世界的にギスギスした社会のなかで、そんなヨーロッパに憧れるのは、もはや戻ってこない青春を哀惜するのに似て、この句は手放しに明るい句柄ながら、底に流れている一抹の悲哀感に気づかされるのだ。ひるがえって、将来「二十世紀」が詠まれることがあるとすれば、どんな句になるのだろうか。少なくとも、明るい世界ではないだろうな。そんなことも思った。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 1142004

 パンジーや父の死以後の小平和

                           草間時彦

語は「パンジー」で春。「菫(すみれ)」に分類。自筆年譜の三十九歳の項に「父時光逝去。生涯、身辺から女性の香りが絶えなかった人である。没後、乱れに乱れた家庭の始末に追われる」(1959年11月)とある。いわゆる遊び人だったのだろう。借財も多かったようだ。それでも「菊の香や父の屍へささやく母」「南天や妻の涙はこぼるるまま」と、家族はみな優しかった。句は、そんな迷惑をかけられどおしの父親が逝き、ようやく静かな暮らしを得ての感懐だ。春光を浴びて庭先に咲くパンジーが、ことのほか目に沁みる。どこにでもあるような花だけれど、作者はしみじみと見つめている。心がすさんでいた日々には、こんなにも小さな花に見入ったことはなかっただろう。このときに「パンジー」と「小平和」とはつき過ぎかもしれないが、こういう句ではむしろつき過ぎのほうが効果的だろう。こねくりまわした取りあわせよりも、このほうが安堵した気持ちが素朴に滲み出てくる。つき過ぎも、一概には否定できないのである。それにしても、花の表情とは面白いものだ。我が家の近所には花好きのお宅が多く、それぞれが四季折々に色々な花を咲かせては楽しませてくれる。パンジーなどの小さな花が好きなお宅、辛夷や木蓮など木の花が好きなお宅、あるいは薔薇しか咲かせないお宅や黄色い花にこだわるお宅もあったりする。通りがかりの庭にそうした花々を見かけると、咲かせたお宅の暮らしぶりまでがなんとなく伺えるような気がして微笑ましい。間もなく、いつも通る道のお宅に、私の大好きな小手毬の花が咲く。毎年、楽しみにしている。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 1242004

 人体冷えて東北白い花盛り

                           金子兜太

語で「花」といえば桜を指すのが普通だ(当歳時記では便宜上「花」に分類)が、さて、この花はいったいなんの花だろうか。桜と解しても構わないとは思うけれど、「白い花」だから林檎か辛夷などの花かもしれない。戦後の岡本敦郎が歌った流行歌に「♪白い花が咲いてた……」というのがあって、詞からはなんの花かはわからないのだけれど、遠い日の故郷に咲いていた花としての情感がよく出ていたことを思い出す。掲句にあっても、花の種類はなんでもよいのである。注目すべきは「人体」で、「身体」でもなく「体」でもなく、生身の身体や体をあえて物自体として突き放した表現にしたところが句の命だ。つまり、作者自身や人々の寒くて冷えている身体や体に主情を入れずに、大いなる東北の風土のなかで「花」同様に点景化している。もう少し言えば、ここには春とは名のみの寒さにかじかんでいる主情的な自分と、そんな自分を含めた東北地方の人々と風土全体を客観的俯瞰的に眺めているもう一人の自分を設定したということだ。この、いわば複眼の視点が、句を大きくしている。と同時に、東北地方独特の春のありようのニュアンスを微細なところで押さえてもいる。一般的に俳句は徹底した客観写生を貫いた作品といえどもが、最後には主情に落とすと言おうか、主情に頼る作品が圧倒的多数であるなかで、句の複眼設定による方法はよほど異色である。読者は詠まれた景の主情的抒情的な解釈にも落ちるだろうが、それだけにとどまらず、直接的には何も詠まれていない東北の風土全体への思いを深く呼び起こされるのだ。発表時より注目を集めた句だが、けだし名句と言ってよいだろう。『蜿蜿』(1968)所収。(清水哲男)


April 1342004

 春の雲よりノンちゃんの声聞こゆ

                           金子 敦

語は「春の雲」。白い綿のようにふわりと浮いていて、ときに淡い愁いを含んでいるようにも感じられる。句は、そんな雲を眺めていたら、ふっと「ノンちゃん」の声が聞こえてくるような気がしたというのである。郷愁の句だ。「ノンちゃん」は、石井桃子の書いた『ノンちゃん雲に乗る』の主人公の女の子だ。この本は戦後間もなく刊行され、多くの子供たちに読まれたようだが、今でも読まれているのかしらん。私は、田舎の小学校の学級文庫にあったのを読んだ。正直に言って、血わき肉躍る小説や講談本が好きだった私には、あまり面白い本ではなかった。主人公が女の子だったせいもあるのだろう。それも、良い子で優等生の……。したがってストーリーもよく覚えていないのだけれど、しかし「雲に乗る」という発想には心魅かれたようで、やはりふっと掲句の作者と同じような気持ちになったりすることはある。雲に乗った(本当は、池の水に映った雲の上の世界に落ちた)ノンちゃんは、雲の上のおじいさんと実にいろいろな話をしていた。その二人のやりとりする様子がぼんやりと思い出され、そのうちに本を読んだ当時の現実の生活のあれこれの断片的記憶が浮び上ってきて、妙に甘酸っぱいような気分になるのである。紙に書かれた物語だから、むろんノンチャンの声は誰も聞いたことはない。でも、作者には声が聞こえている。ここが句の眼目で、春の雲の夢うつつの感じとよく溶け合っている。同じ作者で、もう一句。「雲に乗る仕度してをりつくしんぼ」。『砂糖壺』(2004)所収。(清水哲男)


April 1442004

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

語は「山吹」で春。山道だろうか、それともコンクリートで舗装された都会の道だろうか。どちらでもよいと思う。いずれにしても、一枝の山吹が「ちぎり捨て」られている情景だ。しかし作者はそれを見て、心無い人の仕業に憤っているのでもなければ、可哀想にと拾い上げようとしているわけでもない。そうした感傷の心は働いていない。ただただ、打ち捨てられている山吹の生々しさに、少し大袈裟に言えば息をのんでいるのである。「花と葉と」というわざわざの念押しに、瞬時かもしれないが、凝視する作者の様子が重ねられている。このとき、たとえ近くに山吹の花が咲き乱れていようとも、最も存在感があるのはちぎり捨てられた花のほうだろう。木から落ちた果実だとか、巣からこぼれた雛だとかと同じことで、本来そこにはないはずの事物がそこに存在するときに、それらはひどく生々しく写り、思いがけない衝撃を私たちにもたらす。ときにそれらは、生臭いほどにまで生々しい。句は淡々とした写生句ながら、いや淡々と詠まれているだけに、逆に捨てられた山吹の生々しさがよく伝わってくる。主観や主情を排した写生的方法の手柄と言うべきか。作者とともに読者も、しばしこの山吹を凝視することになるのである。爽波は、初期に「写生の世界は自由闊達の世界である」と言った人だ。掲句では捨てられた山吹だけを写生しているわけだが、そのことによって、なるほど自由闊達な広い世界へと読者を誘っていく。俳句手法の持つ不思議なところでもあり、不可解なところでもあり、また魅力的なところでもある。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


April 1542004

 鞦韆は垂れ罠はいま狭められ

                           藤田湘子

語は「鞦韆(しゅうせん)」で春。「ぶらんこ」のこと。古く中国から入ってきた遊具で、元来は大人のものだったという。句のそれは、現代の公園などに設置された子供用だ。うららかな春の日の昼下りだろう。誰も乗っていない鞦韆が、静かに垂れ下がっている。子供たちが学校に行っている時間に、よく見かける光景だ。静謐で平和な時間が流れている。と、ここまでは実景であるが、いきなり出てきた「罠(わな)」以降は作者のいわば心象風景だ。作者の身に、眼前の平和な情景にそぐわない、何か切迫した事情でもあったのか。それとも、あまりに平穏な光景ゆえに、かえって漠然たる不安の感情が頭をもたげたのでもあろうか。おのれ自身を、あるいは他の誰かを陥れるための「罠」が、公園のどこかに仕掛けられているような気分になってしまった。しかも、その罠が「いま」じわりと「狭められ」たような気分に……。同じ時期の句に「山吹やこの世にありて男の身」が見られるので、一家の主人たる作者の暮らしに関わっての不安材料や不安条件を、象徴的に「罠」と詠んだのかもしれない。そんなふうに作者の不安の根を忖度すると、鞦韆というまことにおおらかな遊具と、罠というまことに不気味な仕掛けとの一見突飛とも思える取り合わせが、実によく無理なく効いてくる。しかもそのうちに、作者の不安は読者のそれに乗り変わるようにも感じられてきて、いつしかうららかな春の日の公園風景が陰画と化していくようでもある。さながらボディブローを効果的に打ち込まれたように、時間の経過とともに心の重さが増してくる句だ。『一個』(1984)所収。(清水哲男)


April 1642004

 棟上げや春泥をくる祝酒

                           鶴田恭子

語は「春泥」。家の新築は、一世一代の大事業だ。作者の家の新築か他家のそれかはわからないが、句の全体に滲んでいるのは、新築主の誇らかな喜びである。苦労の果てにやっと「棟上げ(むねあげ)」にまで辿り着いた安堵心と達成感とが、春泥の道を運ばれてくる「祝酒」を通して、婉曲に表現されている。施主にしてみれば「やったぞ」と誰かれに叫びたいくらいの気持ちではあろうが、そこをぐっと抑えるのが美徳というものだ。ひとりでにこぼれてくる笑みを噛みしめるようにして上げた目に、春の泥道が嬉しくもまぶしく光っている。たとえ他家の棟上げであるとしても、作者にはその心中がよく理解できるので、素直にともに寿ぐ気持ちがこう詠ませたのだ。棟上げといえば、私の子供のころには餅や小銭を投げあたえる風習があり、出かけていくのが楽しみだった。これもまた建築主の喜びの表現だったわけだが、しかしこの風習自体にはもっと教訓的な意味もあったようだ。最近読んだ中沢正夫(精神科医)の『なにぶん老人は初めてなもので』という本に、こんな記述がある。ローン制度のないころだから、新築のためには若い頃からコツコツと金を貯めなければならない。だから、新築は晩年の大事業であり、人生の総決算みたいなものだった。「大きな立派な家を建てることが、自分がいかに質素倹約誠実に生きてきたか、それまで不便や不自由に耐えてきたかを世間に披露することでもあった。餅を拾って食う子供たちにも、これを建てた人の生き様--ひたすら備え、不便に耐えてきたことが他の大人から聞かされた。オレもいつか、こういう大きな家を建てようと子供心にも思ったものである」。すなわち、備える耐えるが庶民の美徳の第一とされた時代ゆえの餅まきだったわけで、そう考えると、ローン時代にこの風習が消えたことの意味も判然としてくる。『毛馬』(2004)所収。(清水哲男)


April 1742004

 雨やどり人が買ふゆえ買ふ蜆

                           米沢吾亦紅

語は「蜆(しじみ)」で春。雨やどりで、たまたま借りたのが魚屋の軒先だった。他にも何人か、同じように雨の止むのを待っているのだが、なかなか止んでくれない。何かを買う目的で店先にいるのではないから、こういうときは時間が経つに連れて、なんとなく後ろめたい気分になってくるものだ。所在なく、並べられている魚などを眺めているうちに、雨やどりの一人が「蜆」を買った。買えば立派な客だから、いましばらくは後ろめたさから解放されて、そこに立っていられるわけだ。と、そんなふうに理屈の筋道を計算したのではないけれど、作者はつられるようにして、自分も蜆を求めたというのである。人が買うまでは、作者はそこに蜆があることにすら気づいてなかったかもしれない。目には写っていたとしても、格段に珍しいものでもないので、それと意識しないことはよくある。はじめから買う気のないときは、どんな店にいようとも、そんなものである。だからこの場合は、買った人がいたことで、雨やどりの後ろめたさを払拭したい気持ちからではなく、急に本来の客の気持ちになって求めたと読むべきだろう。人間心理の微妙なアヤをよく掴んでいる。「人が買ふゆえ」、自分も仕方なく買った。と、字面の理屈だけで解釈しては面白くない。そうか、蜆か、たまには蜆汁も悪くないな。などと、そんな気分になった瞬間から、彼は立派な客として店先に立てたのだ。そして、求めたのがタイやヒラメなど(笑)ではなく蜆だったことが、句の情趣を淡く盛り上げている。降っている雨の様子までもが、蜆の季語から読者にもよく伝わってくるからである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1842004

 狐雨海市を見んと旅にあり

                           加藤三七子

語は「海市(かいし)」で春。蜃気楼(しんきろう)の別称だ。「海市」は、遠方の街が海上に浮き上がって見えることからの命名だろう。残念ながら、私はまだ見たことがない。日本では、富山県魚津海岸あたりが名所として知られている。「蜃気楼は、大気中の温度差(=密度差)によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象です。よく、「どこの風景が映るの?」という質問を受けますが、実際にそこに見えている風景が上下に変形するだけで、ある風景がまったく別の方向に投影されるわけではありません」(石須秀知・魚津埋没林博物館学芸員)。ちなみに、夏のアスファルト路でも起きる「逃げ水」現象も、蜃気楼の小型版である。と、原理を知ってしまうと興醒めだけれど、実際に見ればやはり不思議な気持ちになるだろう。そういうときには昔から「狐につままれたようだ」と言い習わすが、掲句はそんな慣用語を意識しての作ではなかろうか。蜃気楼を見に行くための旅の途中で、雨が降ってきた。普通の雨ならがっかりもしようが、いわゆる「狐雨」である。「狐の嫁入り」とも言う。日が射しているのに、雨が降っている。したがって、たいした雨じゃない。この分なら、天気は大丈夫、ちゃんと蜃気楼は見られそうだ。作者はほっと安堵している。そして、その安堵した気持ちの余裕のなかで、微苦笑したのである。選りにもよって、こんなときに「狐雨」に会うとは……。蜃気楼を見る前なのに、もう騙されかけているのかもしれない。金子兜太『中年からの俳句人生塾』(2004)にて初見。(清水哲男)


April 1942004

 一本もなし南朝を知る桜

                           鷹羽狩行

年の桜の開花は、全国的に早かった。もうすっかり葉桜になってしまった地方も多いだろう。句は「吉野山」連作三十八句のうち。吉野の桜はシロヤマザクラだから、ソメイヨシノに比べて開花は遅いほうだが、ネット情報によれば、今年は既に先週末から奥千本も散りはじめているという。この週末までも、もちそうにない。句意は明瞭。南朝は14世紀に吉野にあった朝廷だから、樹齢六百年以上の桜の木でもないかぎり、当時のことは知るはずもないわけだ。そういうことを詠んでいるのだが、ただ単に理屈だけを述べた句ではない。吉野の桜の歴史は1300年前からととてつもなく古く、訪れる人はみな花の見事さに酔うのもさることながら、同時に古(いにしえ)人と同じ花の情景を眺められることにも感動するのである。いわば、歴史に酔いながらの花見となるのだ。しかしよく考えてみれば、昔と同じ花の情景とはいっても、個々の木にはもはや南朝を知る「一本」もないわけで、厳密な意味では同じではありえない。だからこそ、作者はこう詠んだのだろう。すなわち、吉野桜はただ南朝の盛衰を傍観していたのではなく、桜一本一本にも同様に盛衰というものがあり、その果てに現在も昔と同じ花の盛りを作り出している。そのことに、あらためて作者は感動しているのである。とりわけて作者は、幼いころから南朝正当論を叩き込まれた世代に属している。だから、吉野桜に後醍醐天皇や楠木正成正行父子などの悲劇を、ごく自然に重ね合わせて見てしまう。南朝正当論の是非はともかくとして、吉野桜をどこか哀しい目でみつめざるをえない作者の世代的心情が、じわりと伝わってくる佳句と読んだ。「俳句研究」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


April 2042004

 亡き人の表札いまも花大根

                           森 みさ

語は「花大根(大根の花)」で春。こういう光景を、かつて見たことがあるような……。実際に見たことはないのかもしれないが、そんな郷愁を感じさせてくれる句だ。晩春、大根は菜の花に似た形の花をつける。種を採るために畑に残しておく大根だから、数はそんなに多くはない。多くないうえに白い地味な花なので、ひっそりとした寂しいような味わいがある。ひそやかに白い花を咲かせた畑を前に建つ家も、こじんまりとした目立たないたたずまいなのだろう。「表札いまも」というのだから、この家の主人が亡くなってからかなりの月日の経っていることがわかる。亡くなってからも表札を掛け替えがたく、一日伸ばしにしている遺族の心情が思われて、いよいよ花大根が目に沁みるのである。同時に、表札の主が存命であったころの様子もしのばれ、ご当人が今そこにひょいと現れそうな感じもしている。毎春相似た場所に相似た花をつける大根が時間の経過を忘れさせてしまい、その間に人が亡くなったことなどが嘘のようにも思われるのだ。周囲に人気のない静かな田舎の春の午後のスケッチとして、表札という思いがけない小道具を使いながらも、確かなデッサン力を示している。良い句です。表札でふと思い出したが、戦争中には表札の隣りに並べてかける「出征軍人表札」なるものがあった(これも実際に見たのか、後の学習で覚えたのかは定かではないけれど)。日の丸の下に「出征軍人」と大書してあり、出生兵士を送り出している家がすぐにわかるようになっていた。むろん国家は名誉のしるしとして配ったのだろうが、日々哀しく見つめていた人もたくさんいたことだろう。表札もまた、いろいろなことを物語る。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


April 2142004

 山国の蝶を荒しと思はずや

                           高浜虚子

語は「蝶」で春。作者は「思はずや」と問いかけてはいるが、べつだん読者にむかって「思う」か「思わない」かの答えを求めているわけではない。この質問のなかに、既に作者の答えは含まれている。「山国の蝶を荒し」と感じたからこそ、問いかけの形で自分の確信に念を押してみせたのだ。「きっと誰もがもそう思うはずだ」と言わんばかりに……。優美にして華麗、あるいは繊細にして可憐。詩歌や絵画に出てくる蝶は多くこのように類型的であり、実際に蝶を見るときの私たちの感覚もそんなところだろう。ところが「山国の蝶」は違うぞと、掲句は興奮気味に言っている。山国育ちの蝶は優美可憐とはほど遠く逞しい感じで、しかも気性(蝶にそんなものがあるとして)は激しいのだと。そしてここで注目すべきは、、蝶の荒々しさになぞらえるかのように、この句の表現方法もまた荒々しい点だ。そこが、作者いちばんの眼目だと、私には思われる。すなわち、作者の得意は、蝶に意外な荒々しさを見出した発見よりも、むしろかく表現しえた方法の自覚にあったのではなかろうか。仮に内容は同じだとしても、問いかけ方式でない場合の句を想像してみると、掲句の持つ方法的パワーが、より一層強く感じられてくるようだ。まことに、物も言いようなのである。これは決して、作者をからかって言うわけじゃない。物も言いようだからこそ、短い文芸としての俳句は面白くもあり難しくもあるのだから。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


April 2242004

 若芝へぬすみ足して毬ひろふ

                           伊東好子

語は「若芝(わかしば)」で春。夏には「青芝」となる。西条八十の『毬(まり)と殿様』じゃないけれど、昔から「てんてん手毬」は、手が逸れるととんでもない方向に飛んでいくことになっている。この童謡では垣根を越えて表の通りまで飛んで出た手毬が、たまたま通りかかった殿様の籠に飛び込んで、なんとそのまま東海道を下り、遠く紀州まで行ってしまうというお話だった。句ではそこまで突飛ではないが、公園などの(たぶん)立ち入り禁止区域の芝生に入ってしまい、おっかなびっくり「ぬすみ足」で拾いに行っている。幼いころの回想か、あるいは眼前で女の子たちが遊んでいる光景の一齣だろう。叱られはしないかとドキドキしている女の子の心と、初々しい若芝の色彩とがよく釣り合っていて、いかにも春の好日といった雰囲気が出ている。これが男の子となれば、手毬ではなくて野球のボールだ。田舎には芝生などという洒落た場所はなかったけれど、同じような体験は私にもある。芝生ならぬ畑の真ん中にボールが飛び込んでしまうことはしょっちゅうで、やはりぬすみ足で拾いに行くのだが、大人に見つかるとビンタを覚悟しておかなければならなかった。こちらは作物を踏まぬように注意を払っているつもりでも、大人からすれば単なる畑の踏み荒らし行為としか写らない。一人がつかまれば共同責任ということで、全員整列させられて説教されビンタをくらったものである。誰もまだ体罰反対などと言わなかった時代だ。話が脱線した。繰り返しみたいになるけれど、掲句の良さは女の子のぬすみ足の様子ではなく、あくまでも「ドキドキする心」が若芝の上にあるという、その半具象的な描き方にあると言えるだろう。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 2342004

 勤めの途中藤の真下の虚空抜ける

                           堀 葦男

語は「藤」で春。「虚空」は抽象的な造形空間ではなくて、むしろ実感に属する世界だろう。「通勤の途中」、大きな藤棚の「真下」を通り抜けていく。さしかかると、それまでの空間とはまったく違い、そこだけがなんだか現実離れした異空間のように感じられる。現実味や生活臭などとは切れてしまっている空間だ。それを「虚空」と詠んだ。通勤の途次だから、藤を仰いでつらつら眺めるような時間的心理的な余裕はない。ただ足早に通り抜けていくだけの感じが、よく「虚空」に照応しているではないか。束の間の「虚空」を抜ければ、再びいつもの散文的な空間がどこまでも広がっているのだから、ますますさきほどの不思議な虚空感覚が色濃くなる気分なのだ。藤棚の下を擦過するようにしてしか、花と触れ合えない現代人のありようがよく描出されている。これもまた、忙しい現代人の「花見」の一様態だと言えば、皮肉に過ぎるだろうか。そして私には、働く現代人のこのような虚空感覚は、他の場面でも瞬時さまざまに発生しては消えているにちがいないとも思われた。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。スペイン人は走った後で考える」とは、笠信太郎が戦後『ものの見方について』で有名にした言葉だ。ならば日本人はどうかというと、すなわち「日本人は誰かが走っているから後をついて走る」と、それこそ誰かがうまいことを言った。でも日本人は一方で、後をついて走りながらも何か違うんだよなあとも感じている。そこに必然的に生じてくるのが、この種の虚空感覚というものなのだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


April 2442004

 家族寫眞に噴水みじかく白き春

                           竹中 宏

らりと読み下せば、こうなる。家族で撮った春の写真に、噴水が写り込んでいる。シャッター・チャンスのせいで、噴水の丈は短い。画面は、光線の加減でハレーションでも起こしたのだろうか。全体的に、写真は白っぽい仕上がりになっている。そんな写真の世界を「白き春」と締めくくって、明るい家族写真にひとしずくの哀感を落としてみせた恰好だ。このときにこの理解は、一句を棒のようにつづけて読むことから生まれてくる。むろんこう読んでも一向にかまわないと私は思うが、そう読まない読み方もできるところが、実は竹中俳句の面白さではないのかと、一方では考えている。すなわち、棒のように読み下さないとすれば、キーとなるのは「噴水みじかく」で、この中句は前句に属するのか、あるいは後五に含まれるのかという問題が出てくる。前句の一部と見れば、噴水は写真に写っているのだし、後句につながるとすれば、弱々しく水のあがらない現実の噴水となる。どちらなのだろうか。と、いろいろに斟酌してみても、実は無駄な努力であろうというのが、私なりの結論である。この一句だけからそんなことを言うのは無理があるけれど、この人の句の多くから推して、この中句は前後どちらにも同時にかけられていると読まざるを得ないのだ。しかもそれは作者の作句意識が曖昧だからというのではなく、逆に明確に意図した多重性の演出方法から来ているのである。中句を媒介にすることで、掲句の場合には写真と現実の世界とが自由に出入りできるようになる。その出入りの繰り返しの中で、家族のありようは写真の中の噴水のように、短くともこれから高く噴き上がるように思えたり、現実のそれのようにしょんぼりするように思えたりする。そして、このどちらが真とは言えないところに、「白き春」の乾いた情感が漂うことになるのである。またそして、更に細かくも読める。「噴水」までと「みじかく白き春」と切れば、どうなるだろうか。後は、諸兄姉におまかせしましょう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


April 2542004

 桜蘂散りつくづくと地べたなる

                           宮澤明寿

語は「桜蘂(さくらしべ)散る」で春。「桜蘂降る」に分類。桜の花が散ったあとで、萼(がく)に残った蘂が散って落ちること。我が家の近くでは、ちょうどいま、散っている最中だ。この現象に気がつくのは、散る様子が見えたからというよりも、そのあたりの「地べた」が赤くなっていることからである。まず赤くなっている地べたに気がついて、次に桜の木をちょっと仰いでみて納得する人が大半だろう。そして作者は、もう一度地べたに目を戻した。蘂の様子を見るためだが、いつしか「つくづくと」地べたのほうに見入っていたというのである。そうだ、これが地べたというものなんだ。と、ひとり感に入っている様子が、よく伝わってくる。こういうときでもないと、人が地べたをつくづくと手応えをもって感じるようなことはあるまい。これが落花の様子だと地べたよりも花びらのほうに目を奪われるが、地味な蕊ゆえに、こういうことが起きる。蕊が散ってくれたおかげで、作者は地べたを発見できたというわけだ。似たような体験をお持ちの方も、多いのではなかろうか。何でもないような発見ではあるが、当人にとってはとても大事なことだから、こう書き留めておく必要があった。その気持ちも、よくわかる。似たような体験といえば、私などは写真を撮っているときにしばしば感じる。ねらった被写体よりも、それこそ地べただとか水だとか、あるいは空であるとか。日頃気にも留めていないような物質や空間に、思いがけない魅力を覚えることがある。何故だろうか。おそらくは人間の目とは違い、カメラのレンズは被写体も周辺の事物もみな公平に捉えてしまうから、発見につながりやすいのだろう。逆に人間の目ははじめから公平じゃないので、掲句のように、発見までにはいささか手間取るのにちがいない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


April 2642004

 韮汁や体臭を売る私小説

                           花田春兆

語は「韮(にら)」で春。私は「韮汁」もレバニラ炒めなども好きなほうだが、韮の強い香りを臭気と感じて嫌う人も少なくない。作者も、いささか敬遠気味に食べているような気がする。「私小説」を読みさしての食事だろうか。あくどいばかりに自己を晒した小説と韮汁との取り合わせは、もうそれだけで「むっ」とするような雰囲気を醸し出している。加えて「体臭を売る」と侮蔑しているのだから、よほどその小説を書いた作家に嫌悪の念を覚えたのだろう。しかし、侮蔑し嫌悪しても、だからといって途中で放り出せないのが私小説だ。何もこんなことまで書かなくてもよいのに、などと思いつつも、ついつい最後まで引きずられ読まされてしまうのである。私小説といってもいろいろだけれど、共通しているのは、作者にとっての「事実」が作品を支える土台になっているところだ。読者は書かれていることが「事実」だと思うからこそ反発を覚えたり、逆に共感したりして引きずられていくのである。だいぶ前に、掲句の作者が書いた富田木歩伝を読んだことがあるが、実に心根の優しい書き方だった。良く言えば抑制の効いた文章に感心し、しかし一方でどこか物足りない感じがしたことを覚えている。たぶん「事実」の書き方に、優しい手心を加え過ぎたためではなかろうか。後にこの句を知って、そんなことを思った。ところで事実といえば、俳句も作者にとっての事実であることを前提に読む人は多い。いかにフィクショナルに俳人が詠んでも、読者は事実として受け止める癖がついているから、あらぬ誤解が生じたりする。古くは日野草城の「ミヤコホテル」シリーズがそうであったように、フィクションで事実ならぬ「真実」を描き出そうという試みは、現在でもなかなか通じないようだ。俳句もまた、私小説ならぬ「私俳句」から逃れられないのか。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2742004

 畑打つや土よろこんでくだけけり

                           阿波野青畝

語は「畑打(つ)」で春。農作業のはじまりだ。鍬で耕していくはしから、冬の間は眠っていた「土」が、自分の方から「よろこんで」砕かれていくというのである。むろん実際には作者が喜びを感じているのだが、それを「土」の側の感情として捉えたところがユニークで面白い。こうした耕しの際の喜びは、体験者でないとわかりにくいだろう。よく手入れの行き届いた肥沃な畑でないと、こうはいかない。日陰で痩せた畑の土は、絶対によろこばない。鍬の先で砕けるどころか、団子のように粘り着いてきて往生させられる。痩せた田畑しか持てなかった農家の子としては、なんとも羨ましい句に写る。畑にかぎらず土は生きものだから、気候が温暖で水はけが良く、しかもこまめに手入れされていれば、人馬一体じゃないけれど、人と土との気持ちが通いあうように事が進んでゆく。野球やスポーツのグラウンドとて、同じこと。同じグラウンドとはいっても、河川敷などのそれとプロが使うそれとでは大違いだ。例えて言えば、草野球のグラウンドがブリキかトタンの板だとすると、プロ用のそれはビロードの布地である。立った印象が、それほどに違う。そのかみのタイガースの三塁手・掛布雅之は守備位置の土(砂と言うべきか)をよくつまんでは舐める癖があったけれど、あんな真似は河川敷ではとてもできない。というか、誰だってとてもそんな気にはなれっこない。やはりビロードの土だからこそ、無意識にもせよ、ああいうことができたのだろうと思う。『万両』(1931)所収(清水哲男)


April 2842004

 夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

                           鈴木しづ子

語は「夏みかん(夏蜜柑)」。夏に分類している歳時記もあるが、熟してくる仲春から晩春にかけての季語としたほうがよいだろう。これからの季節に白い花をつけ、秋に結実し、来春に熟して収穫される。句は、戦後彗星のように俳壇に登場し、たちまち姿を消した「幻の俳人」鈴木しづ子の代表作として有名だ。朝鮮戦争が激化していたころの作品である。つまり戦後まもなくに詠まれているわけだが、当時の読者を驚かすには十分な内容であった。いかに戦前の価値観が転倒したとはいえ、まだまだ女性がこのように性に関する表現をすることには、大いに抵抗感のある時代だった。良く言えば時代の先端を行く進取の気性に富んだ句だが、逆に言えば蓮っ葉で投げやりで自堕落な句とも読めてしまう。そして、多くの読者は後者の読み方をした。いわゆる墜ちた俳人としての「しづ子伝説」を、みずから補強する結果となった一句と言えるだろう。最近出た江宮隆之の『風のささやき』(河出書房新社)は、そうした作者をいわれ無き伝説の中から救い出そうと奮闘した小説だ。実にていねいに、しづ子の軌跡を追っている。本書の感想は別の場所に書いたので省略するが、著者は掲句の成立の背景には朝鮮戦争があったことを指摘している。当時のしづ子は米兵と恋愛関係にあり、出撃していくたびに彼の安否を気遣うという暮らしであった。だから、彼女は自分の純潔や純潔感を恥じたのではない。戦争の巨大な不純を憎んだがゆえに、「いまさら(世間が)純潔など」を言い立てて何になるのかと、そんな思いを込めて詠んだのだという。しかし特需景気に湧いていた世間は戦争の不純には目もくれず、作者の深い哀しみにも気がつかず、単なる自堕落な女の捨てぜりふと解したのだ。俳句もまた時代の子である。私たちが同時代俳句を読むときにも、心したいエピソードだと思った。『指輪』(1952)所収。(清水哲男)


April 2942004

 田螺らよ汝を詠みにし茂吉死す

                           天野莫秋子

語は「田螺(たにし)」。春、田圃や沼などの水底を這い、田螺の道を作る。ちなみに、斎藤茂吉の命日は二月二十五日。「田螺ら」が、ようやく動きはじめようかという早春の候であった。そんな田螺たちに、いちはやく茂吉の訃報を届けてやっている作者の暖かさが伝わってくる。いや、こうして田螺たちに告げることで、「ついに亡くなられた」と自身に言い聞かせている作者の哀悼の気持ちが滲み出た句だ。告げられた眼前の田螺たちは、春まだ浅い冷たい水の底で、じっとして身じろぎもしなかったろう。茂吉の田螺の歌でよく知られているのは、『赤光』に収められた「とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり」だ。「かりようびんが(迦陵頻伽)」とは雪山または極楽に住む人面の鳥で、田螺はそのかくし児だというのである。不思議な歌だが、何故か心に残る。田螺についての茂吉の言。「田螺は一見みすぼらしい注意を引かない動物であるが、それがまたこの動物の特徴であって、一種ローマンチックな、現代的でないような、ないしはユーモアを含んでいるような気のする動物である」。不思議な印象の田螺だから、かくのごとき不思議な想像歌が自然に飛びだしたと言うべきか。みすぼらしく見えてはいるが、実はとんでもない高貴の出なんだぞと世間に知らしめることで、田螺のために暖かい気を配ってやっている。掲句の作者は、間違いなくこの一首を踏まえて詠んだのだと思う。世の中には、そんな高貴の出自とも知らずに、平気で田螺を食ってしまうう人がいる(笑)。南無阿弥陀仏。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


April 3042004

 妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ

                           草間時彦

くれている理由は、夫婦で(あるいは家族で)どこにも出かけないでいるからだろう。この時期、新聞やテレビを見ても、行楽地で楽しそうにしている人たちの様子が写っている。みんなあんなに楽しんでいるのにと思うと、出かけない我が身がみじめに思えてきて、ついついふくれっ面になってしまう。作者の事情は知らないが、せっかくの連休を家でゆっくり過ごしたいと思ったのかもしれないし、手元不如意だったのかもしれない。いずれにしても世間並みのことを妻にしてやれない負い目のようなものはあるから、妻の不機嫌が余計に目立つのだ。こんなことなら、無理してでも出かけておけばよかった……。なんとも愉快ではない忸怩たる思いのうちに、ゴールデンウィークが過ぎていったというのである。思い当たる読者もおられるだろう。戦後経済の高度成長とともに、連休と旅が結びついてきて、連休前には「どこにお出かけですか」が挨拶代わりまでになってゆく。だから、ニッポンのお父さんたちは大変なことになったのだった。仕事からは解放されても、家族サービスという名の労働が待ち受けるようになったからだ。バブル崩壊後には少しはこの風潮にも翳りが出てきたが、しかし依然としてどこかに出かける人は少なくない。海外へは無理でも、近隣への小旅行は可能だというわけか。そんな人たちで、今年も行楽地はにぎわっている。ということは、逆にどこかには「ふくれふくれ」ている妻たちも存在する理屈だ。そしてもちろんその蔭には、居心地悪く家の中で小さくなっている夫たちも……。やれやれ、である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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