五輪がらみのサッカーTV中継はひどかった。日本を連呼するだけ。アホか。




2004ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2032004

 朧より少年刃の目もて来る

                           大森 藍

年同士は、まず時候の挨拶などは交わさない。「暑い」だの「寒い」だのと言い交わすことはあるけれど、あれは挨拶ではない。一種の自己確認なのであって、独り言みたいなものである。一方の少女はというと、時候の挨拶まではいかなくても、わりに小さいころから挨拶めいた会話をはじめるようだ。挨拶は世間的なコミュニケーションの潤滑油として働くから、一般的に少年よりも少女のほうが早く世間に目覚めると言ってよいだろう。良く言えば少年は精神性が高く、少女は社会性に敏感なのだ。回り道をしたが、句はそういうことを言っている。春「朧(おぼろ)」、上天気。作者がなんとなく浮き立つような気分でいるところに、「少年」がやってきた。子供が外出から帰宅したのかもしれない。ふと見ると、ずいぶんと険しい「刃の」ような目をしている。どきりとした。何かあったのだろうか。などと思う以前に、春うららの雰囲気に全くそぐわない「刃の目」を、しばし作者は異物のように感じたのだった。このことは、すなわち少年に挨拶性が欠落していることに結びつく。句は、少年の特質を実に正確に描破している。つまり、少年は人に挨拶することはおろか、周囲の環境に対しても挨拶することをしないのである。作者は大人だから「朧」にいわば挨拶して機嫌よくいるわけだが、少年からすれば「朧」への挨拶などは自身の精神性にとって何の意味もない。そもそも「朧」という実体不分明な概念に、なぜ大人がふうちゃかと浮き立つのかがわからないのだ。飛躍するようだが、多くの少年が俳句を好まないのは、あるいは苦手にするのは、俳句の挨拶性が理解できないからである。俳句の挨拶にもいろいろあるが、なかで最もわからないのは季語が内包する挨拶性だろう。季語にはすべて、単なる事象概念を超えた挨拶としての機能がある。そして、この機能は常に一定の方向を指し示すものだ。たとえば「朧」は明るさに顔を向けるが、暗さを示す機能はないという具合に、である。変じゃないか。と、少年は素朴に思う。……これらのことに関しては長くなるので、いずれ稿を改めたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


March 1932004

 校塔に鳩多き日や卒業す

                           中村草田男

語は「卒業」。折しも卒業式シーズンである。多くの若者たちが、この春も学園を巣立ってゆく。掲句は、つとに有名な句だ。この古い青春句がいまでも人気があるのは、淡彩的なスケッチが、よく卒業式当日のしみじみとした明るさを伝えているからだろう。しかしよく読むと、さりげなげなスケッチの背後には作者の非凡な作意があることを感じる。作者も含めて、誰もふだんは「校塔」などつくづくと見上げるはずもなかったのが、いざ別れるとなると、学園のこのシンボルを見上げることになったのだ。だから、実はこの日だけ格別に「鳩」が多かったというわけではあるまい。いつもは気がつかなかっただけで、鳩は毎日のように群れていたはずなのである。それを、今日「卒業」の日だけにたくさん群れていると詠んだ。つまり、今日だけに多くの鳩を校塔に集めてしまったのは。卒業生の感傷でもあるけれど、その前に俳人として立たんとしていた草田男の並々ならぬ作句意欲だったと、私には思われる。現実に「鳩多き日」は季節的に毎日のことであり、作者が気づいたのはたまさか「卒業」の日だけのことであった。が、掲句では、この関係が逆転している。作者はいつも校塔を眺めていたのであり、いつもは鳩が少なかったと一瞬思わせるかのように、句は周到に設計されている。一見淡彩を匂わせているのだが、なかなかどうして、下地にはかなりの厚塗りが施されている。非凡な作意と言わざるを得ない所以だ。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


March 1832004

 花よ花よと老若男女歳をとる

                           池田澄子

語は「花」、平安時代以降は桜の花を指すのが一般的だ。手塚美佐に「誰もかも寒さを言へり春を言ふ」があって、その後に掲句の季節が来る。昔から毎年のことではあるが、「春は名のみの風の寒さ」の候より「春」を言い、少し暖かくなってくると「花よ花よ」と開花を待ちわび、咲いたら咲いたで老いも若きもが花見に繰り出してゆく。四季の変化に富む地での農耕民族に特有の血が騒ぐのだろうか。正直に言うと、私は桜よりも野球シーズンを待ちかねる気持ちが強いのだが、野球とてもファンの「花」には違いない。句は人がそんな気持ちを繰り返すうちに、「老若男女」がみな歳をとっていくのだなあと、あらためて感嘆している。この感嘆の気持ちのなかには、唖然呆然の気配も感じられる。何故なら、老若男女の加齢には例外がなく、そこには当然自分も含まれていることに、あらためてハッとさせられるからだ。この認識は、理屈を越えた唖然呆然に否応無くつながってしまう。同じ作者に「四十九年頸に頭を載せ花曇り」の句もあり、ここにも唖然呆然の気配が漂っている。この句はしかし、あまり若い人には本当にはわからないだろう。意味的には誰にでも理解できるが、ここに唖然呆然の気配を感じるには、やはりそれなりの年齢に達している必要があるからである。したがって若い読者のなかには、「花よ花よ」と浮かれている人たちへの皮肉を言った句と誤読する人がいるかもしれない。でも、この句には皮肉の一かけらも含まれてはいないのだ。実感を正直に詠んだら、こうなったのである。では、この句を味わうにふさわしい年齢とは何歳くらいだろうか。特別にお教えすれば、それはいま掲句にハッとしたあなたの年齢が最適なのであります。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)




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