中上哲夫の高見順賞受賞記念パーティ。詩人たちに会うのもひさしぶりだ。




2004ソスN3ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1932004

 校塔に鳩多き日や卒業す

                           中村草田男

語は「卒業」。折しも卒業式シーズンである。多くの若者たちが、この春も学園を巣立ってゆく。掲句は、つとに有名な句だ。この古い青春句がいまでも人気があるのは、淡彩的なスケッチが、よく卒業式当日のしみじみとした明るさを伝えているからだろう。しかしよく読むと、さりげなげなスケッチの背後には作者の非凡な作意があることを感じる。作者も含めて、誰もふだんは「校塔」などつくづくと見上げるはずもなかったのが、いざ別れるとなると、学園のこのシンボルを見上げることになったのだ。だから、実はこの日だけ格別に「鳩」が多かったというわけではあるまい。いつもは気がつかなかっただけで、鳩は毎日のように群れていたはずなのである。それを、今日「卒業」の日だけにたくさん群れていると詠んだ。つまり、今日だけに多くの鳩を校塔に集めてしまったのは。卒業生の感傷でもあるけれど、その前に俳人として立たんとしていた草田男の並々ならぬ作句意欲だったと、私には思われる。現実に「鳩多き日」は季節的に毎日のことであり、作者が気づいたのはたまさか「卒業」の日だけのことであった。が、掲句では、この関係が逆転している。作者はいつも校塔を眺めていたのであり、いつもは鳩が少なかったと一瞬思わせるかのように、句は周到に設計されている。一見淡彩を匂わせているのだが、なかなかどうして、下地にはかなりの厚塗りが施されている。非凡な作意と言わざるを得ない所以だ。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


March 1832004

 花よ花よと老若男女歳をとる

                           池田澄子

語は「花」、平安時代以降は桜の花を指すのが一般的だ。手塚美佐に「誰もかも寒さを言へり春を言ふ」があって、その後に掲句の季節が来る。昔から毎年のことではあるが、「春は名のみの風の寒さ」の候より「春」を言い、少し暖かくなってくると「花よ花よ」と開花を待ちわび、咲いたら咲いたで老いも若きもが花見に繰り出してゆく。四季の変化に富む地での農耕民族に特有の血が騒ぐのだろうか。正直に言うと、私は桜よりも野球シーズンを待ちかねる気持ちが強いのだが、野球とてもファンの「花」には違いない。句は人がそんな気持ちを繰り返すうちに、「老若男女」がみな歳をとっていくのだなあと、あらためて感嘆している。この感嘆の気持ちのなかには、唖然呆然の気配も感じられる。何故なら、老若男女の加齢には例外がなく、そこには当然自分も含まれていることに、あらためてハッとさせられるからだ。この認識は、理屈を越えた唖然呆然に否応無くつながってしまう。同じ作者に「四十九年頸に頭を載せ花曇り」の句もあり、ここにも唖然呆然の気配が漂っている。この句はしかし、あまり若い人には本当にはわからないだろう。意味的には誰にでも理解できるが、ここに唖然呆然の気配を感じるには、やはりそれなりの年齢に達している必要があるからである。したがって若い読者のなかには、「花よ花よ」と浮かれている人たちへの皮肉を言った句と誤読する人がいるかもしれない。でも、この句には皮肉の一かけらも含まれてはいないのだ。実感を正直に詠んだら、こうなったのである。では、この句を味わうにふさわしい年齢とは何歳くらいだろうか。特別にお教えすれば、それはいま掲句にハッとしたあなたの年齢が最適なのであります。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


March 1732004

 春雷や煙草の箱に駱駝の絵

                           横山きっこ

CAMEL
語は「春雷」。春の雷はめったに鳴らないし、夏のようには長くはつづかない。そこにまた、独特な情趣がある。室内での句だろう。あたりがすうっと薄暗くなってきて、思いがけない雷が鳴った。こういうときに、人の心は瞬時内向する。そして急に、それまで気にも止めていなかった机の上の物などに、あらためて親密感を抱いたりするものだ。雷は立派な天変地異のひとつだから、弱い生きものである人間としては、半ば本能的に周辺の何かにすがりたい心理状態に落ちるからだろうか。むろん一度か二度の雷鳴で大きく取り乱すというわけではないが、心の根のところではやはり幾分かは取り乱すのだと思う。そのかすかな心の乱れが、作者に「煙草の箱」を見つめさせることになった。この微妙な心理が読めないと、この句はわからない。どんな愛煙家でも、通常はパッケージの「絵」をしげしげと見つめることなどしないけれど、見つめてみればそこには確実に一つの世界が展開している。「駱駝の絵」だから、銘柄は「CAMEL」だ。掲句に引きずられて、私もつくづくと見ることになり、もう一世紀以上も前にアメリカで描かれたはずの駱駝の絵が、実に見事にアラブ世界へのクールな憧れを示していることに感心したのだった。この駱駝は、たとえば日本の歌の「月の砂漠」の駱駝のようにはセンチメンタルではない。かといって、動物園的見せ物にも描かれてはいない。あくまでも、砂漠の地を悠々と歩む自然体なのであり、背景の遠いオアシスの様子とあいまって、いわば悠久のロマンの雰囲気がうっすらと浮び上っている。このときに、春の雷に一瞬かすかに内向した作者の心は、駱駝の絵の世界で再び開いていったにちがいない。目を上げると、いつの間にか、窓外はまた元通りの春らしい陽気に戻っている。WEB句集『満月へハイヒール』(http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoJM&P=0)所収。(清水哲男)




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