5時前には起床していたのに最近は日の出の頃まで寝ている。これも春眠。




2004年3月17日の句(前日までの二句を含む)

March 1732004

 春雷や煙草の箱に駱駝の絵

                           横山きっこ

CAMEL
語は「春雷」。春の雷はめったに鳴らないし、夏のようには長くはつづかない。そこにまた、独特な情趣がある。室内での句だろう。あたりがすうっと薄暗くなってきて、思いがけない雷が鳴った。こういうときに、人の心は瞬時内向する。そして急に、それまで気にも止めていなかった机の上の物などに、あらためて親密感を抱いたりするものだ。雷は立派な天変地異のひとつだから、弱い生きものである人間としては、半ば本能的に周辺の何かにすがりたい心理状態に落ちるからだろうか。むろん一度か二度の雷鳴で大きく取り乱すというわけではないが、心の根のところではやはり幾分かは取り乱すのだと思う。そのかすかな心の乱れが、作者に「煙草の箱」を見つめさせることになった。この微妙な心理が読めないと、この句はわからない。どんな愛煙家でも、通常はパッケージの「絵」をしげしげと見つめることなどしないけれど、見つめてみればそこには確実に一つの世界が展開している。「駱駝の絵」だから、銘柄は「CAMEL」だ。掲句に引きずられて、私もつくづくと見ることになり、もう一世紀以上も前にアメリカで描かれたはずの駱駝の絵が、実に見事にアラブ世界へのクールな憧れを示していることに感心したのだった。この駱駝は、たとえば日本の歌の「月の砂漠」の駱駝のようにはセンチメンタルではない。かといって、動物園的見せ物にも描かれてはいない。あくまでも、砂漠の地を悠々と歩む自然体なのであり、背景の遠いオアシスの様子とあいまって、いわば悠久のロマンの雰囲気がうっすらと浮び上っている。このときに、春の雷に一瞬かすかに内向した作者の心は、駱駝の絵の世界で再び開いていったにちがいない。目を上げると、いつの間にか、窓外はまた元通りの春らしい陽気に戻っている。WEB句集『満月へハイヒール』(http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoJM&P=0)所収。(清水哲男)


March 1632004

 自分の田でない田となってれんげも咲く

                           三浦成一郎

語は「れんげ(蓮華草・紫雲英)」で春。いまでは化学肥料の発達で見られなくなったが、かつては緑肥として稲田で広く栽培されていた。この季節に紅紫色の小さな花が無数に田に咲いている様子は、子供だった私などの目にもまことに美しかった。春の田園の風物詩だったと言ってもよいだろう。その美しい情景が、もはや「自分の田でない田」に展開している。生活苦から手放した田と思われるが、他の動産などとちがって、売った田や山は、このようにいつまでも眼前にあるのだから辛い。「れんげも」の「も」に注目すると、自分が所有していたころには「れんげ」を咲かすこともできなかったのだろう。どうせ手放すのだからと、秋に種を蒔かなかった年があったのかもしれない。いずれにしても、他人の手に渡ってから美しくよみがえったのである。その現実を突きつけられた作者の胸の疼きが、ひしひしと伝わってくる。戦前の一時期に澎湃として起こったプロレタリア俳句の流れを組む一句だ。五七五になっていないのは、虚子などの有季定型・花鳥諷詠をブルジョア的様式として否定する立場からは当然のことだったろう。プロレタリア俳句の萌芽は、自由律俳句を提唱した荻原井泉水の「層雲」にあったことからしてもうなずける。リーダー格の栗林一石路や橋本夢道、横山林二などは、みな「層雲」で育った。「山を売りに雨の日を父はおらざり」(一石路)、「ばい雨の雲がうごいてゆく今日も仕事がない」(夢道)。掲句が発表されて数年後には京大俳句事件などが起き、言論への弾圧は苛烈を極めていく。俳句を詠み発表しただけで逮捕される。今から思えば嘘のような話だが、しかしこれは厳然たる事実なのだ。自由な言論がいかに大切か。こうした歴史的事実を思うとき、いやが上にもその思いは深くなる。「俳句生活」(1935年7・8月合併号)所載。(清水哲男)


March 1532004

 下宿屋は下長者町下る春

                           児玉硝子

面を見ているだけで、なんとなく切なくも可笑しく感じられる句だ。ペーソスがある。大学に合格すると、地方出身者が何をおいてもやらねばならぬことは「下宿探し」である。もっとも今では、素人下宿も減ってきたから、アパート探し、マンション探しということになるのかな。いろいろと探し回って、作者が決めた下宿の住所を確認してみたら「下長者町下る」であった。「下」の文字が二つも入っていて、せっかく縁起の良い長者という地名なのだが、下宿の「下」の字も含めると三つになり、なんだか長者がどんどん零落衰退していく町のようではないか。「下る」とあるから、この町があるのは京都だ。御所の南北の真ん中あたりから烏丸通越しに西に延びているのが長者町通りで、同志社大学に通うには便利な地域だろう。住む部屋を探すのに、よほど縁起をかつぐ人でないかぎりは、まず住所表記など気にはかけない。部屋を決めてから住所を教えてもらい、たいていは「あ、そう」なんてものである。ただ京都のように古い地名が生きている街だと、句のように「あ、そう」と簡単に言うには抵抗を覚える場合も出てきてしまう。友人知己に新住居を知らせる手紙を書きながら、やはり「下」ばかり書いていると、もう少しマシな地名のところを選べばよかったと、そんなに切実ではないにしても、イヤになった昔の記憶が書かせた句のような気がする。私の場合は、新入生のときには宇治市「県通り」、二回生からは京都市北区「小山初音町」だった。いずれも良い地名なのだが、ちょっと「初音町」は照れ臭く感じていた。しかも当時の実家の住所は東京都西多摩郡多西村「草花」と言ったから、「草花」から「初音」へと転居したわけで出来過ぎである。「『草花』やて、ウソやろ」と、出来たてほやほやの友人に言われたことがある。彼に悪気はなけれども、「てやんでえ、『長者町』こそ大ウソじゃねえかっ」と言い返してやりたかったけれど、他所者の悲しさで大人しく黙ってたっけ……。『青葉同心』(2004)所収。(清水哲男)




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