東京大空襲の日。東部軍管区情報駿河湾を北上の敵数挺団は帝都に向かう模様。




2004ソスN3ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1032004

 春闘妥結トランペットに吹き込む息

                           中島斌雄

語は「春闘」。たしかに、こんな時代があった。もはや、懐しい情景になってしまった。何日間も本来の仕事の他に、根をつめた労使交渉をつづけたあげくの「妥結」である。たとえ満足のゆく結果が出なかったとしても、ともかく終わったのだ。その安堵感の中で、久しぶりの休日に、趣味のトランペットを吹く時間と心の余裕ができた。楽器の感触を確かめながら、おもむろに息を吹き込む男の様子に、読者もほっとさせられる句である。とはいえ、現在の仕事の現場にいる人たちのほとんどには、もう掲句の味をよく解することはできないだろう。いまや春闘は一部大手企業の中でかろうじて命脈を保っているだけであり、他の人々には実質的にも実態的にも無縁と化してしまっているからだ。春闘がはじまったのは1955年(昭和30年)であり、季語にまでなって誰にも無関係ではない闘争であったものが、わずか半世紀の間にかくも無惨に形骸化するとは、誰が予測しえたであろうか。春闘をめぐっては数々の議論があって、とても紹介しきれないけれど、いずれにしても労使双方があまりにも経済一辺倒の価値観を持ちすぎたがために崩壊したと、私には写っている。「カネ」にこだわるあまりに、労働現場の改善はなおざりにされ、いまだにサービス残業や単身赴任などという異常な事態が、誰も不思議に思わないほどまでに定着しているのも、春闘の中身が何であったかを物語っている。このところの経団連は「不況と失業の時代なのだから、賃上げどころではない」と言いつづけているが、これは要するに旧態依然として「カネ」にこだわっている態度にすぎない。不況と失業の時代だからこそ、労働者を守り育てていかねばならぬ雇用者の責務を自覚していないのだ。話にならん。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


March 0932004

 早わらびの味にも似たる乙女なり

                           遠藤周作

語は「早わらび(さわらび・早蕨)」で春。「蕨」の項に分類。題材にした詩歌では、ことに『万葉集』の「石走る垂水のうえのさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)が有名だ。芽を出したばかりの蕨は、歌のようにいかにも初々しい緑の色彩で春を告げる。その意味で、この歌は完ぺきだ。あまりにも完成しすぎているために、今日でも「早蕨」を詠むとなると、どうしてもこの歌がちらりと頭をかすめてしまう。歌が詠まれてから千数百年も経ているというのに、いまだ影響力を持ちつづけているのだから、詩歌世界の怪物みたいな存在である。だから後世の人々はそれぞれに工夫して、志賀皇子の世界とは一線を画すべく苦労してきた。なかには現代俳人・堀葦男のように「早蕨や天の岩戸の常濡れに」と詠んで、志賀皇子の時代よりもはるか昔にさかのぼった時間設定をして、オリジナリティを担保しようと試みた例もある。小説家である作者もそんなことは百も承知だから、故意に「色」は出さずに「味」で詠んだのだと思われる。「乙女(おとめ)」を形容するのに「味」とはいささか突飛だが、そこは周到に「味にも」とやることで、句には当然「色」も「香」も含まれていることを暗示させている。早蕨のほろ苦い味。そんな初々しい野性味を感じさせる「乙女」ということだろう。そよ吹く春の風のように、そのような若い女性が眼前に現れた。そのときの心の弾みが詠まれている。が、不思議なことに、句からは女性その人よりも、むしろ目を細めている作者の姿のほうが浮び上ってくる気がするのは何故だろうか。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)


March 0832004

 枯れ果ててゆくも四温の最中なり

                           大場佳子

語は「四温(三寒四温)」。古来、歳時記では冬の項に分類してきたが、暦の上での冬の終わりの時期よりも、むしろ立春後に、多くこの現象が見られるのではあるまいか。三日寒い日がつづいたかと思うと、四日暖かい日がつづく。この繰り返しのうちに、だんだん本格的な春が近づいてくる。昨今の東京あたりでは、ちょうどそんな感じだ。この句が載っている句集を見ても、前後には春の句が配されていることから、作者は明らかに早春の季語として詠んでいる。さてこの季節、暖かい日がつづくようになると、人の目は春を告げる芽吹きであるとか花のつぼみであるとか、そういう物や現象に向かいがちになる。それが人情というものだろう。だが、作者は一方で、この季節だからこそ、完全に「枯れ果ててゆく」ものたちがあることに注目したのだった。ひっそりと、誰にも顧みられることのないまま姿を消していく存在へのまなざしは、単に植物だけを見ているのではないようにも思われる。「春よ春よ」と明るいほうばかりを見つめたがる人間界にもまた、ひそやかな死は常にいくらでも訪れてくるのだからだ。といって作者は、一般的に世の人情を風刺しているのではない。そんなつもりは、一かけらもないと思う。あくまでもみずからの胸の内に、ふっとこんな気持ちが兆したのであり、それを直截に詠んだところに、嫌みのない句の世界が静かに成立したと読む。この句を知って、あらためて庭などを眺めてみたくなる人は少なくないだろう。そういう力のある句だ。『何の所為』(2003)所収。(清水哲男)




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