ほぼ一年ぶりにラジオの生放送の仕事に行く。不思議に緊張感はない。が…。




2004ソスN3ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0632004

 冗費とも当然とも初わらび買ふ

                           及川 貞

語は「はつわらび(初蕨)」で春。「蕨」の項に分類。「薇(ぜんまい)」とともに、春を告げる山菜の代表だ。なるほど、主婦としての作者の気持ちはよくわかる。事情があって、最近の私はよくこまごました買い物をするが、「冗費(じょうひ)」かどうかで思案すること、しばしばだ。ついこの間の雛祭りの日にも、桜餅の前でちょっと逡巡した。買わなくてもよいといえば、買わなくてもすむ。しかし、買えば生活のうるおいにはなる。結局買って帰ったのだが、そのときの心持ちは、まさに句の通りだった。買うときは何ほどの出費でもないにしても、初物だの季節物だのにこだわって買い物をつづけていると、年間での総額にはかなりの差が出てしまう。家計をあずかる主婦としては、だからいちいち自分で自分を説得して買わなければならない。でも、句の「はつわらび」などの場合は、完全に説得することは無理だろう。それでなくとも初物は高価だし、もっと出回るようになってから求めたほうが、味覚的にも満足できる。が、買いたい。筍にさきがけて、早春の味を家族といっしょに楽しみたい。こう思うのは、自然な気持ちからで「当然」じゃないだろうか。いやいや、やはり無駄遣いになるのかしらん。買ってしまっても、まだ自分を説得できないでいるのである。主婦であるならば、誰しもが掲句の世界は、日々親しいものだろう。これは男の「ケチ」とは、性質的にまったく異る。例外はあるにしても、主婦の日常的な買い物の背後には、常に家族がいるのだからだ。男の買い物には、自分しかいないことが多い。この差は、実に大きいのである。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


March 0532004

 啓蟄や押し方馴れし車椅子

                           三村八郎

日は「啓蟄(けいちつ)」。俳句の初心者が必ず「えっ、こりゃ何だ」と戸惑う季語で、漢字も難しいのだけれど、逆にいちはやく覚えてしまうという不思議な季語だ。むろん、私もそうだった。地中に眠っていた虫たちが、暖かい気候になって穴を出てくることである。「車椅子」を押したことはないが、この句はわかる。押す人にとって、何が気になるかといえば、地面の凹凸の具合だろう。普通に歩く分には気にならない凹凸が、いざ車椅子を押す段になるととても気になる。馴れないときには、そればかりに神経が働く。だから、いつも地面の表面だけは気にしていても、地中に虫が眠っていることなどには思いが及ばない。そんな心の余裕はないのである。ところが、このごろ作者はようやく押し方に馴れてきて、コツが掴めてきた。ほとんどスムーズに押せるようになった。そして、ふと今日が啓蟄であることに気づき、自分が気づいたことに微笑している。押しながら、地面の下のことを思うようになれたということは、押し方が上手になったという理屈で、体験者ならではの喜びが滲み出ている。無関係な人からすればささやかな喜びに写るかもしれないが、介護者にはこういうことだって大きな力になるし、励ましになる。私たちは車椅子に乗っている人のことをしばしば思うけれども、押している人については看過しがちだ。これからの暖かい季節、車椅子の人たちをよく見かけるようになる。そのときに私は、きっと掲句をちらりとでも思い出さずにはいられないだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


March 0432004

 春昼や腑分けして来したゞの顔

                           平畑静塔

た「腑分け(ふわけ)」とは古風な言葉だが、しかし実際に「解剖」をする人には、腑分けのほうが実感的にぴたりと来るのかもしれない。掲句は、最近清水貴久彦(岐阜大学医学部教授)さんから送っていただいたエッセイ集『病窓歳時記』(2001・まつお出版)で知った。医者の目で俳句を眺めると、なるほど私などには見えない佳句が数々あることに気づかされる。この句もそうだ。ただ、この句の良さは、間接的にではあるけれど、多少はわかる。大学の友人に医学部の男がいたからである。エッセイ集から少し引いておく。「すべての医学生が実習として行う解剖は、系統解剖という。屍体を切り開いてあらゆる臓器、血管、神経などを確認していく作業が毎日続くと、気が滅入るのも当たり前。実際、この解剖をきっかけにして人生に悩みはじめ、学校に出てこなくなった同級生がいた」。しかし多くの学生は日がたつにつれて何も気にならなくなり、「白衣だけ脱いですました顔で食堂へ行き、肉でも何でも食べられるようになる」。句はまさにこの時期の学生の様子を言ったものであり、作者も医者だったから、自分の若き日の像と重なり合って見えているのだろう。のんびりとした「春昼」の気分には「たゞの顔」が、よく似合う。その「たゞの顔」になるまでのプロセスを体験している人にとっては、見落とすことのできない句になっている。実際、私の友人もひどい状態の時期があった。はじめての解剖実習の後で、たまたまいっしょに食堂に行ったのだが、真っ青な顔をして、何ひとつ食べられなかったことをよく覚えている。それが、いつしか句のように「たゞの顔」になり一本立ちしたのだから、人間という奴はたいしたものだと言うべきだろう。(清水哲男)




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