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2004ソスN3ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0232004

 宰相のごとき声だす恋の猫

                           福田甲子雄

語は「恋の猫(猫の恋)」で春。発情して狂おしく鳴く猫の声を聞いているうちに、「待てよ、誰かの声に似てるな」と思い、思い当たったのが時の「宰相(さいしょう)」の声だった。今度は意識して耳傾けてみると、たしかに似ている。似すぎている。我ながら見事な発見に大満足して、早速書き留めた一句である。嘱目吟ならぬ嘱耳吟とでも言うべきか。作句年代は1980年(昭和55年)だ。で、当時の宰相は大平正芳総理大臣。発言の時に「あ〜、う〜、……」を連発する独特の訥弁口調は、政策云々とは別次元で、多くの人に人気があった。人気という点から言うと、その風貌とともに、戦後では吉田茂に次ぐ人物だったと思う。この句を知ったのは四、五年ほど前のことで、猫にもよるだろうが、なんとか大平的恋猫の声を私も聞いて確かめてみたいと思い、春が来るたびに期待していたのだが、今日まで果たせていない。数年前からどういうわけか、大平的も何も、我が集合住宅の近辺から猫が一匹もいなくなってしまったからである。猫を飼うことは禁止なので飼い猫がいないのは当然としても、しかしそれまではかなりの数の野良猫たちが跋扈しており、交尾期にはやかましいほど鳴いていたというのに、である。なかにはナツいていると、こっちが勝手に思っていた奴もいた。近づくと、ごろにゃんとばかりに仰向けになったものだ。それが、みんないっせいに、どこへ消えちゃったんだろうか。とても気になる。だんだん句から離れそうになってきたが、掲句のようなことが詠めるのも、やはり俳句様式ならではのことと言えよう。俳句は時代のスナップ写真としても機能する。このことについては、既に何度か書いた。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


March 0132004

 三月の声のかかりし明るさよ

                           富安風生

あ「三月」だ。そんな「声のかか」っただけで、昨日とさして変わらぬ今日ではあるが、なんとなく四囲が明るんだように見えてくる。こういう気分は、確かにある。天気予報によれば、東京あたりの今日から三日間ほどは冬に逆戻りしたような寒さがつづくという。それでも、三月は三月だ。そう思うと、寒さもそんなには苦にならない。もうすぐ暖かくなって、月末ころには桜も咲くのである。むろん北国の春はまだまだ遠いけれど、三月の声を聞けば、やはり気持ちは明るいほうへと動いていくだろう。このあたりの人間の心理の綾を、大づかみにして巧みに捉えた句である。読んだだけで、自然に微笑が浮かんでくる読者も多いことだろう。これぞ、俳句なのだ。ただ近年では花粉症が猛威を振るいはじめる月でもあって、症状の出る人たちにとっての「三月の声」は、聞くだに不快かもしれない。まことにお気の毒だ。ご同情申し上げます。そうした自然界を離れて人事的に「三月」を見ると、年度末ということがあり、働く人たちにとっては苦労の多い月でもあって、花粉症とはまた別の意味で嘆息を漏らす人もいるだろう。現実は厳しいと、自然がどんどん明るくなっていくだけに、余計に骨身に沁みてくるのだ。それも、よくわかるつもりです。だんだん話が暗くなりそうなので、このへんで止めておきますが、ともあれ「三月」。自然的にも社会的人事的にも一年のうちで最も変化に富んでいるこの月を、私は生まれてはじめて意識的にどん欲にしゃぶりつくしてやろうかと思っています。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


February 2922004

 うぐひすや家内揃うて飯時分

                           与謝蕪村

食時だろう。家族がみんな揃った食事時に「うぐひす(鶯)」が鳴いた。と、ただそれだけの句であるが、現代人の感覚で捉えると趣を読み間違えてしまう。「家内揃うて」は、現代の日曜日などのように、一週間ぶりくらいにみんなが顔を合わせているということではないからだ。昔は家族「揃うて」食事をするほうが、むしろ当たり前だった。だから、句の情景には現代的な家族団欒などという意味合いはない。一年中春夏秋冬、いつだって家族は揃って食事をとるのが普通だったのだ。では蕪村は、何故わざわざ「家内揃うて」などと、ことさらに当たり前のことを強調したのだろうか。それは「うぐひす」が鳴いたからである。何の変哲もないいつもの「飯時分(めしじぶん)」に、春を告げる鳥の声が聞こえてきた。途端に、作者の心は待ちかねていた春の到来を想って、ぽっと明るくなった。気持ちが明るくなると、日頃何とも思っていない状態にも心が動いたりする。そこで、あらためて家族がみな揃ってつつがなく、今年も春を迎えられたことのありがたさを噛みしめたというわけだ。蕪村の心の内をこう単純化してしまうとミもフタもないし、句の味わいも薄れるけれど、大筋としてはそういうことだと考える。現代詩人である吉野弘に、虹の中にいる人には虹は見えないといった詩があるが、掲句では虹の中の人が虹を見ていると言えるのではあるまいか。今日で二月もおしまいだ。現代の読者諸兄姉は、どんな春を迎えようとしているのだろうか。掲句のようにゆったりと、それぞれの虹を見つめられますように。(清水哲男)




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