2004N3句

March 0132004

 三月の声のかかりし明るさよ

                           富安風生

あ「三月」だ。そんな「声のかか」っただけで、昨日とさして変わらぬ今日ではあるが、なんとなく四囲が明るんだように見えてくる。こういう気分は、確かにある。天気予報によれば、東京あたりの今日から三日間ほどは冬に逆戻りしたような寒さがつづくという。それでも、三月は三月だ。そう思うと、寒さもそんなには苦にならない。もうすぐ暖かくなって、月末ころには桜も咲くのである。むろん北国の春はまだまだ遠いけれど、三月の声を聞けば、やはり気持ちは明るいほうへと動いていくだろう。このあたりの人間の心理の綾を、大づかみにして巧みに捉えた句である。読んだだけで、自然に微笑が浮かんでくる読者も多いことだろう。これぞ、俳句なのだ。ただ近年では花粉症が猛威を振るいはじめる月でもあって、症状の出る人たちにとっての「三月の声」は、聞くだに不快かもしれない。まことにお気の毒だ。ご同情申し上げます。そうした自然界を離れて人事的に「三月」を見ると、年度末ということがあり、働く人たちにとっては苦労の多い月でもあって、花粉症とはまた別の意味で嘆息を漏らす人もいるだろう。現実は厳しいと、自然がどんどん明るくなっていくだけに、余計に骨身に沁みてくるのだ。それも、よくわかるつもりです。だんだん話が暗くなりそうなので、このへんで止めておきますが、ともあれ「三月」。自然的にも社会的人事的にも一年のうちで最も変化に富んでいるこの月を、私は生まれてはじめて意識的にどん欲にしゃぶりつくしてやろうかと思っています。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 0232004

 宰相のごとき声だす恋の猫

                           福田甲子雄

語は「恋の猫(猫の恋)」で春。発情して狂おしく鳴く猫の声を聞いているうちに、「待てよ、誰かの声に似てるな」と思い、思い当たったのが時の「宰相(さいしょう)」の声だった。今度は意識して耳傾けてみると、たしかに似ている。似すぎている。我ながら見事な発見に大満足して、早速書き留めた一句である。嘱目吟ならぬ嘱耳吟とでも言うべきか。作句年代は1980年(昭和55年)だ。で、当時の宰相は大平正芳総理大臣。発言の時に「あ〜、う〜、……」を連発する独特の訥弁口調は、政策云々とは別次元で、多くの人に人気があった。人気という点から言うと、その風貌とともに、戦後では吉田茂に次ぐ人物だったと思う。この句を知ったのは四、五年ほど前のことで、猫にもよるだろうが、なんとか大平的恋猫の声を私も聞いて確かめてみたいと思い、春が来るたびに期待していたのだが、今日まで果たせていない。数年前からどういうわけか、大平的も何も、我が集合住宅の近辺から猫が一匹もいなくなってしまったからである。猫を飼うことは禁止なので飼い猫がいないのは当然としても、しかしそれまではかなりの数の野良猫たちが跋扈しており、交尾期にはやかましいほど鳴いていたというのに、である。なかにはナツいていると、こっちが勝手に思っていた奴もいた。近づくと、ごろにゃんとばかりに仰向けになったものだ。それが、みんないっせいに、どこへ消えちゃったんだろうか。とても気になる。だんだん句から離れそうになってきたが、掲句のようなことが詠めるのも、やはり俳句様式ならではのことと言えよう。俳句は時代のスナップ写真としても機能する。このことについては、既に何度か書いた。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


March 0332004

 雛の日の鱗につつむ死もありぬ

                           吉田汀史

語は「雛の日(雛祭)」。その命すこやかにと、女の子の息災を祈って行われる行事だ、桃の節句とも言われるように、春開花の季節のはなやぎが行事の本意によくついて色を添える。そのはなやぎの中にあって、しかし作者のまなざしは同時に、どこか遠くの海での孤独な命の終焉に向けられている。「鱗(うろこ)につつむ死」とは魚のそれであるが、単に「魚の死」と言うよりも、「死」をより生々しいものとして読者に訴えかけてくる。鱗がつつんでいるのは、もはや魚とは言えない存在である。それを「死」そのものでしかないと掴んだときに、雛の日のはなやぎの中に、あたかも実体のように「死」は突きだされたのだ。古来、はなやぎの中にさびしさを見出すという感性は珍しくはないけれど、掲句のようにさびしさの根拠を明確に、いわば物質的に指示した例は珍しいと言えよう。しかも作者は、漠然たる思いつきで海での死を思い描いたのではない。雛の日を終えた雛たちは、やがて女の子の命と引き換えに、海の彼方へと流されてゆく運命にある。流し雛。すなわち両者はそれぞれの死を媒介にして、海中で出会うのである。句は、そういうことを暗示している。何というさびしさだろうか。同じ作者に「わが父の舟とゆき逢へ流し雛」がある。まるで子供みたいな発想だと、笑うこと勿れ。「わが父」がこの世の人ではないと理解するならば、夢まぼろしの世界でしか実現しない願いを、作者は「鱗につつむ死」同様に実体化したいのだと気がつく。祈りとは、そういうものだろう。かつて能村登四郎は、作者の特質を「現実のものを夢幻の距離で眺めて詠む」ところにあると言った。至言である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


March 0432004

 春昼や腑分けして来したゞの顔

                           平畑静塔

た「腑分け(ふわけ)」とは古風な言葉だが、しかし実際に「解剖」をする人には、腑分けのほうが実感的にぴたりと来るのかもしれない。掲句は、最近清水貴久彦(岐阜大学医学部教授)さんから送っていただいたエッセイ集『病窓歳時記』(2001・まつお出版)で知った。医者の目で俳句を眺めると、なるほど私などには見えない佳句が数々あることに気づかされる。この句もそうだ。ただ、この句の良さは、間接的にではあるけれど、多少はわかる。大学の友人に医学部の男がいたからである。エッセイ集から少し引いておく。「すべての医学生が実習として行う解剖は、系統解剖という。屍体を切り開いてあらゆる臓器、血管、神経などを確認していく作業が毎日続くと、気が滅入るのも当たり前。実際、この解剖をきっかけにして人生に悩みはじめ、学校に出てこなくなった同級生がいた」。しかし多くの学生は日がたつにつれて何も気にならなくなり、「白衣だけ脱いですました顔で食堂へ行き、肉でも何でも食べられるようになる」。句はまさにこの時期の学生の様子を言ったものであり、作者も医者だったから、自分の若き日の像と重なり合って見えているのだろう。のんびりとした「春昼」の気分には「たゞの顔」が、よく似合う。その「たゞの顔」になるまでのプロセスを体験している人にとっては、見落とすことのできない句になっている。実際、私の友人もひどい状態の時期があった。はじめての解剖実習の後で、たまたまいっしょに食堂に行ったのだが、真っ青な顔をして、何ひとつ食べられなかったことをよく覚えている。それが、いつしか句のように「たゞの顔」になり一本立ちしたのだから、人間という奴はたいしたものだと言うべきだろう。(清水哲男)


March 0532004

 啓蟄や押し方馴れし車椅子

                           三村八郎

日は「啓蟄(けいちつ)」。俳句の初心者が必ず「えっ、こりゃ何だ」と戸惑う季語で、漢字も難しいのだけれど、逆にいちはやく覚えてしまうという不思議な季語だ。むろん、私もそうだった。地中に眠っていた虫たちが、暖かい気候になって穴を出てくることである。「車椅子」を押したことはないが、この句はわかる。押す人にとって、何が気になるかといえば、地面の凹凸の具合だろう。普通に歩く分には気にならない凹凸が、いざ車椅子を押す段になるととても気になる。馴れないときには、そればかりに神経が働く。だから、いつも地面の表面だけは気にしていても、地中に虫が眠っていることなどには思いが及ばない。そんな心の余裕はないのである。ところが、このごろ作者はようやく押し方に馴れてきて、コツが掴めてきた。ほとんどスムーズに押せるようになった。そして、ふと今日が啓蟄であることに気づき、自分が気づいたことに微笑している。押しながら、地面の下のことを思うようになれたということは、押し方が上手になったという理屈で、体験者ならではの喜びが滲み出ている。無関係な人からすればささやかな喜びに写るかもしれないが、介護者にはこういうことだって大きな力になるし、励ましになる。私たちは車椅子に乗っている人のことをしばしば思うけれども、押している人については看過しがちだ。これからの暖かい季節、車椅子の人たちをよく見かけるようになる。そのときに私は、きっと掲句をちらりとでも思い出さずにはいられないだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


March 0632004

 冗費とも当然とも初わらび買ふ

                           及川 貞

語は「はつわらび(初蕨)」で春。「蕨」の項に分類。「薇(ぜんまい)」とともに、春を告げる山菜の代表だ。なるほど、主婦としての作者の気持ちはよくわかる。事情があって、最近の私はよくこまごました買い物をするが、「冗費(じょうひ)」かどうかで思案すること、しばしばだ。ついこの間の雛祭りの日にも、桜餅の前でちょっと逡巡した。買わなくてもよいといえば、買わなくてもすむ。しかし、買えば生活のうるおいにはなる。結局買って帰ったのだが、そのときの心持ちは、まさに句の通りだった。買うときは何ほどの出費でもないにしても、初物だの季節物だのにこだわって買い物をつづけていると、年間での総額にはかなりの差が出てしまう。家計をあずかる主婦としては、だからいちいち自分で自分を説得して買わなければならない。でも、句の「はつわらび」などの場合は、完全に説得することは無理だろう。それでなくとも初物は高価だし、もっと出回るようになってから求めたほうが、味覚的にも満足できる。が、買いたい。筍にさきがけて、早春の味を家族といっしょに楽しみたい。こう思うのは、自然な気持ちからで「当然」じゃないだろうか。いやいや、やはり無駄遣いになるのかしらん。買ってしまっても、まだ自分を説得できないでいるのである。主婦であるならば、誰しもが掲句の世界は、日々親しいものだろう。これは男の「ケチ」とは、性質的にまったく異る。例外はあるにしても、主婦の日常的な買い物の背後には、常に家族がいるのだからだ。男の買い物には、自分しかいないことが多い。この差は、実に大きいのである。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


March 0732004

 凧とぶや僧きて父を失いき

                           寺田京子

語は「凧(たこ)」で春。子供たちは正月に揚げるが、これには「正月の凧」という季語が当てられる。単に「凧」という場合には、各地の年中行事で主に大人の揚げるものを指すのが一般的だ。作者は札幌生まれ。17歳のときに胸部疾患罹病、宿痾となる。「少女期より病みし顔映え冬の匙」、「未婚一生洗ひし足袋が合掌す」。しかも、より不幸なことには、杖とも柱とも頼んだ母親が早世してしまい、父親との二人暮らしの日々を余儀なくされたのだった。「雪降ればすぐに雪掻き妻なき父」。その父親が亡くなったときの句だ。このような事情を知らなくても、掲句には胸打たれる。順序としては、亡くなった人がいるから「僧」が来る。しかし、句では逆の言い方になっている。「僧」が来てから、「父」を失ったことに……。この逆順が示しているのは、あくまでも父親を失ったことを認めたくない心情である。認めたくない、夢ならば醒めてほしいと願う心は、しかし僧侶が訪れてきたことによって、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。父の死を現実として受け止めざるを得ない。ああ、父は本当にいなくなってしまったのだ。と、作者は呆然としている。折から、何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。作者は、いつまでも空「とぶ」凧を慟哭の思いで、しかもいわば半睡半覚の思いで見つめていたことだろう。父の非在と凧の実在。この取り合わせによる近代的抒情性が、見事に定着結晶した名句である。なお、作者は1976年に54歳で他界した。「林檎甘し八十婆まで生きること」。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


March 0832004

 枯れ果ててゆくも四温の最中なり

                           大場佳子

語は「四温(三寒四温)」。古来、歳時記では冬の項に分類してきたが、暦の上での冬の終わりの時期よりも、むしろ立春後に、多くこの現象が見られるのではあるまいか。三日寒い日がつづいたかと思うと、四日暖かい日がつづく。この繰り返しのうちに、だんだん本格的な春が近づいてくる。昨今の東京あたりでは、ちょうどそんな感じだ。この句が載っている句集を見ても、前後には春の句が配されていることから、作者は明らかに早春の季語として詠んでいる。さてこの季節、暖かい日がつづくようになると、人の目は春を告げる芽吹きであるとか花のつぼみであるとか、そういう物や現象に向かいがちになる。それが人情というものだろう。だが、作者は一方で、この季節だからこそ、完全に「枯れ果ててゆく」ものたちがあることに注目したのだった。ひっそりと、誰にも顧みられることのないまま姿を消していく存在へのまなざしは、単に植物だけを見ているのではないようにも思われる。「春よ春よ」と明るいほうばかりを見つめたがる人間界にもまた、ひそやかな死は常にいくらでも訪れてくるのだからだ。といって作者は、一般的に世の人情を風刺しているのではない。そんなつもりは、一かけらもないと思う。あくまでもみずからの胸の内に、ふっとこんな気持ちが兆したのであり、それを直截に詠んだところに、嫌みのない句の世界が静かに成立したと読む。この句を知って、あらためて庭などを眺めてみたくなる人は少なくないだろう。そういう力のある句だ。『何の所為』(2003)所収。(清水哲男)


March 0932004

 早わらびの味にも似たる乙女なり

                           遠藤周作

語は「早わらび(さわらび・早蕨)」で春。「蕨」の項に分類。題材にした詩歌では、ことに『万葉集』の「石走る垂水のうえのさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)が有名だ。芽を出したばかりの蕨は、歌のようにいかにも初々しい緑の色彩で春を告げる。その意味で、この歌は完ぺきだ。あまりにも完成しすぎているために、今日でも「早蕨」を詠むとなると、どうしてもこの歌がちらりと頭をかすめてしまう。歌が詠まれてから千数百年も経ているというのに、いまだ影響力を持ちつづけているのだから、詩歌世界の怪物みたいな存在である。だから後世の人々はそれぞれに工夫して、志賀皇子の世界とは一線を画すべく苦労してきた。なかには現代俳人・堀葦男のように「早蕨や天の岩戸の常濡れに」と詠んで、志賀皇子の時代よりもはるか昔にさかのぼった時間設定をして、オリジナリティを担保しようと試みた例もある。小説家である作者もそんなことは百も承知だから、故意に「色」は出さずに「味」で詠んだのだと思われる。「乙女(おとめ)」を形容するのに「味」とはいささか突飛だが、そこは周到に「味にも」とやることで、句には当然「色」も「香」も含まれていることを暗示させている。早蕨のほろ苦い味。そんな初々しい野性味を感じさせる「乙女」ということだろう。そよ吹く春の風のように、そのような若い女性が眼前に現れた。そのときの心の弾みが詠まれている。が、不思議なことに、句からは女性その人よりも、むしろ目を細めている作者の姿のほうが浮び上ってくる気がするのは何故だろうか。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)


March 1032004

 春闘妥結トランペットに吹き込む息

                           中島斌雄

語は「春闘」。たしかに、こんな時代があった。もはや、懐しい情景になってしまった。何日間も本来の仕事の他に、根をつめた労使交渉をつづけたあげくの「妥結」である。たとえ満足のゆく結果が出なかったとしても、ともかく終わったのだ。その安堵感の中で、久しぶりの休日に、趣味のトランペットを吹く時間と心の余裕ができた。楽器の感触を確かめながら、おもむろに息を吹き込む男の様子に、読者もほっとさせられる句である。とはいえ、現在の仕事の現場にいる人たちのほとんどには、もう掲句の味をよく解することはできないだろう。いまや春闘は一部大手企業の中でかろうじて命脈を保っているだけであり、他の人々には実質的にも実態的にも無縁と化してしまっているからだ。春闘がはじまったのは1955年(昭和30年)であり、季語にまでなって誰にも無関係ではない闘争であったものが、わずか半世紀の間にかくも無惨に形骸化するとは、誰が予測しえたであろうか。春闘をめぐっては数々の議論があって、とても紹介しきれないけれど、いずれにしても労使双方があまりにも経済一辺倒の価値観を持ちすぎたがために崩壊したと、私には写っている。「カネ」にこだわるあまりに、労働現場の改善はなおざりにされ、いまだにサービス残業や単身赴任などという異常な事態が、誰も不思議に思わないほどまでに定着しているのも、春闘の中身が何であったかを物語っている。このところの経団連は「不況と失業の時代なのだから、賃上げどころではない」と言いつづけているが、これは要するに旧態依然として「カネ」にこだわっている態度にすぎない。不況と失業の時代だからこそ、労働者を守り育てていかねばならぬ雇用者の責務を自覚していないのだ。話にならん。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


March 1132004

 春宵を番台にただ坐りをり

                           波多野爽波

語は「春宵(春の宵)」。一風呂浴びて戻る客は、道すがら「春宵一刻値千金」などと、しばし艶めいた感傷に耽ったりするわけだが、ここ「番台に」ただ坐っている人は、そんな心情とは一切無縁である。べつに同情をしているのではなくて、立場により同じ一刻の感じ方がかくも違うことに気がついて、作者は「ふーむ」と感じ入っているのだ。句の可笑しみは、番台の人のありようから発しているというよりも、むしろ作者の「ふーむ」から滲み出てくる。漱石あたりのユーモアに似ている。その前に、もうひとつ可笑しみの大きな要因がある。極めて大切なことだから書いておくが、私たちが可笑しく感じるのは、この一行を「俳句」だと認証し、それを前提にするからだ。俳句だと思うから、ポピュラーな季語である「春宵」にかなり過剰な思いを入れ込んで読みはじめるのである。そのことは初手から作者の計算のうちに、ちゃんと入っている。入っているから、読者の季語に対する先入観を利用して、不意に番台の人を登場させ、いわば読者の上ってきた「季語という梯子」をいきなり外してみせたのである。ここに、可笑しみを生じさせる最大の手管がある。このことが示唆するものは大きい。ともすれば、過剰に季語に選りかかりすぎる者たちへの警鐘の句だと言ってもよいほどだ。有季定型を信条とする詠み手も読者もが、おおかたは季語に溶け込むことにばかり腐心し、それも一概に否定はできないけれど、なんでもかでも季語の窓から世間を覗こうとする姿勢は、詩歌のためにもよろしくない。季語があるから世間がある。と、そんな馬鹿なことはないだろう。しかし、そんな馬鹿なことが横行しているのが、実は俳句の世界なのだ。掲句は、そこらへんを皮肉ってもいる。人さまざま、世間もとりどり。そのなかで俳句の位置は那辺にありや。頭でっかちならぬ「季語でっかち」俳句の無闇矢鱈な連発は、そろそろ打ち止めに願いたい。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


March 1232004

 花館揃うや真田十勇士

                           宇咲冬男

猿飛佐助
書に「松代(まつしろ)」とある。言わずと知れた真田氏の城下町(長野県)である。「花」は桜花、「館」は真田一族を偲ぶための展示館だろうか。満開の桜につつまれた「館」で往時のあれこれに思いを馳せていると、ごく自然に「真田十勇士」の面々がここに打ち揃っている気分になったと言うのである。十勇士は、あと一歩のところまで徳川家康を追いつめながら敗れ去った悲劇の名将・真田幸村の家来たちだ。猿飛佐助(さるとびさすけ)、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)、三好清海入道(みよしせいかいにゆうどう)、三好伊三(いさ)入道、穴山小助(あなやまこすけ)、由利鎌之助(ゆりかまのすけ)、根津甚八(ねづじんぱち)、筧(かけい)十蔵、海野(うんの)六郎、望月(もちづき)六郎の十人をいう。こういう句は、私のように少年時代に講談本などで彼らの活躍ぶりを知っている者には、文句無く楽しい。十勇士すべては架空の人物で、明治から大正期にかけて出版された「立川文庫」で人気を博し、その後は映画にもなり漫画にも多く描かれてきた。猿飛や霧隠は忍術の使い手だし、他の者もそれぞれの武芸に秀でた歴戦の勇士たちである。これだけのメンバーを揃えながら、なぜ幸村は敗けたのだろうと思ったりしたものだが、そこはそれ史実に重ねたフィクションなのだから仕方がない。真田幸村を惜しんだ人たちが、せめて創作の上ではあるが、彼に花を持たせてやりたいとの人情が生んだ勇士たちだった。世に源義経びいきも多いが、幸村びいきも負けてはいない。豊臣方ということもあって、関西に根強い人気を誇っている。なお、幸村の死で真田家は途絶えたわけではなく、ややこしいいきさつは省略するが、松代藩は信州最大の十万石で明治維新を迎えている。『虹の座』(2001)所収。(清水哲男)


March 1332004

 あの店はいつつぶれしや辻朧

                           小沢信男

語は「朧(おぼろ)」で春。普段よく通る道なのだけれど、はじめて「あの店」が閉じられていることに気がついた。あるいはもう、店自体が跡形も無くなっていたのかもしれない。たぶんその店は古くからそこにあって、ひっそりと「辻」のたたずまいの中に溶け込んでいたのだろう。作者には無縁の店だったから、あってもなくても日常の生活には影響がない。たとえば小間物屋だとか駄菓子屋だとか……。はてな、いつごろ「つぶれ」たのだろうか。なんだか狐につままれたような気持ちで、あらためて辻を眺め渡してみるのだが、やはり無いものは無いのだった。こういうことは、むろん春夏秋冬いずれの季節にもあることなのだが、つぶれた店にはお気の毒ながら、まるで「朧」のように朦朧と霞んで消えていたところに、淡くて苦い詩情が浮かんでくるのだ。他の季節では、こうはいくまい。私は、いまの土地(東京・三鷹)に暮らして四半世紀になる。このあたりは都心に近いベッドタウンということもあって、句の辻とは反対に店の消長が激しすぎ、「はてな」といぶかる間もあらばこそ、どんどん店が入れ替わってきた。ここは元は何屋だったのか。と、思い出す気にもならないほどだ。住みはじめたころの店は、近所に一軒も残っていない。スーパーやコンビニ、それになぜか美容院が乱立している町では、消えてしまっても掲句のような情緒は望むべくもないのである。ネギ一本でも売ってもらえた八百屋が懐しいな。夕方になるとラッパを吹いて売りに来ていた豆腐屋のおじさんも、いつしか姿を消してしまった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


March 1432004

 春風のどこでも死ねるからだであるく

                           種田山頭火

者には「風」の句が多い。このことに着目した穴井太は、ユニークな視点から「風になった男」という山頭火論を書いている。ユニークというのは、穴井が「風」という漢字のなかに何故「虫」がいるのかと考えるところからはじめた点だ。「そこで、虫を住まわせている風の語源を探ってみた。いわく『風の吹き方が変わると虫たちが生まれてくる』という。つまり風は季節や時間の動きと同義であった。/言いかえれば、風は自然の生成流転や生命時計の役割を荷っていることになる。だから風のなかにいる虫は、花やすべての生きものたちの代表として、生命あるものを象徴しているのではあるまいか」。ブッキッシュな考察に過ぎると言われればそれまでだが、こと山頭火の句に関しては、この虫の居所からほとんど説明が可能となるのだから面白い。つづいて穴井は「虫が好かない」「虫が好い」などの虫を使った成語を考察し、「科学的な根拠は乏しく、人間の心の感情を指している」ことに注目する。意よりも情、理よりも狂というわけだ。そして「それが生命感を発動するエネルギー源であることは間違いない」と断じ、山頭火の風の句を解釈していく。腹の虫、酒の虫から漂泊の虫、絶望の虫までを持ちだしてみると、なるほど山頭火という男が、要するにその場そのときの虫の居所によって、やたらと句を吐き出していたことがよくわかる。私に言わせれば我がまま三昧の句境であり、掲句などには悟りの虫よりも、「まだ死にたくない、死ぬはずがない」という虫の好い思いが見え隠れしていて、好きになれない。流転の身は、一見中世の隠者に似ていなくもないが、俗世との縁をむしろ結びたがっているところは醜悪にすら写る。山頭火ファンには申しわけないけれど、妻子を放擲してまで詠むような句でもないだろう。(清水哲男)


March 1532004

 下宿屋は下長者町下る春

                           児玉硝子

面を見ているだけで、なんとなく切なくも可笑しく感じられる句だ。ペーソスがある。大学に合格すると、地方出身者が何をおいてもやらねばならぬことは「下宿探し」である。もっとも今では、素人下宿も減ってきたから、アパート探し、マンション探しということになるのかな。いろいろと探し回って、作者が決めた下宿の住所を確認してみたら「下長者町下る」であった。「下」の文字が二つも入っていて、せっかく縁起の良い長者という地名なのだが、下宿の「下」の字も含めると三つになり、なんだか長者がどんどん零落衰退していく町のようではないか。「下る」とあるから、この町があるのは京都だ。御所の南北の真ん中あたりから烏丸通越しに西に延びているのが長者町通りで、同志社大学に通うには便利な地域だろう。住む部屋を探すのに、よほど縁起をかつぐ人でないかぎりは、まず住所表記など気にはかけない。部屋を決めてから住所を教えてもらい、たいていは「あ、そう」なんてものである。ただ京都のように古い地名が生きている街だと、句のように「あ、そう」と簡単に言うには抵抗を覚える場合も出てきてしまう。友人知己に新住居を知らせる手紙を書きながら、やはり「下」ばかり書いていると、もう少しマシな地名のところを選べばよかったと、そんなに切実ではないにしても、イヤになった昔の記憶が書かせた句のような気がする。私の場合は、新入生のときには宇治市「県通り」、二回生からは京都市北区「小山初音町」だった。いずれも良い地名なのだが、ちょっと「初音町」は照れ臭く感じていた。しかも当時の実家の住所は東京都西多摩郡多西村「草花」と言ったから、「草花」から「初音」へと転居したわけで出来過ぎである。「『草花』やて、ウソやろ」と、出来たてほやほやの友人に言われたことがある。彼に悪気はなけれども、「てやんでえ、『長者町』こそ大ウソじゃねえかっ」と言い返してやりたかったけれど、他所者の悲しさで大人しく黙ってたっけ……。『青葉同心』(2004)所収。(清水哲男)


March 1632004

 自分の田でない田となってれんげも咲く

                           三浦成一郎

語は「れんげ(蓮華草・紫雲英)」で春。いまでは化学肥料の発達で見られなくなったが、かつては緑肥として稲田で広く栽培されていた。この季節に紅紫色の小さな花が無数に田に咲いている様子は、子供だった私などの目にもまことに美しかった。春の田園の風物詩だったと言ってもよいだろう。その美しい情景が、もはや「自分の田でない田」に展開している。生活苦から手放した田と思われるが、他の動産などとちがって、売った田や山は、このようにいつまでも眼前にあるのだから辛い。「れんげも」の「も」に注目すると、自分が所有していたころには「れんげ」を咲かすこともできなかったのだろう。どうせ手放すのだからと、秋に種を蒔かなかった年があったのかもしれない。いずれにしても、他人の手に渡ってから美しくよみがえったのである。その現実を突きつけられた作者の胸の疼きが、ひしひしと伝わってくる。戦前の一時期に澎湃として起こったプロレタリア俳句の流れを組む一句だ。五七五になっていないのは、虚子などの有季定型・花鳥諷詠をブルジョア的様式として否定する立場からは当然のことだったろう。プロレタリア俳句の萌芽は、自由律俳句を提唱した荻原井泉水の「層雲」にあったことからしてもうなずける。リーダー格の栗林一石路や橋本夢道、横山林二などは、みな「層雲」で育った。「山を売りに雨の日を父はおらざり」(一石路)、「ばい雨の雲がうごいてゆく今日も仕事がない」(夢道)。掲句が発表されて数年後には京大俳句事件などが起き、言論への弾圧は苛烈を極めていく。俳句を詠み発表しただけで逮捕される。今から思えば嘘のような話だが、しかしこれは厳然たる事実なのだ。自由な言論がいかに大切か。こうした歴史的事実を思うとき、いやが上にもその思いは深くなる。「俳句生活」(1935年7・8月合併号)所載。(清水哲男)


March 1732004

 春雷や煙草の箱に駱駝の絵

                           横山きっこ

CAMEL
語は「春雷」。春の雷はめったに鳴らないし、夏のようには長くはつづかない。そこにまた、独特な情趣がある。室内での句だろう。あたりがすうっと薄暗くなってきて、思いがけない雷が鳴った。こういうときに、人の心は瞬時内向する。そして急に、それまで気にも止めていなかった机の上の物などに、あらためて親密感を抱いたりするものだ。雷は立派な天変地異のひとつだから、弱い生きものである人間としては、半ば本能的に周辺の何かにすがりたい心理状態に落ちるからだろうか。むろん一度か二度の雷鳴で大きく取り乱すというわけではないが、心の根のところではやはり幾分かは取り乱すのだと思う。そのかすかな心の乱れが、作者に「煙草の箱」を見つめさせることになった。この微妙な心理が読めないと、この句はわからない。どんな愛煙家でも、通常はパッケージの「絵」をしげしげと見つめることなどしないけれど、見つめてみればそこには確実に一つの世界が展開している。「駱駝の絵」だから、銘柄は「CAMEL」だ。掲句に引きずられて、私もつくづくと見ることになり、もう一世紀以上も前にアメリカで描かれたはずの駱駝の絵が、実に見事にアラブ世界へのクールな憧れを示していることに感心したのだった。この駱駝は、たとえば日本の歌の「月の砂漠」の駱駝のようにはセンチメンタルではない。かといって、動物園的見せ物にも描かれてはいない。あくまでも、砂漠の地を悠々と歩む自然体なのであり、背景の遠いオアシスの様子とあいまって、いわば悠久のロマンの雰囲気がうっすらと浮び上っている。このときに、春の雷に一瞬かすかに内向した作者の心は、駱駝の絵の世界で再び開いていったにちがいない。目を上げると、いつの間にか、窓外はまた元通りの春らしい陽気に戻っている。WEB句集『満月へハイヒール』(http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoJM&P=0)所収。(清水哲男)


March 1832004

 花よ花よと老若男女歳をとる

                           池田澄子

語は「花」、平安時代以降は桜の花を指すのが一般的だ。手塚美佐に「誰もかも寒さを言へり春を言ふ」があって、その後に掲句の季節が来る。昔から毎年のことではあるが、「春は名のみの風の寒さ」の候より「春」を言い、少し暖かくなってくると「花よ花よ」と開花を待ちわび、咲いたら咲いたで老いも若きもが花見に繰り出してゆく。四季の変化に富む地での農耕民族に特有の血が騒ぐのだろうか。正直に言うと、私は桜よりも野球シーズンを待ちかねる気持ちが強いのだが、野球とてもファンの「花」には違いない。句は人がそんな気持ちを繰り返すうちに、「老若男女」がみな歳をとっていくのだなあと、あらためて感嘆している。この感嘆の気持ちのなかには、唖然呆然の気配も感じられる。何故なら、老若男女の加齢には例外がなく、そこには当然自分も含まれていることに、あらためてハッとさせられるからだ。この認識は、理屈を越えた唖然呆然に否応無くつながってしまう。同じ作者に「四十九年頸に頭を載せ花曇り」の句もあり、ここにも唖然呆然の気配が漂っている。この句はしかし、あまり若い人には本当にはわからないだろう。意味的には誰にでも理解できるが、ここに唖然呆然の気配を感じるには、やはりそれなりの年齢に達している必要があるからである。したがって若い読者のなかには、「花よ花よ」と浮かれている人たちへの皮肉を言った句と誤読する人がいるかもしれない。でも、この句には皮肉の一かけらも含まれてはいないのだ。実感を正直に詠んだら、こうなったのである。では、この句を味わうにふさわしい年齢とは何歳くらいだろうか。特別にお教えすれば、それはいま掲句にハッとしたあなたの年齢が最適なのであります。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


March 1932004

 校塔に鳩多き日や卒業す

                           中村草田男

語は「卒業」。折しも卒業式シーズンである。多くの若者たちが、この春も学園を巣立ってゆく。掲句は、つとに有名な句だ。この古い青春句がいまでも人気があるのは、淡彩的なスケッチが、よく卒業式当日のしみじみとした明るさを伝えているからだろう。しかしよく読むと、さりげなげなスケッチの背後には作者の非凡な作意があることを感じる。作者も含めて、誰もふだんは「校塔」などつくづくと見上げるはずもなかったのが、いざ別れるとなると、学園のこのシンボルを見上げることになったのだ。だから、実はこの日だけ格別に「鳩」が多かったというわけではあるまい。いつもは気がつかなかっただけで、鳩は毎日のように群れていたはずなのである。それを、今日「卒業」の日だけにたくさん群れていると詠んだ。つまり、今日だけに多くの鳩を校塔に集めてしまったのは。卒業生の感傷でもあるけれど、その前に俳人として立たんとしていた草田男の並々ならぬ作句意欲だったと、私には思われる。現実に「鳩多き日」は季節的に毎日のことであり、作者が気づいたのはたまさか「卒業」の日だけのことであった。が、掲句では、この関係が逆転している。作者はいつも校塔を眺めていたのであり、いつもは鳩が少なかったと一瞬思わせるかのように、句は周到に設計されている。一見淡彩を匂わせているのだが、なかなかどうして、下地にはかなりの厚塗りが施されている。非凡な作意と言わざるを得ない所以だ。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


March 2032004

 朧より少年刃の目もて来る

                           大森 藍

年同士は、まず時候の挨拶などは交わさない。「暑い」だの「寒い」だのと言い交わすことはあるけれど、あれは挨拶ではない。一種の自己確認なのであって、独り言みたいなものである。一方の少女はというと、時候の挨拶まではいかなくても、わりに小さいころから挨拶めいた会話をはじめるようだ。挨拶は世間的なコミュニケーションの潤滑油として働くから、一般的に少年よりも少女のほうが早く世間に目覚めると言ってよいだろう。良く言えば少年は精神性が高く、少女は社会性に敏感なのだ。回り道をしたが、句はそういうことを言っている。春「朧(おぼろ)」、上天気。作者がなんとなく浮き立つような気分でいるところに、「少年」がやってきた。子供が外出から帰宅したのかもしれない。ふと見ると、ずいぶんと険しい「刃の」ような目をしている。どきりとした。何かあったのだろうか。などと思う以前に、春うららの雰囲気に全くそぐわない「刃の目」を、しばし作者は異物のように感じたのだった。このことは、すなわち少年に挨拶性が欠落していることに結びつく。句は、少年の特質を実に正確に描破している。つまり、少年は人に挨拶することはおろか、周囲の環境に対しても挨拶することをしないのである。作者は大人だから「朧」にいわば挨拶して機嫌よくいるわけだが、少年からすれば「朧」への挨拶などは自身の精神性にとって何の意味もない。そもそも「朧」という実体不分明な概念に、なぜ大人がふうちゃかと浮き立つのかがわからないのだ。飛躍するようだが、多くの少年が俳句を好まないのは、あるいは苦手にするのは、俳句の挨拶性が理解できないからである。俳句の挨拶にもいろいろあるが、なかで最もわからないのは季語が内包する挨拶性だろう。季語にはすべて、単なる事象概念を超えた挨拶としての機能がある。そして、この機能は常に一定の方向を指し示すものだ。たとえば「朧」は明るさに顔を向けるが、暗さを示す機能はないという具合に、である。変じゃないか。と、少年は素朴に思う。……これらのことに関しては長くなるので、いずれ稿を改めたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


March 2132004

 観光の玉のよそほひ春日傘

                           竹下竹人

田蛇笏が主宰誌「雲母」において、「これはまた手練れたる新鋭抜群の眩さである」と激賞した句だ。句意については明瞭なので、とくに解説は施されていない。だが私は、なんだか妙な句だなあと何度か読み直しては考え込んでしまった。さらりと解釈すれば、観光旅行中の「玉のよそほひ」をした女性に、ちょっと小粋な「春日傘」を持たせて、さながら一幅の絵から抜け出たような美女の讃ということになろうか。考え込んだのは、女性は観光旅行の途次なのだから、着飾りはしても「玉のよそほひ」とは、かなりの形容過多、大袈裟にすぎると感じたからだった。「金襴緞子の帯しめながら」ほどではないにしても、身軽さの必要な観光客にしてはどうにも印象が重すぎてかなわない。どこが「抜群の眩さ」なのかと、しばしまじまじと句を眺めることになったのである。蛇笏の鑑賞は戦後のものだから、昔のどこぞのお姫様あたりを詠んだ句でないことは、それこそ明瞭だ。しかし、どう読んでみてもしっくりと来ない。腑に落ちない。よほど採り上げるのを止めようかとしたときに、ひょっとしたらという思いから、手元の国語の辞書に手が伸びた。「観光」という言葉には、また別な意味があるのかもしれないと、念のために当該項目を引いてみたのである。とたんに「あっ」と声を上げそうになった。あったのだ、まったく別の意味が……。すなわち「観光」とは「観光繻子(かんこうじゅす)」の略であり、「絹・綿を織りまぜた繻子で、光沢をつけて唐繻子を模したもの。群馬県桐生の名産。東京浅草の観光社が委託販売をしたところからの名」なのだそうだ。白秋に「金の入り日に繻子の黒」という有名な詩があるが、あの繻子の一種というわけだった。となれば、句はすとんと腑に落ちる。なるほど、眩いばかりである。わかってみれば馬鹿みたいな話だけれど、俳句を読むときにはたまにこうしたことが起きる。やれやれ、である。飯田蛇笏『続・現代俳句の批判と鑑賞』(1954)所載。(清水哲男)


March 2232004

 春愁を四角に詰めて電車かな

                           津田このみ

今の鳥インフルエンザ騒動の映像で、ぎゅう詰めにされて飼われている鶏たちを見て、哀れと思った人は少なくないだろう。では、人間は彼らよりも哀れではないのかといえば、そうはいかない。ここに心ある鶏がいるとして、満員電車にぎゅう詰めになった人間どもを眺めたとすれば、やはり同じように哀れをもよおすはずである。しかも現在の養鶏法の歴史はたかだか半世紀なのであり、満員電車のそれよりもはるかに短いのだ。ぎゅう詰めの歴史は、人間のほうがだんぜん先行してきた。電車を開発した目的は、いちどきに大勢の人間の労働力を一定の場所に集結することにあった。べつに、観光や物見遊山などのために作った乗り物ではない。それは現今の鶏舎と同じように、ひたすら生産効率のアップに資するための設備なのである。だから電車にとっては、どんな人間もみな同価値なのであって、乗っている人間個々の思想信条や才能才質、感性感情などには頓着することはない。とにかく、つつがなく大量の労働力をA地点からB地点まで運ぶことによって、役割と任務はめでたく完了する理屈だ。掲句は、そんな電車の論理を踏まえたうえで、人間を労働とはまた別の視点から捉えて詠んでいる。「春愁」というつかみどころのない個々人ばらばらな心情を、電車がまとめて「四角に詰めて」走っている姿は、当の電車のあずかり知らぬところだから、句に可笑しみが感じられるのだ。朝夕と、今日も満員電車は元気に走りつづけるだろう。その満員電車に乗り込んで、この句を思い出す人がいるとすれば、句にとっては最良の環境で最良の読者を得たことになるのだと思う。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


March 2332004

 春の山のうしろから烟が出だした

                           尾崎放哉

語は「春の山」。晴天好日。ぼおっと霞んだような春の山の「うしろから」、「烟(けむり)」がこれまたぼおっと立ち昇りはじめた。ただそれだけの写生的描写だが、どことなくユーモラスで、さもありなんと頷ける。春の山のたたずまいをよく知っていなければ、なかなかこういう句は出てこないだろう。ところで放哉の句は、ご存知のように「自由律俳句」と呼ばれてきた。いわゆる「五七五」の音律から外れた句だ。若き日の放哉は「護岸荒るる波に乏しくなりし花」などの有季定型句を作っていたのだが、大学卒業後間もなく自由律に転じている。むろん、内的な必然性があってのことだろう。自由律の論客でもあった荻原井泉水は、その必然性について次のように書いている。「われわれは旧来の俳句において俳句という既成の型を与えられていた。それに当てはめて句作していたので、俳句という詩のリズムをさながらに表現することが許されなかった。それは俳句の形式に捉すぎてその精神を逸していたのであること、在来の俳句に付随している約束や形式は俳句が詩としての自覚を得るまでの揺籃に過ぎない。世間の俳人はその約束を本性と混同し、形式を内質と誤解している」。この意見はいまなお通用するであろうが、私が昔から気になっているのは、自由律と言いながらも、ほとんどの自由律句に音律的な自由が感じられない点だ。井泉水も放哉も山頭火も、そしておびただしく書かれたプロレタリア俳句も、読めば読むほどに、みんなリズムが似ている。そこには、「もう一つの定型」としか言いようのない音律に縛られた不自由さが感じられてならないのだ。私流には、これらはすべて「訥弁的定型句」ということになる。最近注目を集めた住宅顕信にしても、まったく同じ音律で書いている。どうして、こんなことになってしまったのだろうか。俳句界七不思議の一つに入れておきたい。『尾崎放哉句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 2432004

 梅散るやありあり遠き戦死報

                           馬場移公子

書に「亡夫、三十三回忌」とある。作者は結婚四年目にして夫を失い、養蚕業の旧家を守って生涯を秩父山峡の生家に過ごした。こうした履歴は知らなくても、句は十分に鑑賞に耐え得るだろう。なによりも「ありあり遠き」の措辞が胸を打つ。「戦死」の報せが届いた日のことは、いつだってつい最近のことのように思えていたのが、こうして「三十三回忌」の法要を営むことになり、夫の死がもはやはるかな昔のことになったと思い知らされたのだ。認めたくはないが、これが容赦ない時の流れというものである。この現実にいまさらのように、あらためて「ありあり遠き」と噛み締める作者の孤独感は、いかばかりだったろうか。夫亡き後も、毎春同じ姿で咲いては散ってきた山里の梅の花が、今年はことのほか目にしみる。日本では武士や戦士の死を桜花の散り際に例えてきた伝統があるけれど、残された者にとってはとてもそのようには思えない。例えるならば、むしろ人知れずひっそりと散ってゆく梅花のほうにこそ心は傾くだろう。その意味からも掲句の取り合わせは、読者の心にしみ込むような哀感を醸成している。古い数字だが、1949年の厚生省調査によると、大戦による全国の未亡人数は187万7161人、そのうち子の無いもの31万9402人、有子未亡人で扶養義務者の無いもの29万6105人。生活保護該当者22万7756人。無職者44万6545人。未亡人会数2065となっている。現在ご存命でも80代、90代という年代が大半で、187万余の半数以上の方々は既に鬼籍に入られたことだろう。この数字ひとつを見ても、なお戦争を肯定できる人が何処にいるだろうか。『峡の音』(1958)所収(清水哲男)


March 2532004

 人の目の真つ直ぐに来る花の中

                           廣瀬直人

の句は数々あれど、これは異色作だ。花見客でにぎわう場所か、あるいは桜並木の通りでもあろうか。ゆったりとした気分で作者が花を賞でながら歩いているうちに、ふと前から来る人の何か周囲の人たちとは違った気配に気がついた。思わず見やったその人は、桜を楽しむ気などさらさらないといった雰囲気で、ひたすら「真つ直ぐ」にこちらに向かって歩いてくるのだった。その様子を「人が真つ直ぐに来る」と言わずに、「人の目」が来ると詠んだところが実に巧みだ。思い詰めたような顔つきだったかもしれないが、その「顔」でもなくて「目」に絞り込んだ凝縮力の鋭さには唸ってしまう。行き交う人々の「目」があちこちの花にうつろっているときだけに、その人の前方を見据えて動かない「目」が際立って見えるのである。「人」でもなく「顔」でもなく、ほとんど「目」のみがずんずんと近づいてくる。言い得て妙ではないか。その人は、べつに思い詰めていたわけではなく、単に道を急いでいただけなのかもしれない。というのも、我が家の近くに東京では桜の名所に数えられる井の頭公園があって、満開の時期にはたいへんな人出となる。公園に通じる舗道はどこも狭いので、押し合いへし合い状態だ。いつだったか、そんな人込みの波を逆流する格好になって、用事のために急いで通ろうとしたたことがあった。しかし、そう簡単には前へ進めない。人並みをかきわけかきわけ、時には突き飛ばしたくなる思いにかられながら急いだ私の「目」は、まさに掲句の「人の目」に似ていたかもしれないと苦笑させられたからなのだ。井の頭の花は、今週末が見頃となる。どうか「目」だけで歩くような急用などが持ち上がりませんように。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


March 2632004

 花ぐもり燃えないゴミの中に鈴

                           富田敏子

語は「花ぐもり(花曇)」。咲きはじめてからの東京は毎日が花ぐもり状態で、気温も低く、どうも気分がすっきりしない。花々の彼方に青い空が透けて見えるような晴天が、待ち遠しい。そんなちょっと気の重い朝、作者は「燃えないゴミ」を集積所に出しに行った。ゴミ袋の中では、捨てようと決めた「鈴」が鳴っている。澄んだ音色ではなく、他のポリ容器などに圧されて濁ったような音がしている。擦れ違う人があっても鈴とは気づかないかもしれないが、作者は知っているので、心の曇る思いがしているのだろう。何か記念の鈴だろうか。あるいは土産にもらったような鈴かもしれないけれど、女性が鈴を捨てる気持ちはそう単純ではないような気がする。べつに場所塞ぎになるわけじゃなし、捨てなくても仕舞うところはいくらでもある。なのに捨てようとしたのは、手元に置いておきたくない何らかの心理的事情があったからだろう。そのあたりを考え合わせると、掲句はなるほど花ぐもりに気分が通じていて、味わい深い句だ。ゴミを出すという日常的な行為にも、それぞれの人のドラマが秘められている場合もあるということである。先日私は、かつて熱中していた8ミリ映画用の編集機を捨てた。置いてあった棚が溢れてきたので処分したわけだが、いくらもう使わないとわかってはいても、愛用していた道具を捨てるのは辛い。集積所に置いたときに一瞬逡巡する気持ちが起きたが、目をつむるようにして、立ち去った。なんだか薄情にも置き去りにしたような、不快な余韻がしばらく残った。掲句の作者も、そうだったろうか。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


March 2732004

 春まつり老いては沖を見るばかり

                           大串 章

語は「春まつり(春祭)」。春におこなわれる祭りの総称。農耕のはじめにあたって作神を迎え五穀の豊穰を祈り、疫病などを祓うための祭りというのが本義である。句の自註に、こうある。「漁村の近くで祭の法被を着た子供達に出会った。菓子袋をもち、祭の帰りらしかった。道端に坐って海を見ていた老人のことを思い出した」。句からこの背景までは読み取れないが、老人の遠い目が印象的だ。同じように「沖」を見るとしても、若者よりは老人のほうがはるかに遠い目をする。何かを思い出しているような目、何かを考えているような目。もっと言えば、老人の目は遠くをはっきり見ようとする目ではないだろう。ただ遠くに視線を送ることによって、むしろ内面を見つめるためと言おうか、来し方のあれこれを反芻するためと言おうか、あるいは逆に何も思わないで時間をやり過ごすためなのか。傍目には、そんなふうに写る。少年時代に友人の祖母が、いつも縁側の同じ場所に坐って、物言わず遠くを見ていたことを思い出した。何歳くらいだったのだろうか。とにかく昔からずっとお婆さんだったような小さな人で、しょっちゅう遊びに行っていたけれど、一度も声を聞いたことがなかった。物静かな印象を通り越し、なんだか生ける置物のような感じがして不気味に思えたこともある。その人の遠い目は、山国なので山なみに向けられていたのだったが、何かを見ようとしている目でないことは、私のような子供にもよくわかった。句の老人も、きっとそんな目をしていたにちがいない。そういえば、若い頃から老人役を好演した笠智衆は遠い目をする名人だった。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


March 2832004

 オメデタウレイコヘサクラホクジヤウス

                           川崎展宏

書きに「卒業生 札幌で挙式」とある。その祝いのために、実際に打った電文だろう。そちらの開花はまだだろうが、桜前線は確実に「ホクジヤウ(北上)」しつつあるからね。それも「レイコ」あなたに向かってと、教え子の新しい門出を祝福している。咲いていない桜を素材にして、しかし間もなくそれを咲かせる自然の力がひたひたと寄せていく状況を配して、祝意を表現してみせたところが見事だ。芸の力と言ってもよい。むろんこのときに、北上している桜前線の動きは作者の新婦に対する気持ちのそれと重なっている。今と違って昔の電報はすべて片仮名表記だったが、下手に今風に平仮名や漢字が混ざっている電文よりも、片仮名だけのほうがかえって清潔感があって、句の中身にふさわしいと思う。ただし、この書き方は作者の特許みたいなもので、第三者には使えないところが難点と言えば難点か(笑)。句集の配列から見て、昭和30年代末ころの作と思われる。そんなに電話も普及していなかったし、電話があっても長距離料金は高価だったので、冠婚葬祭用ばかりではなく、何かというと緊急の用件には電報を使った。郵便局の窓口に行くとみどり色の頼信紙なる用紙がおいてあり、なるべく文字数を少なくして安上がりにすべく、何度も指を折っては電文を思案したものだ。学生ならたいていが親への金の無心だったけれど、一般的に最もひんぱんに利用された用件は親兄弟や親類縁者の病状の悪化を告げるものだったろう。「チチキトク」などというあれである。だから電報が届くと、誰もがどきりとした。とくに夜間に配達されたりすると、開く前に心臓が縮み上がる思いがした。そんな時代は遠く去ったと思っていたら、最近では高利貸し業者が督促のために頻繁に使うのだという。祝儀不祝儀と受け取る側の心持ちが定まっている場合を除いては、いつまでも電報は精神衛生上よろしくないメディアのようである。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


March 2932004

 さへづりや馬穴で運ぶ御御御付

                           馬場龍吉

語は「さへづり(囀)」で春。まず、字面が目を引く。「馬穴」は「バケツ」と容易に読めるが、「御御御付」とは、はてな何と読むのだろう。と、読者を立ち止まらせたら、作者の勝ちである。正解は「おみおつけ」で、味噌汁のことだ。たいていの辞書には、この漢字表記も載っている。語源には大きく分けて二説あるようで、一つは主食に付ける汁椀だから「御付」と言っていたのが、どんどん丁寧に「御」「御」を付けるようになったという女房言葉説。もう一つは、「御御」は本来「御実」と書くのが正しく、「御実」は味噌汁の具を意味するという説だ。私にはどちらでもよろしいが、わざわざこうした漢字を使うのも、面白く読んでもらうための工夫には違いない。といって、句全がべつに奇を衒っているのではないところに、作者の二重の工夫が見られる。学校給食を教室に運ぶ様子だろう。そうイメージして句をよく見ると、ぎくしゃくした「御御御付」の文字にえっちらおっちら感が滲んでいるようで微笑を誘われる。今では食べ物を運ぶための専用バケツ(「バケツ」とは言わないのかな)があるが、私が子どもだったころには、掃除などに使うごく普通のバケツで味噌汁を運んでいた。むろん、後で雑巾を漬けたりしたわけではないけれど、最初のうちは違和感を感じたものだ。しかし、だんだん何とも思わなくなり、逆にそこらへんで大きなバケツを見かけると食欲すら湧いてきたのだから、慣れとは恐ろしい。それはともかく、句の「さへづり」は実に良く効いている。さして採光のよくない学校の廊下が、周辺の鳥たちの囀りによってパアッと明るくなり、いかにも春到来の気分にさせられる。そしてこの「さへづり」は、給食を待つ子どもたちの賑やかな声をも同時に含んでいる。春や春、どこからか味噌汁のおいしそうな香りが漂ってくるような佳句ではないか。句歌詩帖「草藏」(第14號・2004年3月)所載。(清水哲男)


March 3032004

 大空に唸れる虻を探しけり

                           松本たかし

語は「虻(あぶ)」で春。虻の名は、羽の唸り音からつけられたという。種類は多いが、代表的なのは花の蜜や花粉を栄養源とする「花虻」と牛馬やときには人の血を吸う「牛虻」だ。こいつに刺されると、かなり痛む。長い間、鈍痛が残ったような記憶がある。けれん味の無い句だ。若い頃にはこの種の句は苦手だったが、やはりトシのせいだろうか、こういう世界にも魅かれるようになってきた。どこかで虻の唸りがするので、どこにいるのかと音のする方向を目で追っている。でも、虻の姿はなかなか認められず、視界には「大空」が入ってくるだけだ。ただ、それだけのこと。しかし作者が、「青空」でもなく「春の空」などでもなくて、ほとんど無色にして悠久な「大空」と言い放ったところに、手柄があるだろう。大空のなかに、作者といっしょに溶け込んでしまうような駘蕩感を覚える。春だなあ。と、ひとり静かに、しかし決して孤独ではない、春ならではの大気のたゆたいを味わえる満足感とでも言おうか。理に落ちず俗に落ちない句境が素晴らしい。というところで、話はいきなり俗に落ちるが、少年時代にはずいぶんと虻に申し訳ない仕打ちをしたものだった。農村で、牛を飼っている家が多かったせいもあって、「大空」に探すどころではなく、この季節になるとたくさんの虻がそこらじゅうに飛んでいた。だから刺された体験もあるのだし、憎々しい存在だったから、我ら悪童連は復讐と称して叩き潰してまわったものだ。そのうちに単に殺すだけでは飽き足らなくなって、誰の発案だったか、油断を見澄ましては生け捕りにする作戦を展開。捕まえた奴の尻に適当な長さの藁しべを突っ込んでは、空に投げ上げるという暴挙に出たのだった。投げ上げると、最初は狂ったように飛び回り、しかしやがて力尽きて落ちてくる。敵機撃墜である。いま思えば、可哀想なことをしたものだと心が疼く。まったくもって、子どもは残酷である。『新俳句歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 3132004

 蝌蚪うごく火星に水のありしかな

                           八木幹夫

語は「蝌蚪(かと)」で春。「おたまじゃくし」のこと。時事句と言ってよいだろう。今月はじめにアメリカ航空宇宙局(NASA)の科学者チームが、無人探査車『オポチュニティー』が火星上にかつて生命を支えるのに十分なほどの水が存在していた証拠を発見した、との発表を受けている。残念なことに生物体が存在した痕跡は見つからなかったそうだが、火星人を空想した昔から、地球とは違う星の生命体に対する私たち人間の関心は高かった。存在する(した)とすれば、いったいどんき生き物なのだろうか。人間に似ているのか、それとも植物のようなものなのか、あるいはまた地球上の諸生物とはまったく形状の異なったものなのか。等々、空想や想像をしはじめたらキリがない。でも最近では、火星には生命体の存在できる物質的諸条件は無いという説が有力視されていたために、なんとなく皆がっかりしていた。そこに、今度の発表だ。再び私たちの想像力は息を吹き返し、好奇心に火がつく恰好になった。そこらへんの「蝌蚪」を見ている作者の頭にも、それがあったに違いない。自然に火星の生物へと思いが飛び、存在したとすれば、たとえばこんな姿だったのだろうかと、ぼんやりと想像している。このときに「蝌蚪泳ぐ」ではなく「うごく」としたところが、秀逸だ。「泳ぐ」などではあまりに地球的で人間臭い表現になってしまう。そうではなくて、火星の見知らぬ生物は地球人が見たこともない不気味な「うごき」をするはずなのだ。だから、この句では「うごく」しかない。いずれにせよ、こうした新しい話題を取り込む俳句は少ないということもあり、貴重な一句として書き留めておきたい。第52回「余白句会」(2004年3月28日)出句四句のうち。(清水哲男)




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