コーヒーが250円で煙草が喫える喫茶店、音楽はJAZZ。半分は若い女性客だ。




2004年2月23日の句(前日までの二句を含む)

February 2322004

 寿限無寿限無子の名貰ひに日永寺

                           櫛原希伊子

際に「日永寺」という名の寺は千葉県にあるけれど、ここでは春の季語「日永」で切って読み、春の寺のおだやかなたたずまいを想起すべきだろう。「寿限無」はむろん、落語でお馴染みの長い名前だ。はじめて男の子を授かった長屋の八五郎が、何かめでたい名前をつけてほしいと坊さんに相談したところ、出てきた名前がこれだった。「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれず かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところに すむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんの ぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーの ぽんぽこなの ちょうきゅうめいのちょうすけ」。最初の「じゅげむ(寿限無)」からして、寿(よわい)限り無しと、すこぶるめでたい。落語の登場人物だからまったくのフィクションかと思っていたら、実在の人物と聞いて驚いた。それが証拠に、戦中まで東京四谷の法眼寺に彼の墓があったそうだ。なにしろ馬鹿長い名前なので、高さは33メートルもあり、天気が良ければ上野あたりからでも見えたという。惜しいことには空襲で真ん中あたりが破損し、折れたら危険だというので撤去されてしまった。姓は鈴木で神田の生まれ、長じて大工職、1897年(明治30年)に98歳で亡くなっている。寿限無とまではいかなかったが、昔にすればかなりの長寿だ。こんな墓を建てたほうも建てたほうだとも思うが、まるでそれこそ落語みたいな呑気さを地でいったところに心がなごむ。こんな話を思い合わせて掲句に帰ると、春風駘蕩、ギスギスした世の中をしばし忘れさせてくれるのである。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


February 2222004

 檪原遠足の列散りて赤し

                           藤田湘子

語は「遠足」で春。「檪(くぬぎ)」は小楢(こなら)などとともに、いわゆる雑木林を形成する。掲句の場合の「檪原」は、遠足で来るのだから、たとえば東京・井の頭公園に見られるように下道がつけられ、よく手入れされた公園の広場を思い起こせばよいだろう。芽吹きははじまっているが、檪の落葉は早春までつづくので、広場は全体としてまだ茶色っぽい感じである。良く晴れていると、高い木々の枝を透かして落葉の上にも日差しが降り注ぐ。そんなひとときの自由時間だ。子供たちは思い思いの方向に散ってゆき、茶色っぽい広場には点々と「赤」がまき散らされた。最近の遠足だと、子供らはみな交通安全用の黄色い帽子をかぶっているので、服装の赤よりも目立つけれど、句は半世紀近い前の作である。女の子たちの服やリボンや水筒などの赤が、目に沁みた時代であった。檪も子供たちも、これからぐんぐんと育っていくのだ。敗戦後の混乱期にあっては、たかが遠足風景でも、目撃した大人たちは明日への希望につながる感慨を覚えたにちがいない。当時の作者の境遇については、少し以前の句「風花もひとたびは寧し一間得し」などから想像できる。そして、余談。私が通った田舎の小学校にも遠足はあった。だが、あまり楽しい思い出はない。行く先が、近所の山ばかりだったからだ。友人曰く。「山に住んどるモンが、山へ行って、どねえせえっちゅうんじゃ」。ま、その日は勉強しないでもすむので、それだけはみんな楽しかったのかな。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


February 2122004

 酒甕に凭りて見送る帰雁かな

                           籾山庭後

語は「帰雁(きがん)・帰る雁」で春。暖かくなって、北の国へと帰りつつある雁のこと。列(棹)をなして、去ってゆく。作者は大きな「酒甕(さかがめ)に」凭(よ)って(もたれて)、はるか上空をゆく彼らを見送っている。時は移ろい、もうこんな季節になったのかという思いが哀感を伴って伝わってくる。もたれている酒甕のなかでは、静かに酒が生長し熟成しつつあるだろう。やがて、ほどよい香気を放つまろやかな味の酒ができあがるのだ。去るものと、とどまって熟するもの。このいずれもが同時に時の経過をあらわしており、動と静の対比を視覚といわば触覚を通じて、一句に収め得たところに妙味が出た。やや大袈裟に言えば、この世の無常観を明晰な構図のなかに定着させることに成功している。いわゆる春愁の感の吐露であるが、誰の春愁にせよ、そのどこかでは必ず無常を感得する心の動きとつながっているのだと思う。先日見に出かけた『ミレーとバルビゾン派』展に、ミレーの「雁」という絵があった。棹をなして渡って行く雁たちを、二人の女性が見上げている構図だ。私などが見ると、掲句と同様な寂寥感を覚えてしまうのだが、描いたミレーはどんな気持ちからだったのだろうか。と、しばし絵の前で考えてしまった。そして、おそらくこの絵には、日本人が感じるような無常観は存在せず、空の雁は渡りの季節をあらわしているだけであり、むしろ主題は女ちの束の間の安息にあるのだろうと、無理矢理に結論づけて絵を離れた。が、西洋の絵に雁が描かれるのは珍しい。ミレーの主題については、もう少し考えてみる必要がありそうだ。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)




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