一昨日の岩淵喜代子句。メールや各BBSで色々な鑑賞をいただきました。多謝。




2004ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022004

 遺失物係の窓のヒヤシンス

                           夏井いつき

語は「ヒヤシンス」で春。忘れたのか、落してしまったのか。無くしたものを探してもらうために、「遺失物係」の窓口に届け出に行った。と、殺風景な室内とはおよそ不釣り合いなヒヤシンスが生けられていた。なんと風流な……。心なごんだ一瞬だ。自分が無くしてしまったものと、自分が思ってもみなかったものの存在との取り合わせが面白い。失せ物が出てくるという保証は何もないけれど、このヒヤシンスによって、作者はなんとなく明るい期待を持てたことだろう。作者の遺失物も、思いがけないところに存在しているのは確かなのだから。忘れ物といえば、いまだに冷汗ものの大失敗を思い出す。学生時代に、めったに乗ったことのないタクシーに乗った興奮からか、同人誌のために集めた仲間の原稿の入った紙袋を忘れて降りてしまった。はっと気がついたときには、タクシーは既に走り去っており、どこの会社のタクシーかもわからない。むろん、ナンバーなんて覚えているわけもない。真っ青になった。金で買い戻せるものならばともかく、みんなの苦労の結晶である生原稿である。謝ったとて、それですむ問題ではない。どうしようか。といっても名案はなく、下宿の電話を借りて、電話帳を頼りに片端からタクシー会社に問いあわせるしかなかった。仲間には伏せたまま、食事もしないままで下宿に待機すること一日。一社から電話があり、それらしき紙袋を保管しているので確認に来いという。そのときの嬉しかったこと。遺失物係の窓口に、すっ飛んで行ったのはもちろんである。係員が無造作に出してくれた紙袋が、本当に輝いて見えたっけ。助かった。あまりの嬉しさに、窓口の様子などは何一つ覚えていない。そんなわけで、掲句の作者が遺失物を受け取りに行ったのではなく、探してもらうために行ったことがすぐにわかった。『伊月集』(1999)所収。(清水哲男)


February 1922004

 伸びるだけ伸びる寿命へ納税期

                           有馬ひろこ

定申告の季節が巡ってきた。「納税期」を季語として採用している歳時記があるかどうかは知らないが、当サイトでは春に分類しておく。私などフリーランサーや自営業者にとっては、まことに憂うつな時期である。申告用紙を埋めていく煩雑さもさることながら、埋めていくうちに明らかになってくる納税額を直視するのが辛いからだ。掲句が示すように、高齢になればなるほど、この辛さはいっそう身に沁みるはずである。もうほとんど働けなくなって収入が激減したとしても、とにかく日本のどこかに定住して息をしているかぎりは、それだけで、なにがしかの税金は収めつづけなければならない。句は皮肉っぽくそのことを告げているわけだが、もはや皮肉を言う元気すらない人も大勢いるのだ。納税に関しては、むろんサラリーマンでも事情は同じことだけれど、多くは会社が書類を埋めてくれているので、納税額は同じだとしても、フリーランサーなどよりも辛さは抽象的ですむ場合が多いだろう。「痛いっ」と感じるよりも「仕方がない」と思う人が大半なのではあるまいか。申告書を書いていると、低所得者には言いがかりとしか思えないような税項目もあって、いちいち腹が立つ。それでも日本は自己申告制だから民主的なんだよと役人は言うけれど、最近では、いっそのことヨーロッパのような賦課税方式のほうが良いと思うようになってきた。そのほうが、さっぱりする。オカミの査定で税額が決まるのは確かに民主的ではないかもしれぬが、このシステムも運用次第だから、一概に悪いとは言えないのではないか。……などと愚痴を言っていてもはじまらない、ですね。憂うつな作業が、もうしばらくつづく。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


February 1822004

 受験期や深空に鳥の隠れ穴

                           岩淵喜代子

語は「受験」で春。「大試験」の項目に分類しておく。さて、どんな句集にも、いくつかの難解な句が含まれている。今日は、あえてチャレンジしてみたい。しばし、それこそ受験生のように考え込んでしまった句だ。が、チャレンジしたからには答案を白紙で出すわけにもいかないので、一応の解答らしきものを書いてはおくけれど、正解の自信はほとんどない。まず、「深空」で想起される春の鳥といえば、ヒバリだ。鳴きながら真っすぐに舞い上がり、空高くほがらかに囀るが、地上からその姿を認めることはなかなかできない。まるで「隠れ穴」でもあるかのように、彼らは深空に姿を没してしまうのである。では、このことと受験との関係をどう考えればよいのだろうか。ここが思案のしどころだ。そこで「受験期」の「期」に注目して、詠まれているのは自分や身内の受験のことではなく、もっと社会的なひろがりを持った「受験シーズン」一般の現象を指した句だと結論づけた。受験から何歩か引いた醒めた目で、この季節をとらえているのだと……。そう考えると、こうなる。すなわち、この季節には大勢の受験生が志望校を目指して、巣の中のひな鳥たちのように押し合いへし合いしながら、競争に励む。学校の受験会場に集まってくる子供たちの姿には、そんな感じがつきまとう。が、ほんのひとときの受験期の熱気が去ってしまうと、いったい彼らはどこへ行ってしまったのかと思われるほどに、後には何も残らない。学園には、ただいつも通りの生徒や学生の姿が見られるだけなのだ。巣立っていった「受験生」という鳥たちは、みんな深空の隠れ穴にでも入ってしまったのではないのか。と、私の解釈はここらへんまでなのだが、どんなものでしょうか。やっぱり、下手な考えでしょうか。でもこんな具合に、たまには解釈に四苦八苦するのも、頭の体操にはいいですね。ひとつどなたか、名解釈をお願いします。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)




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