春先になると滅入りがちになる。春愁 ? そんな高等な気分ではありませぬ。




2004ソスN2ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1822004

 受験期や深空に鳥の隠れ穴

                           岩淵喜代子

語は「受験」で春。「大試験」の項目に分類しておく。さて、どんな句集にも、いくつかの難解な句が含まれている。今日は、あえてチャレンジしてみたい。しばし、それこそ受験生のように考え込んでしまった句だ。が、チャレンジしたからには答案を白紙で出すわけにもいかないので、一応の解答らしきものを書いてはおくけれど、正解の自信はほとんどない。まず、「深空」で想起される春の鳥といえば、ヒバリだ。鳴きながら真っすぐに舞い上がり、空高くほがらかに囀るが、地上からその姿を認めることはなかなかできない。まるで「隠れ穴」でもあるかのように、彼らは深空に姿を没してしまうのである。では、このことと受験との関係をどう考えればよいのだろうか。ここが思案のしどころだ。そこで「受験期」の「期」に注目して、詠まれているのは自分や身内の受験のことではなく、もっと社会的なひろがりを持った「受験シーズン」一般の現象を指した句だと結論づけた。受験から何歩か引いた醒めた目で、この季節をとらえているのだと……。そう考えると、こうなる。すなわち、この季節には大勢の受験生が志望校を目指して、巣の中のひな鳥たちのように押し合いへし合いしながら、競争に励む。学校の受験会場に集まってくる子供たちの姿には、そんな感じがつきまとう。が、ほんのひとときの受験期の熱気が去ってしまうと、いったい彼らはどこへ行ってしまったのかと思われるほどに、後には何も残らない。学園には、ただいつも通りの生徒や学生の姿が見られるだけなのだ。巣立っていった「受験生」という鳥たちは、みんな深空の隠れ穴にでも入ってしまったのではないのか。と、私の解釈はここらへんまでなのだが、どんなものでしょうか。やっぱり、下手な考えでしょうか。でもこんな具合に、たまには解釈に四苦八苦するのも、頭の体操にはいいですね。ひとつどなたか、名解釈をお願いします。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


February 1722004

 春水に歩みより頭をおさへたる

                           高浜虚子

語は「春水(春の水)」。春は降雨や雪解け水などで、河川はたっぷりと水を湛える。明るい日差しのなかで、せせらぎの音も心地よく、ちょっと足を止めてのぞきこんでみたくなる。水中の植物や小さな魚たちを見ていると、心も春の色に染まってくるようだ。小学生のころから、私は春の川を見るのが好きだった。だから、こういう何でもないような句にも魅かれるのだろう。実際、この句は何でもない。水の様子をのぞこうとして川に近づき、思わずも半ば本能的に「頭(ず)おさへた」というだけのことにすぎない。「おさへた」のは、頭に帽子が乗っていたからだ。春先は、風の強い日が多い。したがって、飛ばされないようにおさえたのだろうと読む人は、失礼ながら読みの素人である。そうではなくて、このときに風は吹いていなかった。ちっとも吹いていないのに、そしてほんの少し頭を傾けるだけなのに、無意識のうちに防御の姿勢があらわれてしまった。そのことに、作者は照れ笑い、ないしは微苦笑しているのだ。帽子をかぶる習慣のある人には、どなたにも同じような覚えがあるだろう。この笑いのなかに、春色がぼおっと滲んでいる。このような無意識のうちの防御の姿勢は、程度の差はあれ、日常生活のなかで頻繁にあらわれる。転びそうになって両手を前に出したり、ぶつかりそうになって飛び退いたり……。しかし、結果的には過剰防衛だったりすることもしばしばだ。私などはすぐに忘れてしまうが、作者は忘れなかった。句作の上において、この差は大きいのかもしれない。『虚子五句集・上』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


February 1622004

 左大臣の矢を失いし頃の恋

                           寺井谷子

恋だろうか、あるいは片想いだったのか。苦い体験も、時を隔てて振り返れば、甘酸っぱい味に変わっていることもある。「左大臣」は、むろん桃の節句の雛壇に飾る人形の一人だ。弓をたばさみ、背には矢を背負っている。この爺さんは大権力者だが、ときに恋の橋渡し役もつとめたというから、酸いも甘いも噛み分けた人格者というキャラクターなのだろう。ところが、ある年に飾ろうとして箱から出してみると、どうしたことか背負い矢が無くなっていた。そのまま飾るには飾ったけれど、なんともサマにならないのである。そういえば、成就しなかった恋も、ちょうどあの頃のことだった。成就しなかったのは、もしかすると橋渡し役の逆鱗に触れたのかもしれない。と、そこまでの含意があるかどうかはわからないけれど、雛飾りと失われた恋との取り合わせは、どこか甘美な思いへと読者を誘う。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。そんな抒情性につながっている。私は男兄弟だけだから、雛祭りとは無縁だった。だが、子供ふたりは女の子。長女が三歳くらいになったときに、雛人形を求めてやろうとしたら、ひどく怖がっていらないと言われた。次女も同様に、人形の類いはいっさい受け付けなかった。なるほど、よくよく見ると、人形には不気味なところがある。怖いと言えば、その通りである。そんなわけで、ついに私は自宅での雛祭りとは無縁のままにきてしまった。近所の図書館では、例年この時期に数組の古い雛たちが飾られるので、それらを拝見するのが私のささやかな雛祭りということになる。「俳句」(2003年5月号)所載。(清水哲男)




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