昨日はたくさんのお祝いのお言葉を頂戴しました。ありがとうございます。




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February 1622004

 左大臣の矢を失いし頃の恋

                           寺井谷子

恋だろうか、あるいは片想いだったのか。苦い体験も、時を隔てて振り返れば、甘酸っぱい味に変わっていることもある。「左大臣」は、むろん桃の節句の雛壇に飾る人形の一人だ。弓をたばさみ、背には矢を背負っている。この爺さんは大権力者だが、ときに恋の橋渡し役もつとめたというから、酸いも甘いも噛み分けた人格者というキャラクターなのだろう。ところが、ある年に飾ろうとして箱から出してみると、どうしたことか背負い矢が無くなっていた。そのまま飾るには飾ったけれど、なんともサマにならないのである。そういえば、成就しなかった恋も、ちょうどあの頃のことだった。成就しなかったのは、もしかすると橋渡し役の逆鱗に触れたのかもしれない。と、そこまでの含意があるかどうかはわからないけれど、雛飾りと失われた恋との取り合わせは、どこか甘美な思いへと読者を誘う。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。そんな抒情性につながっている。私は男兄弟だけだから、雛祭りとは無縁だった。だが、子供ふたりは女の子。長女が三歳くらいになったときに、雛人形を求めてやろうとしたら、ひどく怖がっていらないと言われた。次女も同様に、人形の類いはいっさい受け付けなかった。なるほど、よくよく見ると、人形には不気味なところがある。怖いと言えば、その通りである。そんなわけで、ついに私は自宅での雛祭りとは無縁のままにきてしまった。近所の図書館では、例年この時期に数組の古い雛たちが飾られるので、それらを拝見するのが私のささやかな雛祭りということになる。「俳句」(2003年5月号)所載。(清水哲男)


February 1522004

 弁当を分けぬ友情雲に鳥

                           清水哲男

こかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)


February 1422004

 バレンタインの日なり山妻ピアノ弾く

                           景山筍吉

日は、西暦270年にローマの司教・聖バレンタイン(ヴァレンティノス)の殉教した日。後顧の憂いを絶つため、遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したために処刑されたという。多くの若者たちが、深い絶望を感じた日だったろう。それにしても、ローマは乱暴だった。シーザーの例を持ちだすまでもなく、とにかく派手な殺し合いが横行していた。作者はキリスト者で、戦争の時代もくぐっている。だから、巷間のチョコレート騒ぎから距離を置き、妻の弾くピアノに耳傾けながら、訪れた平和なひとときを楽しみ微笑している。もう一句。「老夫婦映画へバレンタインの日」。ところで、この「山妻(さんさい)」という言い方。「山の神」などと同じく、妻を第三者に向けて紹介するときの謙称、へりくだった表現である。なぜ妻と「山」とが結びつけられてきたのかについては諸説あり、いちばんひどいのは「山の神は不美人の女神」という説だ。美人の女神があれば、他方に不美人の女神もあってよいというわけだろう。伝承では彼女の好物はオコゼだということによくなっていて、これはオコゼが自分より不細工なので優越感に浸れて喜ぶからだと、実に意地悪だ。このことを知っていて使う男がいるとすれば、へりくだるにも程がある。通常ではそれほどの意味はなく、ま、山育ちで洗練されていないくらいのニュアンスだろうが、これでもまだひどすぎるか。しかし、だんだん使われなくなってきたのも事実で、「愚妻」や子供を指す「豚児」などとともに死語になりつつある。妻はむろんのこと、夫にとっても歓迎すべき傾向だ。心にもない過剰なへりくだりは、だいいち健康にもよろしくない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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