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February 1222004

 蔦の芽の朱し女は五十から

                           平石和美

語は「蔦(つた)の芽」。春になると、葉の落ちた黒い蔓から赤い芽や白い芽がふき出てくる。生長も早い。そのたくましい活力を称揚して、他の草木の「ものの芽」と区別する一項目として立てられたのだろう。ちなみに、芍薬や菖蒲の芽なども別項目立てである。掲句の中身は、そうした季語の本意によく適っている。見かけたのは偶然にしても、蔦の芽の「朱」を目にしたときに、こだわっていた何かが嘘のようにふっ切れたのだ。赤い小さな芽から、いわば生きていく勢いをもらったのである。とても素直に、そうだ「女は五十から」なんだと納得できたのだった。単純に解釈すればこういうことだが、むろんこの心境を得るまでには、それまでの気持ちの葛藤の整理がほぼなされていなければならない。ただもう一歩踏み出しかねているところもあって逡巡するうちに、蔦の芽ぶきに出会い、一気に整理がついたということだろう。いや、整理をつけたと言うべきか。自分で自分の葛藤に決着をつけるときには、すでにほとんど気持ちの方向は固まっていても、掲句のように何かのきっかけや弾みによって最終的に決めることが多い。人間の面白いところだ。句だけでは、作者の思い惑っていたことが何であるかはわからない。「五十」とあるので、年齢に関係する生活設計上の何かなのだろうが、それが何であれ、読者も作者同様に素直に「女は五十から」という断言に賛成できる。そこが、掲句の手柄である。「蔦の芽」の生命力が、まっすぐに断言の後押しをしているからだと思う。『桜炭』(2004)所収。(清水哲男)




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