長年探していた本が、何気なしに眺めていた図書館の目の前の棚にあった。




2004ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022004

 雛菓子を買はざるいまも立停る

                           殿村菟絲子

語は「雛菓子」で春。通常は「雛あられ」を指すことが多い。雛祭りに、白酒や菱餅とともに供えられる。作句時の作者は、五十歳前後という年齢だ。もうだいぶ以前に、雛を飾ることは止めてしまっているのだろう。それでも、店先の雛菓子の前では、思わずも立ち止まって眺め入ってしまうというのである。私も買いはしないが、色彩につられて立ち止まることはある。が、作者のように女性ではないから、その美しさを楽しむだけだ。でも女性の場合には、単なる美しさを越えて、幼かったころからの雛祭りの思い出が脳裡に明滅することだろう。紅、緑、白と明るい色彩の配合ではあるが、いずれも淡い色合いである。その淡さが、逆に懐旧の念をいっそう濃くすると言うべきか。紅は桃の花、緑は物の芽、白は雪をあらわしているそうで、春到来の喜びが素直に伝わってくる。ところで、この三色の配合はクリスマス・カラーと共通していることに気がついた。こちらは紅というよりも赤だけれど、濃度が異る点を除けば、クリスマスの色もほぼ同じものを使う。使いはじめたいわれには諸説あるようだが、一説に、赤はキリストの血、緑はもみの木の十字架を思わせる葉っぱ、白は日本と同じく雪の色を表現したものだという。しかし、あまり詮索することでもないだろうが、日本のそれに意味的にも共通する雪の白をベースに考えると、要するに雪におおわれた白一色、あるいは無色の現実世界に刺激をもたらす色として、赤と緑が自然に使われるようになったのだろう。理屈は、あとからつけられたのだと思う。蛇足を重ねておけば、これら三色にもう一色重ねるとすると、日本では黄色、欧米では金色だ。このあたりでも、ほぼ共通している。『路傍』(1960)所収。(清水哲男)


February 0922004

 春寒のペン画の街へ麺麭買ひに

                           辻田克巳

なお寒い街の様子を、ずばり「ペン画の街」と言ったところに魅かれた。なるほど、暖かい春の日の街であれば水彩画のようだが、寒さから来るギザギザした感じやモノクローム感は、たしかにペン画りものだ。そんな街に「麺麭(パン)」を買いに出る。焼きたてのパンのふわふわした質感と甘い香りが、肩をすぼめるようにしてペン画の街を行く作者を待っている。このときに、「麺麭」はやがて訪れる本格的な春の小さな比喩として機能している。いや、こんなふうに乱暴に分析してしまっては面白くない。もう少しぼんやりと、寒い街を歩いていく先にある何か心温まる小さなものを、読者は作者とともに楽しみにできれば、それでよいのである。ところでペン画といえば、六十代以上の世代にとっては、なんといっても樺島勝一のそれだろう。彼は最近、戦前に人気を博した漫画『正チャンノ冒険』が復刻されて話題になった。私の子供のころには「少年クラブ」や「漫画少年」の口絵などを描いていたが、画家としての最盛期は戦前だった。当時は「船の樺島」とまで言われたほどに帆船や戦艦の絵を得意にしていて、山中峯太郎、南洋一郎や海野十三などの少年小説の挿し絵には抜群の人気があったらしい。彼の挿し絵があったからこそ、小説も映えていたのだという人もいる。ぱっと見ると写真をトレースしたのではないかという印象を受けるが、よく見ると、絵は細いペン先で描かれた一本一本のていねいな線の集合体なのだ。もちろん下手糞ながら、私には彼や時代物の伊藤彦造を真似して、ペン画に熱中した時期がある。図画の宿題も、ぜんぶペン画で出していた。仕上げるには非常な根気を必要とするけれど、さながら難しいクロスワードパズルを解いていくように、少しずつ全体像に近づいていく過程は楽しかった。そんな体験もあって、掲句の「ペン画の街」は、人一倍よくわかるような気がするのである。「俳句研究」(2004年2月号・辻田克巳「わたしの平成俳句」)所載。(清水哲男)


February 0822004

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて、梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)




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