どれほどの「立春」句が、今日詠まれるのか。楽しいような空恐ろしいような。




2004ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422004

 立春の卵立ちたる夫婦かな

                           小宮山政子

だ寒い日がつづくが、季節は少しずつ春に向かって動きはじめる。実際、このところ表を歩いていると、大気が春の気配を告げてくる。寒くても、真冬とは違った、かすかにあまやかな湿気が瀰漫している感じを受ける。さて、立春といえば卵だ。この日にかぎり生卵が立つ、すなわち奇蹟が起きる。中国の言い伝えだが、作者はそれを思い出して、実際に立つかどうかを夫といっしょに試してみた。二人してああでもないこうでもない、ちょっと貸してご覧などと、だんだんに熱中していく姿が目に見えるようだ。そしてついに、卵は見事に立った。成功した。やったと思わずも顔を見合わせたときに、作者は「ああ、これが夫婦なんだ」と感じたのである。稚気に遊べる間柄。考えてみれば、大の大人にあっては、夫婦以外ではなかなか成立しにくい関係だろう。庶民のささやかな幸福感が、唐突に出された感じがする下五の「夫婦かな」に、しっとりと滲んでいる。ところで、雪と氷の研究で知られる中谷宇吉郎博士に、「立春の卵」という随筆がある。ひところの国語の教科書にも載ったそうなので、お読みになった方も多いだろう。戦後間もなくの新聞に、東京やニューヨークで立春に卵が立ったという記事が載り話題になったことがある。これを受けての実験のことを書いた文章だが、それによると卵は必ず立つし、しかも立春以外の日にも立つのだという。つまり奇蹟でもなんでもないことを、博士は証明してみせたわけだ。コロンブスは卵の尻を少し欠いて立てたのだけれど、そんな必要はない。卵の尻には三脚や五徳(ごとく)のような部分があり、その中心を慎重に探していけば必ず立つ……。人間の長年にわたる常識がくつがえされたわけで、この程度の誤った常識なら人の歩みに大過はないにしても、最近の政治的な動きにおける非常識の無理矢理な常識化などは、早めに引っ繰り返しておかないと、とんでもないことになってしまいかねない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0322004

 大根擂る欲望なんてあるにはある

                           永島理江子

語は「大根」で冬。作者は、大根を擂(す)っている。もはや手慣れた作業だから、とくに何か気をつけることもない。ただ、一定量まで擂りおろすだけだ。だが、人はしばしばこうした単純な作業の間に、ふっとあらぬことに思いが飛んだりすることがある。この場合には、すっかり忘れていた「欲望」、あるいはあきらめていたはずの「欲望」が突然にわいてきて、困惑しつつ苦笑いをしながら、それを振り払うように、また単純作業に力を込めたと言うのである。「欲望なんて」と切り捨てようとしてはみたものの、やはり「あるにはある」と自己肯定しているところが切ない。正確には、一瞬滑稽に思え、次の瞬間になんとも切なくなる。思い当たる人も多いのではなかろうか。この句は、作者がもう若くない人であることを告げている。「欲望」の中身は知る由もないけれど、それがなんであれ、高齢者のうちにも、若者や壮年者同様に種々の欲望が渦巻いていることの一端を示している。当たり前じゃないか、などと言う勿れ。いまにはじまったことではなく、壮年者が牛耳る世間はこのことをいつも忘れてきたのだ。年齢を重ねるうちに欲望などは消えていくものだと、なんとなく、あるときは故意に思ってきたというのが、私たちの歴史的真実である。枯れてきた人間は床の間にでも飾っとけ。そんな具合に高齢者を扱い、しかし善意は装い、たまさか彼らが欲望を発揮しようとすれば、年がいもないと嘲笑する。ときには、威嚇する。やがて自分が高齢に達することはわかっているはずなのに、これである。なんという矛盾だろう。だが、多くの高齢者はこの矛盾をあげつらうこともできずに、矛盾をあたかも自然の摂理のようにして暮らしているのだ。掲句のように、もはや作者が苦笑するしかない小さな哀しみを、壮年者の誰がよく理解するであろうか。『鶴の胸』(2003)所収。(清水哲男)


February 0222004

 全人類を罵倒し赤き毛皮行く

                           柴田千晶

語は「毛皮」で冬。「赤き毛皮」だから、着ているのは若い女性だろう。この女性の心中で、何がどのように鬱屈しているのかはわからない。わからないが、鬱屈が高まって、ついに「全人類を罵倒」するにいたった激情はわかるような気がする。昨今の政治家や企業家たちの愚かさや、また私を含めて、彼らの愚かさに結果としては従順に付き従っている庶民の愚かさなどを省みるとき、いまや人類は自己疎外の極に立っていると言っても過言ではないと思われる。世界中の人間は、すでにまったく「物」と化しているのではあるまいか。ここで激情を噴出させない人間のほうが、本当はどうかしているのである。「赤き毛皮」の女性の呪詛は、しごく真っ当なのだ。この女性は作者その人ではないだろうけれど、作者の気持ちを分かち持っており、作者の分身だと見た。それも具体的現実的に目の前にいる人物ではなく、現代にあらまほしき人物として作者の想像世界を颯爽と歩いているのだとも……。下世話なことを言うようだが、このときに罵倒している主体が若い女性であるから、句になった。これが若い男やおじさん、おばさんだっていっこうに構わない理屈にはなるが、読者にこの中身をうまく伝えるに際しては、やはり「赤き毛皮」(のコート)の訴求力に求めるのがいちばんだろう。再び下世話に言えば、「赤き毛皮」は激情によく通じ、とにかく絵になるのだ。格好が良いのだ。というと浅薄に聞こえるかもしれないが、コミュニケーションにおける格好の良さは、とても大事な要素だと、私はいつも思ってきた。俳誌「街」(No.45・2004年2月)所載。(清水哲男)




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