2004N2句

February 0122004

 本買へば砂觸りある二月の夜

                           原田種茅

日から「二月」。今年の立春は四日だ。まだまだ寒い日がつづくけれど、暦の上では春の月である。作者は、小さな書店で本を買い求めた。新刊書なのに、なんとなくざらついた手触りがする。「砂觸り(すなざわり)」という言葉は知らなかったが、言い得て妙だ。この時期、関東地方などではからから天気がつづき、風の強い日も多い。昔の書店の戸口はたいてい開けっ放しになっていたから、かなりこまめにハタキをかけても、本には小さな砂粒がうっすらと堆積してしまう。とくに平積みにされた大判の雑誌などの表紙は、いつもじゃりじゃりしていたものだ。しかし、それもまた本格的な春間近の兆しと思えば、心もなごむ。買ったのは夜なので、表はあいかわらず冬と同じ寒さなのだろう。が、この「砂觸り」が、たしかに春の近いことを告げている。触覚だけから「二月」を言い当てたところに、作者の冴えた、それこそ手つきが浮び上ってくる句だ。我が家にいちばん近い書店には、こうした昔の本屋の雰囲気が残っている。さすがに自動ドアはつけているのでハタキは不要らしいが、落葉の季節になると、門口を掃く店主の姿をよく見かける。いつ行っても、客のいないことが多い。正直言って品揃えは目茶苦茶で、これも昔の小さな本屋と同じだ。そして、なによりも昔とそっくりなのは、平積みにする台の低さである。開業以来、一度も台を替えていないと睨んだ。平均して昔の人は背が低かったからちょうどよかったのだろうが、いまどきの若者だと、いや中背の私でもかなり屈まなければ本に触れない低さなのだ。レトロもいいけど、ちょっとねえ……。『俳句歳時記・春之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


February 0222004

 全人類を罵倒し赤き毛皮行く

                           柴田千晶

語は「毛皮」で冬。「赤き毛皮」だから、着ているのは若い女性だろう。この女性の心中で、何がどのように鬱屈しているのかはわからない。わからないが、鬱屈が高まって、ついに「全人類を罵倒」するにいたった激情はわかるような気がする。昨今の政治家や企業家たちの愚かさや、また私を含めて、彼らの愚かさに結果としては従順に付き従っている庶民の愚かさなどを省みるとき、いまや人類は自己疎外の極に立っていると言っても過言ではないと思われる。世界中の人間は、すでにまったく「物」と化しているのではあるまいか。ここで激情を噴出させない人間のほうが、本当はどうかしているのである。「赤き毛皮」の女性の呪詛は、しごく真っ当なのだ。この女性は作者その人ではないだろうけれど、作者の気持ちを分かち持っており、作者の分身だと見た。それも具体的現実的に目の前にいる人物ではなく、現代にあらまほしき人物として作者の想像世界を颯爽と歩いているのだとも……。下世話なことを言うようだが、このときに罵倒している主体が若い女性であるから、句になった。これが若い男やおじさん、おばさんだっていっこうに構わない理屈にはなるが、読者にこの中身をうまく伝えるに際しては、やはり「赤き毛皮」(のコート)の訴求力に求めるのがいちばんだろう。再び下世話に言えば、「赤き毛皮」は激情によく通じ、とにかく絵になるのだ。格好が良いのだ。というと浅薄に聞こえるかもしれないが、コミュニケーションにおける格好の良さは、とても大事な要素だと、私はいつも思ってきた。俳誌「街」(No.45・2004年2月)所載。(清水哲男)


February 0322004

 大根擂る欲望なんてあるにはある

                           永島理江子

語は「大根」で冬。作者は、大根を擂(す)っている。もはや手慣れた作業だから、とくに何か気をつけることもない。ただ、一定量まで擂りおろすだけだ。だが、人はしばしばこうした単純な作業の間に、ふっとあらぬことに思いが飛んだりすることがある。この場合には、すっかり忘れていた「欲望」、あるいはあきらめていたはずの「欲望」が突然にわいてきて、困惑しつつ苦笑いをしながら、それを振り払うように、また単純作業に力を込めたと言うのである。「欲望なんて」と切り捨てようとしてはみたものの、やはり「あるにはある」と自己肯定しているところが切ない。正確には、一瞬滑稽に思え、次の瞬間になんとも切なくなる。思い当たる人も多いのではなかろうか。この句は、作者がもう若くない人であることを告げている。「欲望」の中身は知る由もないけれど、それがなんであれ、高齢者のうちにも、若者や壮年者同様に種々の欲望が渦巻いていることの一端を示している。当たり前じゃないか、などと言う勿れ。いまにはじまったことではなく、壮年者が牛耳る世間はこのことをいつも忘れてきたのだ。年齢を重ねるうちに欲望などは消えていくものだと、なんとなく、あるときは故意に思ってきたというのが、私たちの歴史的真実である。枯れてきた人間は床の間にでも飾っとけ。そんな具合に高齢者を扱い、しかし善意は装い、たまさか彼らが欲望を発揮しようとすれば、年がいもないと嘲笑する。ときには、威嚇する。やがて自分が高齢に達することはわかっているはずなのに、これである。なんという矛盾だろう。だが、多くの高齢者はこの矛盾をあげつらうこともできずに、矛盾をあたかも自然の摂理のようにして暮らしているのだ。掲句のように、もはや作者が苦笑するしかない小さな哀しみを、壮年者の誰がよく理解するであろうか。『鶴の胸』(2003)所収。(清水哲男)


February 0422004

 立春の卵立ちたる夫婦かな

                           小宮山政子

だ寒い日がつづくが、季節は少しずつ春に向かって動きはじめる。実際、このところ表を歩いていると、大気が春の気配を告げてくる。寒くても、真冬とは違った、かすかにあまやかな湿気が瀰漫している感じを受ける。さて、立春といえば卵だ。この日にかぎり生卵が立つ、すなわち奇蹟が起きる。中国の言い伝えだが、作者はそれを思い出して、実際に立つかどうかを夫といっしょに試してみた。二人してああでもないこうでもない、ちょっと貸してご覧などと、だんだんに熱中していく姿が目に見えるようだ。そしてついに、卵は見事に立った。成功した。やったと思わずも顔を見合わせたときに、作者は「ああ、これが夫婦なんだ」と感じたのである。稚気に遊べる間柄。考えてみれば、大の大人にあっては、夫婦以外ではなかなか成立しにくい関係だろう。庶民のささやかな幸福感が、唐突に出された感じがする下五の「夫婦かな」に、しっとりと滲んでいる。ところで、雪と氷の研究で知られる中谷宇吉郎博士に、「立春の卵」という随筆がある。ひところの国語の教科書にも載ったそうなので、お読みになった方も多いだろう。戦後間もなくの新聞に、東京やニューヨークで立春に卵が立ったという記事が載り話題になったことがある。これを受けての実験のことを書いた文章だが、それによると卵は必ず立つし、しかも立春以外の日にも立つのだという。つまり奇蹟でもなんでもないことを、博士は証明してみせたわけだ。コロンブスは卵の尻を少し欠いて立てたのだけれど、そんな必要はない。卵の尻には三脚や五徳(ごとく)のような部分があり、その中心を慎重に探していけば必ず立つ……。人間の長年にわたる常識がくつがえされたわけで、この程度の誤った常識なら人の歩みに大過はないにしても、最近の政治的な動きにおける非常識の無理矢理な常識化などは、早めに引っ繰り返しておかないと、とんでもないことになってしまいかねない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0522004

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。暦の上では春になっても、まだ寒いこと。「余寒(よかん)」と同義ではあるが、余寒が寒さに力点を置くのに対し、春寒は春に気持ちを傾かせている。「通夜余寒火葬許可証ふところに」(田中鬼骨)と、余寒はいかにも侘しい。掲句は想像句だが、しかし作者は実際の竹を見ているうちに着想したと思われる。いまごろの竹林は「竹の秋」間近で、いちばん葉の繁っているときだから、奥の方は昼なお暗い。しかしどうかすると、繁った葉から洩れてくる日差しがあたって、そこだけが美しく光っていたりする。と、ここまで見えれば、あと「かぐや姫」までの連想はごく自然な成り行きだ。なんだか、自分が竹取の翁にでもなったような気分になってくる。あの光っている竹をそおっと伐ってみれば、背丈わずかに三寸の可愛らしい女の子が眠っているはずだという想像は、外気が冷たいだけに、春待つ心を誘い出す。こんなふうに自然を眺められたら、どんなに素敵なことか、気が安らぐことか。一読して、たえずギスギスしている私はそう思った。『竹取物語』は平安期に、相当に教養のあった男の書いた話とされている。子供にも面白い読み物だけれど、大人になって読み返してみると、全編が当時の権力者への批判風刺で貫かれていることがわかる。単なるわがまま美女の物語ではなくて、かぐや姫は庶民に潜在していた「一寸の虫にも五分の魂」という気概を象徴しているのだ。しかし、体制はいまとは大違い。女性の地位も、現代では考えられないほどに低かった。したがって帝(みかど)の求婚まで断わるとなった以上は、死をもって償わねばならない。心優しい物語作者は、姫を満月の夜に昇天させるという美しいイメージのなかに、姫の自死を悼んだのだった。『日野草城句集』(2001・角川書店)(清水哲男)


February 0622004

 東京に育ち花菜の村へ嫁く

                           杉本 寛

語は「花菜(はなな)」で春。菜の花のこと。「嫁く」は「ゆく」と読ませている。自註に「東京生れ、東京育ちの知人の娘さんが、奈良へ嫁がれた」とある。そして「愛は強しということ」と締めくくっているが、この美しい句の底に流れる作者の心理は、そう単純なものではないだろう。私の場合は娘が外国に嫁ってしまったので、とくにそう感じるのかもしれないが……。そのときの私に強い感慨があったとすれば、愛は強しよりも、良い度胸をしてるなあということであった。句の娘さんもそうだけれど、まったく見知らぬ土地で生涯を暮らす決心をすることなどは、とうてい私にはできそうもない。就職し結婚してから何度か転居はしたが、それも東京の中での話だ。その気になれば他県に住んでも構わない条件にあったときにも、ぐずぐずと家賃の高い東京にへばりついていた。それも、東京の西側ばかりでなのだ。しかし考えてみれば、昔から結婚で新しい土地に移り住むのはほとんどが女性である。男性が経済力を保持している以上、止むを得ないといえばそれまでだけれど、私の観察するところによると、どうも男より女のほうが、本性的に新しい環境への適応力があるのではないかと思う。地域のボランティア活動などを見ていても、総じて女性たちのほうがすっと入っていくし、その後の活動においても活発だ。彼女たちはたいてい結婚でよその土地からやってきているのに、何年かするうちに、もうちゃきちゃきの土地っ子のように振る舞えるのには驚く。だからその意味で、句の娘さんのこともそんなに心配するには及ばないだろう。ましてや、自分の子供ではない。……と思って詠んだとしても、作者の「でもなあ」というどこか割り切れぬ感想が、句に漂っているような気がする。なんとなく、句がハラハラしている。『杉本寛集』(1989・俳人協会)所収。(清水哲男)


February 0722004

 橋わたりきつてをんなが吐く椿

                           八木忠栄

語は「椿(つばき)」で春。幻想的にして凄艶。凄絶にして艶麗。伝奇小説の一シーンのようだ。このときに「をんな」は、もちろん和装でなければならない。橋をわたるとは、しばしば逃亡、逃避行のイメージにつながり、わたろうと決意するまでの過程を含めて、息詰まるような緊張感をもたらす。虹の橋をわたるのではないから、わたった対岸に明るい望みがあるわけではない。しかし、何としてもわたりきらなければ、無残な仕打ちにあうのは必定だ。たとえばそんな状況にある「をんな」が、極度な不安の高まりを抑えつつ、ついに「わたりきつて吐く椿」。緊張感が一挙にほどけたときの生理現象であり、血を吐いたかと思いきや、ぽたりと真紅の椿を吐いたところで句になった。こらえにこらえていたものが胸から吐かれるときは、血のようにぱあっと四散するのではなく、あくまでも椿のようにぽたりと落ちるのである。そして作者は、椿の落花のように吐かれた精神的痛苦を指して、椿そのものが吐かれたと見た。橋の袂に白い雪が残っていれば、ますます幻想度は高まる。悲哀感も増してくる。やがて「をんな」が立ち去ったあとには、周辺に椿の木もないのに、花一輪だけがいま落ちたばかりの風情で生々しく残されている。何も知らずに通りかかった人は、狐にでも化かされたのではあるまいかと首をひねるかもしれない……。などと掲句は、読者のいろいろな想像をかきたてて止まるところがない。ただし、どんなに突飛な幻想でも、どこかに必ず現実的な根拠を持っている。だとすれば、掲句の発想を得た現実的根拠とは、どんなものだったのだろうか。そんなことまで考えさせられた。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


February 0822004

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて、梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)


February 0922004

 春寒のペン画の街へ麺麭買ひに

                           辻田克巳

なお寒い街の様子を、ずばり「ペン画の街」と言ったところに魅かれた。なるほど、暖かい春の日の街であれば水彩画のようだが、寒さから来るギザギザした感じやモノクローム感は、たしかにペン画りものだ。そんな街に「麺麭(パン)」を買いに出る。焼きたてのパンのふわふわした質感と甘い香りが、肩をすぼめるようにしてペン画の街を行く作者を待っている。このときに、「麺麭」はやがて訪れる本格的な春の小さな比喩として機能している。いや、こんなふうに乱暴に分析してしまっては面白くない。もう少しぼんやりと、寒い街を歩いていく先にある何か心温まる小さなものを、読者は作者とともに楽しみにできれば、それでよいのである。ところでペン画といえば、六十代以上の世代にとっては、なんといっても樺島勝一のそれだろう。彼は最近、戦前に人気を博した漫画『正チャンノ冒険』が復刻されて話題になった。私の子供のころには「少年クラブ」や「漫画少年」の口絵などを描いていたが、画家としての最盛期は戦前だった。当時は「船の樺島」とまで言われたほどに帆船や戦艦の絵を得意にしていて、山中峯太郎、南洋一郎や海野十三などの少年小説の挿し絵には抜群の人気があったらしい。彼の挿し絵があったからこそ、小説も映えていたのだという人もいる。ぱっと見ると写真をトレースしたのではないかという印象を受けるが、よく見ると、絵は細いペン先で描かれた一本一本のていねいな線の集合体なのだ。もちろん下手糞ながら、私には彼や時代物の伊藤彦造を真似して、ペン画に熱中した時期がある。図画の宿題も、ぜんぶペン画で出していた。仕上げるには非常な根気を必要とするけれど、さながら難しいクロスワードパズルを解いていくように、少しずつ全体像に近づいていく過程は楽しかった。そんな体験もあって、掲句の「ペン画の街」は、人一倍よくわかるような気がするのである。「俳句研究」(2004年2月号・辻田克巳「わたしの平成俳句」)所載。(清水哲男)


February 1022004

 雛菓子を買はざるいまも立停る

                           殿村菟絲子

語は「雛菓子」で春。通常は「雛あられ」を指すことが多い。雛祭りに、白酒や菱餅とともに供えられる。作句時の作者は、五十歳前後という年齢だ。もうだいぶ以前に、雛を飾ることは止めてしまっているのだろう。それでも、店先の雛菓子の前では、思わずも立ち止まって眺め入ってしまうというのである。私も買いはしないが、色彩につられて立ち止まることはある。が、作者のように女性ではないから、その美しさを楽しむだけだ。でも女性の場合には、単なる美しさを越えて、幼かったころからの雛祭りの思い出が脳裡に明滅することだろう。紅、緑、白と明るい色彩の配合ではあるが、いずれも淡い色合いである。その淡さが、逆に懐旧の念をいっそう濃くすると言うべきか。紅は桃の花、緑は物の芽、白は雪をあらわしているそうで、春到来の喜びが素直に伝わってくる。ところで、この三色の配合はクリスマス・カラーと共通していることに気がついた。こちらは紅というよりも赤だけれど、濃度が異る点を除けば、クリスマスの色もほぼ同じものを使う。使いはじめたいわれには諸説あるようだが、一説に、赤はキリストの血、緑はもみの木の十字架を思わせる葉っぱ、白は日本と同じく雪の色を表現したものだという。しかし、あまり詮索することでもないだろうが、日本のそれに意味的にも共通する雪の白をベースに考えると、要するに雪におおわれた白一色、あるいは無色の現実世界に刺激をもたらす色として、赤と緑が自然に使われるようになったのだろう。理屈は、あとからつけられたのだと思う。蛇足を重ねておけば、これら三色にもう一色重ねるとすると、日本では黄色、欧米では金色だ。このあたりでも、ほぼ共通している。『路傍』(1960)所収。(清水哲男)


February 1122004

 挿木する明日へのこころ淡くして

                           能村登四郎

語は「挿木(さしき)」で春。枝などを切って土や砂に挿し、根を出させて苗木をつくる。時期的にはまだ早く、すっかり暖かくなった春の彼岸ころに行われることが多い。若き日の寺山修司が好んだフレーズに、「もしも世界の終わりが明日だとしても、私は林檎の種を蒔くだろう」というのがあった。誰の言葉かは忘れた。種蒔きでも挿木でも同様だが、この作業は「明日」があることを前提にし、それも植物が生長を遂げるのに十分な時間の幅を持った明日である。むろん生長を見守る自分も、充実の時には存在していなければならない。だから、世界が明日破滅すると決まっていても林檎の種を蒔くという行為には、矛盾がある。しかし大いなる矛盾があるからこそ、このフレーズには、どんな状況においても希望を捨てない若々しいロマンチシズムがみなぎっているのだ。前置きが長くなったが、掲句は一見、このフレーズの淡彩版のようにも読める。というのも「明日へのこころ淡くして」挿木する作者を若者だとみるならば、心弱き日の感傷的な行為と受け取られ、立ち上がってくるのは甘酸っぱいようなロマンチシズムの香りである。だが、実際に作者が詠んだのは、最晩年の九十歳の春だった。そのことを知ると、句は大きく様相を変えて迫ってくる。すなわち、「明日」がないのは世界ではなくて、我が命のほうなのだ。挿している植物が生長するまで、生きていられるだろうか。その心もとなさを「こころ淡くして」と詠み、みずからの明日の存在の不確実性は真実こう詠むしかないわけであり、ここには微塵のロマンチシズムも存在しないのである。我が身の老いを完全に自覚したときの孤独感とはこのようなものなのかと、粛然とさせられた。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


February 1222004

 蔦の芽の朱し女は五十から

                           平石和美

語は「蔦(つた)の芽」。春になると、葉の落ちた黒い蔓から赤い芽や白い芽がふき出てくる。生長も早い。そのたくましい活力を称揚して、他の草木の「ものの芽」と区別する一項目として立てられたのだろう。ちなみに、芍薬や菖蒲の芽なども別項目立てである。掲句の中身は、そうした季語の本意によく適っている。見かけたのは偶然にしても、蔦の芽の「朱」を目にしたときに、こだわっていた何かが嘘のようにふっ切れたのだ。赤い小さな芽から、いわば生きていく勢いをもらったのである。とても素直に、そうだ「女は五十から」なんだと納得できたのだった。単純に解釈すればこういうことだが、むろんこの心境を得るまでには、それまでの気持ちの葛藤の整理がほぼなされていなければならない。ただもう一歩踏み出しかねているところもあって逡巡するうちに、蔦の芽ぶきに出会い、一気に整理がついたということだろう。いや、整理をつけたと言うべきか。自分で自分の葛藤に決着をつけるときには、すでにほとんど気持ちの方向は固まっていても、掲句のように何かのきっかけや弾みによって最終的に決めることが多い。人間の面白いところだ。句だけでは、作者の思い惑っていたことが何であるかはわからない。「五十」とあるので、年齢に関係する生活設計上の何かなのだろうが、それが何であれ、読者も作者同様に素直に「女は五十から」という断言に賛成できる。そこが、掲句の手柄である。「蔦の芽」の生命力が、まっすぐに断言の後押しをしているからだと思う。『桜炭』(2004)所収。(清水哲男)


February 1322004

 全身にポケットあまた春の宵

                           坪内稔典

宵一刻直千金。昔は「千金の夜」などという季語もあったそうだが、これはどうもガツガツしているようでいただけない。「春の宵」はそんな現世利益をしばし忘れさせるほどに、ほわあんとしている感じが良いのだ。ほわあんとすると、なんだか甘酸っぱい感傷に誘われるときもあるし、掲句のように、当たり前といえば当たり前のことに気がついたり感じ入ったりすることもある。言われてみれば、なるほど男の衣服の「ポケット」の数は多い。まさに「全身」がポケットだらけだ。しかし「こりゃ大変だ」というのでもなければ「何故なんだ」というのでもない。「ふうむ」と、作者はひたすらに感じ入っている。そこらへんが可笑しいのだが、この可笑しみは他の季節の宵には感じられない、やはり春ならではのものだろう。くすぐったいような、作者の例の甘納豆句の「うふふふふ」のような……。句にうながされて、外出時の自分のポケットの数を勘定してみた。コートに五つ、ジーンズの上下に九つ、合わせて14個もついている。スーツだったら、もっと多いはずだ。ポケットの中に、またポケットがついていたりする。で、これらすべてを使っているかというと、半分も使っていない。第一、全部使うほどにたくさんの小物を持って歩くことはない。たまに紛失してはいけないメモなどを、ふだんは使わない内ポケットにしまい込むこともあるが、飲み屋でそんなことをするとエラい目にあう。翌朝、朦朧たる意識のうちに、そんなメモがあったことを思い出してポケットを探るのだが、いつも使うところには無いので、一瞬青ざめるのである。逆に、冬場になってはじめてコートを着たときに、何気なくポケットに手を入れると千円札が入っていたりして、一瞬雀躍するのである。『百年の家』(1993)所収。(清水哲男)


February 1422004

 バレンタインの日なり山妻ピアノ弾く

                           景山筍吉

日は、西暦270年にローマの司教・聖バレンタイン(ヴァレンティノス)の殉教した日。後顧の憂いを絶つため、遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したために処刑されたという。多くの若者たちが、深い絶望を感じた日だったろう。それにしても、ローマは乱暴だった。シーザーの例を持ちだすまでもなく、とにかく派手な殺し合いが横行していた。作者はキリスト者で、戦争の時代もくぐっている。だから、巷間のチョコレート騒ぎから距離を置き、妻の弾くピアノに耳傾けながら、訪れた平和なひとときを楽しみ微笑している。もう一句。「老夫婦映画へバレンタインの日」。ところで、この「山妻(さんさい)」という言い方。「山の神」などと同じく、妻を第三者に向けて紹介するときの謙称、へりくだった表現である。なぜ妻と「山」とが結びつけられてきたのかについては諸説あり、いちばんひどいのは「山の神は不美人の女神」という説だ。美人の女神があれば、他方に不美人の女神もあってよいというわけだろう。伝承では彼女の好物はオコゼだということによくなっていて、これはオコゼが自分より不細工なので優越感に浸れて喜ぶからだと、実に意地悪だ。このことを知っていて使う男がいるとすれば、へりくだるにも程がある。通常ではそれほどの意味はなく、ま、山育ちで洗練されていないくらいのニュアンスだろうが、これでもまだひどすぎるか。しかし、だんだん使われなくなってきたのも事実で、「愚妻」や子供を指す「豚児」などとともに死語になりつつある。妻はむろんのこと、夫にとっても歓迎すべき傾向だ。心にもない過剰なへりくだりは、だいいち健康にもよろしくない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1522004

 弁当を分けぬ友情雲に鳥

                           清水哲男

こかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)


February 1622004

 左大臣の矢を失いし頃の恋

                           寺井谷子

恋だろうか、あるいは片想いだったのか。苦い体験も、時を隔てて振り返れば、甘酸っぱい味に変わっていることもある。「左大臣」は、むろん桃の節句の雛壇に飾る人形の一人だ。弓をたばさみ、背には矢を背負っている。この爺さんは大権力者だが、ときに恋の橋渡し役もつとめたというから、酸いも甘いも噛み分けた人格者というキャラクターなのだろう。ところが、ある年に飾ろうとして箱から出してみると、どうしたことか背負い矢が無くなっていた。そのまま飾るには飾ったけれど、なんともサマにならないのである。そういえば、成就しなかった恋も、ちょうどあの頃のことだった。成就しなかったのは、もしかすると橋渡し役の逆鱗に触れたのかもしれない。と、そこまでの含意があるかどうかはわからないけれど、雛飾りと失われた恋との取り合わせは、どこか甘美な思いへと読者を誘う。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。そんな抒情性につながっている。私は男兄弟だけだから、雛祭りとは無縁だった。だが、子供ふたりは女の子。長女が三歳くらいになったときに、雛人形を求めてやろうとしたら、ひどく怖がっていらないと言われた。次女も同様に、人形の類いはいっさい受け付けなかった。なるほど、よくよく見ると、人形には不気味なところがある。怖いと言えば、その通りである。そんなわけで、ついに私は自宅での雛祭りとは無縁のままにきてしまった。近所の図書館では、例年この時期に数組の古い雛たちが飾られるので、それらを拝見するのが私のささやかな雛祭りということになる。「俳句」(2003年5月号)所載。(清水哲男)


February 1722004

 春水に歩みより頭をおさへたる

                           高浜虚子

語は「春水(春の水)」。春は降雨や雪解け水などで、河川はたっぷりと水を湛える。明るい日差しのなかで、せせらぎの音も心地よく、ちょっと足を止めてのぞきこんでみたくなる。水中の植物や小さな魚たちを見ていると、心も春の色に染まってくるようだ。小学生のころから、私は春の川を見るのが好きだった。だから、こういう何でもないような句にも魅かれるのだろう。実際、この句は何でもない。水の様子をのぞこうとして川に近づき、思わずも半ば本能的に「頭(ず)おさへた」というだけのことにすぎない。「おさへた」のは、頭に帽子が乗っていたからだ。春先は、風の強い日が多い。したがって、飛ばされないようにおさえたのだろうと読む人は、失礼ながら読みの素人である。そうではなくて、このときに風は吹いていなかった。ちっとも吹いていないのに、そしてほんの少し頭を傾けるだけなのに、無意識のうちに防御の姿勢があらわれてしまった。そのことに、作者は照れ笑い、ないしは微苦笑しているのだ。帽子をかぶる習慣のある人には、どなたにも同じような覚えがあるだろう。この笑いのなかに、春色がぼおっと滲んでいる。このような無意識のうちの防御の姿勢は、程度の差はあれ、日常生活のなかで頻繁にあらわれる。転びそうになって両手を前に出したり、ぶつかりそうになって飛び退いたり……。しかし、結果的には過剰防衛だったりすることもしばしばだ。私などはすぐに忘れてしまうが、作者は忘れなかった。句作の上において、この差は大きいのかもしれない。『虚子五句集・上』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


February 1822004

 受験期や深空に鳥の隠れ穴

                           岩淵喜代子

語は「受験」で春。「大試験」の項目に分類しておく。さて、どんな句集にも、いくつかの難解な句が含まれている。今日は、あえてチャレンジしてみたい。しばし、それこそ受験生のように考え込んでしまった句だ。が、チャレンジしたからには答案を白紙で出すわけにもいかないので、一応の解答らしきものを書いてはおくけれど、正解の自信はほとんどない。まず、「深空」で想起される春の鳥といえば、ヒバリだ。鳴きながら真っすぐに舞い上がり、空高くほがらかに囀るが、地上からその姿を認めることはなかなかできない。まるで「隠れ穴」でもあるかのように、彼らは深空に姿を没してしまうのである。では、このことと受験との関係をどう考えればよいのだろうか。ここが思案のしどころだ。そこで「受験期」の「期」に注目して、詠まれているのは自分や身内の受験のことではなく、もっと社会的なひろがりを持った「受験シーズン」一般の現象を指した句だと結論づけた。受験から何歩か引いた醒めた目で、この季節をとらえているのだと……。そう考えると、こうなる。すなわち、この季節には大勢の受験生が志望校を目指して、巣の中のひな鳥たちのように押し合いへし合いしながら、競争に励む。学校の受験会場に集まってくる子供たちの姿には、そんな感じがつきまとう。が、ほんのひとときの受験期の熱気が去ってしまうと、いったい彼らはどこへ行ってしまったのかと思われるほどに、後には何も残らない。学園には、ただいつも通りの生徒や学生の姿が見られるだけなのだ。巣立っていった「受験生」という鳥たちは、みんな深空の隠れ穴にでも入ってしまったのではないのか。と、私の解釈はここらへんまでなのだが、どんなものでしょうか。やっぱり、下手な考えでしょうか。でもこんな具合に、たまには解釈に四苦八苦するのも、頭の体操にはいいですね。ひとつどなたか、名解釈をお願いします。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


February 1922004

 伸びるだけ伸びる寿命へ納税期

                           有馬ひろこ

定申告の季節が巡ってきた。「納税期」を季語として採用している歳時記があるかどうかは知らないが、当サイトでは春に分類しておく。私などフリーランサーや自営業者にとっては、まことに憂うつな時期である。申告用紙を埋めていく煩雑さもさることながら、埋めていくうちに明らかになってくる納税額を直視するのが辛いからだ。掲句が示すように、高齢になればなるほど、この辛さはいっそう身に沁みるはずである。もうほとんど働けなくなって収入が激減したとしても、とにかく日本のどこかに定住して息をしているかぎりは、それだけで、なにがしかの税金は収めつづけなければならない。句は皮肉っぽくそのことを告げているわけだが、もはや皮肉を言う元気すらない人も大勢いるのだ。納税に関しては、むろんサラリーマンでも事情は同じことだけれど、多くは会社が書類を埋めてくれているので、納税額は同じだとしても、フリーランサーなどよりも辛さは抽象的ですむ場合が多いだろう。「痛いっ」と感じるよりも「仕方がない」と思う人が大半なのではあるまいか。申告書を書いていると、低所得者には言いがかりとしか思えないような税項目もあって、いちいち腹が立つ。それでも日本は自己申告制だから民主的なんだよと役人は言うけれど、最近では、いっそのことヨーロッパのような賦課税方式のほうが良いと思うようになってきた。そのほうが、さっぱりする。オカミの査定で税額が決まるのは確かに民主的ではないかもしれぬが、このシステムも運用次第だから、一概に悪いとは言えないのではないか。……などと愚痴を言っていてもはじまらない、ですね。憂うつな作業が、もうしばらくつづく。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


February 2022004

 遺失物係の窓のヒヤシンス

                           夏井いつき

語は「ヒヤシンス」で春。忘れたのか、落してしまったのか。無くしたものを探してもらうために、「遺失物係」の窓口に届け出に行った。と、殺風景な室内とはおよそ不釣り合いなヒヤシンスが生けられていた。なんと風流な……。心なごんだ一瞬だ。自分が無くしてしまったものと、自分が思ってもみなかったものの存在との取り合わせが面白い。失せ物が出てくるという保証は何もないけれど、このヒヤシンスによって、作者はなんとなく明るい期待を持てたことだろう。作者の遺失物も、思いがけないところに存在しているのは確かなのだから。忘れ物といえば、いまだに冷汗ものの大失敗を思い出す。学生時代に、めったに乗ったことのないタクシーに乗った興奮からか、同人誌のために集めた仲間の原稿の入った紙袋を忘れて降りてしまった。はっと気がついたときには、タクシーは既に走り去っており、どこの会社のタクシーかもわからない。むろん、ナンバーなんて覚えているわけもない。真っ青になった。金で買い戻せるものならばともかく、みんなの苦労の結晶である生原稿である。謝ったとて、それですむ問題ではない。どうしようか。といっても名案はなく、下宿の電話を借りて、電話帳を頼りに片端からタクシー会社に問いあわせるしかなかった。仲間には伏せたまま、食事もしないままで下宿に待機すること一日。一社から電話があり、それらしき紙袋を保管しているので確認に来いという。そのときの嬉しかったこと。遺失物係の窓口に、すっ飛んで行ったのはもちろんである。係員が無造作に出してくれた紙袋が、本当に輝いて見えたっけ。助かった。あまりの嬉しさに、窓口の様子などは何一つ覚えていない。そんなわけで、掲句の作者が遺失物を受け取りに行ったのではなく、探してもらうために行ったことがすぐにわかった。『伊月集』(1999)所収。(清水哲男)


February 2122004

 酒甕に凭りて見送る帰雁かな

                           籾山庭後

語は「帰雁(きがん)・帰る雁」で春。暖かくなって、北の国へと帰りつつある雁のこと。列(棹)をなして、去ってゆく。作者は大きな「酒甕(さかがめ)に」凭(よ)って(もたれて)、はるか上空をゆく彼らを見送っている。時は移ろい、もうこんな季節になったのかという思いが哀感を伴って伝わってくる。もたれている酒甕のなかでは、静かに酒が生長し熟成しつつあるだろう。やがて、ほどよい香気を放つまろやかな味の酒ができあがるのだ。去るものと、とどまって熟するもの。このいずれもが同時に時の経過をあらわしており、動と静の対比を視覚といわば触覚を通じて、一句に収め得たところに妙味が出た。やや大袈裟に言えば、この世の無常観を明晰な構図のなかに定着させることに成功している。いわゆる春愁の感の吐露であるが、誰の春愁にせよ、そのどこかでは必ず無常を感得する心の動きとつながっているのだと思う。先日見に出かけた『ミレーとバルビゾン派』展に、ミレーの「雁」という絵があった。棹をなして渡って行く雁たちを、二人の女性が見上げている構図だ。私などが見ると、掲句と同様な寂寥感を覚えてしまうのだが、描いたミレーはどんな気持ちからだったのだろうか。と、しばし絵の前で考えてしまった。そして、おそらくこの絵には、日本人が感じるような無常観は存在せず、空の雁は渡りの季節をあらわしているだけであり、むしろ主題は女ちの束の間の安息にあるのだろうと、無理矢理に結論づけて絵を離れた。が、西洋の絵に雁が描かれるのは珍しい。ミレーの主題については、もう少し考えてみる必要がありそうだ。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)


February 2222004

 檪原遠足の列散りて赤し

                           藤田湘子

語は「遠足」で春。「檪(くぬぎ)」は小楢(こなら)などとともに、いわゆる雑木林を形成する。掲句の場合の「檪原」は、遠足で来るのだから、たとえば東京・井の頭公園に見られるように下道がつけられ、よく手入れされた公園の広場を思い起こせばよいだろう。芽吹きははじまっているが、檪の落葉は早春までつづくので、広場は全体としてまだ茶色っぽい感じである。良く晴れていると、高い木々の枝を透かして落葉の上にも日差しが降り注ぐ。そんなひとときの自由時間だ。子供たちは思い思いの方向に散ってゆき、茶色っぽい広場には点々と「赤」がまき散らされた。最近の遠足だと、子供らはみな交通安全用の黄色い帽子をかぶっているので、服装の赤よりも目立つけれど、句は半世紀近い前の作である。女の子たちの服やリボンや水筒などの赤が、目に沁みた時代であった。檪も子供たちも、これからぐんぐんと育っていくのだ。敗戦後の混乱期にあっては、たかが遠足風景でも、目撃した大人たちは明日への希望につながる感慨を覚えたにちがいない。当時の作者の境遇については、少し以前の句「風花もひとたびは寧し一間得し」などから想像できる。そして、余談。私が通った田舎の小学校にも遠足はあった。だが、あまり楽しい思い出はない。行く先が、近所の山ばかりだったからだ。友人曰く。「山に住んどるモンが、山へ行って、どねえせえっちゅうんじゃ」。ま、その日は勉強しないでもすむので、それだけはみんな楽しかったのかな。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


February 2322004

 寿限無寿限無子の名貰ひに日永寺

                           櫛原希伊子

際に「日永寺」という名の寺は千葉県にあるけれど、ここでは春の季語「日永」で切って読み、春の寺のおだやかなたたずまいを想起すべきだろう。「寿限無」はむろん、落語でお馴染みの長い名前だ。はじめて男の子を授かった長屋の八五郎が、何かめでたい名前をつけてほしいと坊さんに相談したところ、出てきた名前がこれだった。「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれず かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところに すむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんの ぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーの ぽんぽこなの ちょうきゅうめいのちょうすけ」。最初の「じゅげむ(寿限無)」からして、寿(よわい)限り無しと、すこぶるめでたい。落語の登場人物だからまったくのフィクションかと思っていたら、実在の人物と聞いて驚いた。それが証拠に、戦中まで東京四谷の法眼寺に彼の墓があったそうだ。なにしろ馬鹿長い名前なので、高さは33メートルもあり、天気が良ければ上野あたりからでも見えたという。惜しいことには空襲で真ん中あたりが破損し、折れたら危険だというので撤去されてしまった。姓は鈴木で神田の生まれ、長じて大工職、1897年(明治30年)に98歳で亡くなっている。寿限無とまではいかなかったが、昔にすればかなりの長寿だ。こんな墓を建てたほうも建てたほうだとも思うが、まるでそれこそ落語みたいな呑気さを地でいったところに心がなごむ。こんな話を思い合わせて掲句に帰ると、春風駘蕩、ギスギスした世の中をしばし忘れさせてくれるのである。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


February 2422004

 寝押したる襞スカートのあたたかし

                           井上 雪

語は「あたたか(暖か)」で春。と何気なく書いて、待てよと思った。このスカートの「あたたかし」は、外気によるものではないからだ。だから、むしろもっと寒い冬の時期の句としたほうが妥当かもしれない。しかし待てよ、早春の寒い朝ということもあり得るし……、などと埒もないことを考えた。作者は十二歳から有季定型句を詠みつづけた人だから、作句時には「あたたか」を春の季語として意識していたとは思う。とすれば、寝押ししたスカートをはいたときの暖かさを、気分的に春の暖かさに重ねたのだろうか。いずれにせよ十代での句だから、あまりそんなことにはこだわらなかったとも思える。それはそれとして、襞の多いスカートの寝押しは大変だったろう。折り目正しくたたまなければならないし、敷布団の下に敷くのもそおっとそおっとだし、寝てからも身体をあまり動かしてはいけないという強迫観念にかられるからである。もちろん私はズボンしか寝押ししたことはないけれど、起きてみたら筋が二本ついていたなんて失敗はしょっちゅうだった。しかし、それ一本しかないんだから、はかないわけにはいかない。そんな失敗作をはいて出た日は、一日中ズボンばかりが気になったものだ。作者が掲句を詠んだときの寝押しは、大成功だったのだろう。その気分の良さがますます「あたたかし」と感じさせているのだろう。女性の寝押し経験者には、懐しくも甘酸っぱい味わいの感じられる句だと思う。この「寝押し」も、ほとんど死語と化しつつある。プレスの方法一つとっても、すっかり時代は変わってしまったのだ。『花神現代俳句・井上雪』(1998)所収。(清水哲男)


February 2522004

 水温む今月中に返事せよ

                           岩城久治

語は「水温(ぬる)む」で春。気の進まない用件への「返事」を催促された。それも「今月中に」と、ぴしりと期限を切られてしまったのである。「と、言われましてもねえ、もごもごと口籠るしかない」とは、作者のコメントだ。「水温む」のゆるやかな時間の流れのなかに、「返事せよ」の性急な時間つき請求を、直球のように投げ込んだところが面白い。が、面食らったというのでもなく、観念したというのでもなく、やっぱりどうしようかとカレンダーを眺めつつ逡巡する作者。でも、自分で困っているわりには、どこかまだ余裕のある感じで詠んでいる。返事を急がれてもそんなに切羽詰まった中身の用件じゃないからだろうが、しかし、この余裕のほとんどは「水温む」の季語があってこそ感じられるものだ。「水温む」のおかげで、独特の味わいのする句になっている。一見、上五の季語は他の似たようなそれと、いくらでも交換可能な感じだ。しかし、それはできないのである。ちなみに「水温む」の代わりに、たとえば親戚の季語「春の水」や「雪解水」などと置き換えてみれば、よくおわかりいただけるだろう。いずれの場合にも、「今月中に返事せよ」がとても刺々しい言い方に変質してしまう。私には「春の水」だといかにも底意地が悪そうな物言いに写るし、「雪解水」だと矢の催促のニュアンスがぐっと濃くなる感じを持つ。これらでも句にならないとは言わないが、一読者としては掲句の微苦笑の味がいちばん好きだし、いちばん美味しい。俳人(表現者)は読者に、いつも味の良いサービスの提供に心を配っていなければ……。軽い意味でも重い意味でも、私はそう思っている。「俳句」(2004年3月号)所載。(清水哲男)


February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


February 2722004

 春日傘女の手ぶらなかりけり

                           森眞佐子

語は「春日傘」。言われてみれば、なるほど。外で見かける女性に、手ぶらの人はいない。少なくとも、バッグ一つは持っている。女性である作者は、春日傘を持ち歩いているうちに、あらためてそのことに気づき、ちらりと苦笑している図だ。何でもないような句だが、こうしたことに気づく心、その動きが作句の世界を広げていくことにつながるのだと思う。話は飛ぶけれど、私はよく道を聞かれる。旅先でも聞かれる。一度遊びに行ったロサンゼルスの街中で聞かれたときには、心底たまげた。そのときに、何故しばしば尋ねられるのかと真剣に考えてみた。聞く人の立場になってみれば、当方を地元の居住者だと思うから聞くのだろう。では、なぜ地元民だと判断されるのか。どこへ行くにもラフなジーンズの格好だからかなとも思ったが、それだけでは決め手にはならない。で、いろいろと考えているうちに、やっとそれこそ気がついたのだった。そうだ、手ぶらだからなんだ、と。よほどのことがないかぎり、いつもできるだけ手ぶらで通してきた。何かを手に持つことが苦手というか徹底的に嫌いなのである。旅先でも、ホテルに荷物を全部放り込んで、何も持ち歩かない。たまにカメラを持つこともあるが、それも鬱陶しいのでなるべく避ける。すると、他人にはどう見えるか。髪の毛はぼさぼさだし、いかにも近所の家からちょっと用事で出てきたように写るのだと思う。だから、聞かれるのだ。と、この結論に達したときは、なんだか大発見でもしたように嬉しくなった。いやあ、男に生まれて良かったなあ。掲句を読んで、また嬉しくなっている。どこか変でしょうか。『花真珠』(2003)所収。(清水哲男)


February 2822004

 古代の夢脈打たせつゝ蛇覚めぬ

                           下重暁子

の季語に「蛇穴を出づ」がある。冬眠していた蛇が、暖かくなって穴から這い出してくることを指す。揚句には「蛇覚めぬ」とあるから、這い出す前の目覚めの状態を言っているわけで、まずはここが面白いと感じた。そうなのだ、行動の前には目覚めがなくてはいけない。目覚めた蛇がすぐに出てくるのかどうかは知らないけれど、蛇にだって寝起きの悪いのもいるだろう。そんな奴はなかなか出てこなかったりして、などと空想に遊んでみるのも楽しい。それはともかく、この蛇が見ていた夢は、古代の夢だ。すなわち、洋の東西を問わず、正邪いずれの意味にせよ、蛇が大いに珍重されていた時代の夢を見ていた。日本でも古代から、山の神、水の神、雷神としての蛇の信仰が伝えられており、記紀には八岐大蛇についての物語や、大和の御諸山の祭神・大物主命が蛇体であったことが記されている。そんな時代の夢を見たものだから、この蛇は興奮して身体を「脈打たせつゝ」目覚めたのだった。天下を取ったような気分だったろう。地上に出ても、そこには何も怖いものはない、なんだって可能なんだという思い……。が、掲句の味わいはここから先にあるのであって、徐々に覚醒の進んできた蛇が、やがて「なんだ、夢だったのか」と失意に落ちる刻がやってくるのだ。これから、古代とは大違いの忌み嫌われる世界へと、出ていかなければならない。その哀れを言わずに、一歩手前で止めたところに妙手を感じる。作者は、知る人ぞ知るNHK元アナウンサー。うまいもんですね。なお、掲句を当歳時記では、便宜上「蛇穴を出づ」に分類しておきます。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)


February 2922004

 うぐひすや家内揃うて飯時分

                           与謝蕪村

食時だろう。家族がみんな揃った食事時に「うぐひす(鶯)」が鳴いた。と、ただそれだけの句であるが、現代人の感覚で捉えると趣を読み間違えてしまう。「家内揃うて」は、現代の日曜日などのように、一週間ぶりくらいにみんなが顔を合わせているということではないからだ。昔は家族「揃うて」食事をするほうが、むしろ当たり前だった。だから、句の情景には現代的な家族団欒などという意味合いはない。一年中春夏秋冬、いつだって家族は揃って食事をとるのが普通だったのだ。では蕪村は、何故わざわざ「家内揃うて」などと、ことさらに当たり前のことを強調したのだろうか。それは「うぐひす」が鳴いたからである。何の変哲もないいつもの「飯時分(めしじぶん)」に、春を告げる鳥の声が聞こえてきた。途端に、作者の心は待ちかねていた春の到来を想って、ぽっと明るくなった。気持ちが明るくなると、日頃何とも思っていない状態にも心が動いたりする。そこで、あらためて家族がみな揃ってつつがなく、今年も春を迎えられたことのありがたさを噛みしめたというわけだ。蕪村の心の内をこう単純化してしまうとミもフタもないし、句の味わいも薄れるけれど、大筋としてはそういうことだと考える。現代詩人である吉野弘に、虹の中にいる人には虹は見えないといった詩があるが、掲句では虹の中の人が虹を見ていると言えるのではあるまいか。今日で二月もおしまいだ。現代の読者諸兄姉は、どんな春を迎えようとしているのだろうか。掲句のようにゆったりと、それぞれの虹を見つめられますように。(清水哲男)




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