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February 0122004

 本買へば砂觸りある二月の夜

                           原田種茅

日から「二月」。今年の立春は四日だ。まだまだ寒い日がつづくけれど、暦の上では春の月である。作者は、小さな書店で本を買い求めた。新刊書なのに、なんとなくざらついた手触りがする。「砂觸り(すなざわり)」という言葉は知らなかったが、言い得て妙だ。この時期、関東地方などではからから天気がつづき、風の強い日も多い。昔の書店の戸口はたいてい開けっ放しになっていたから、かなりこまめにハタキをかけても、本には小さな砂粒がうっすらと堆積してしまう。とくに平積みにされた大判の雑誌などの表紙は、いつもじゃりじゃりしていたものだ。しかし、それもまた本格的な春間近の兆しと思えば、心もなごむ。買ったのは夜なので、表はあいかわらず冬と同じ寒さなのだろう。が、この「砂觸り」が、たしかに春の近いことを告げている。触覚だけから「二月」を言い当てたところに、作者の冴えた、それこそ手つきが浮び上ってくる句だ。我が家にいちばん近い書店には、こうした昔の本屋の雰囲気が残っている。さすがに自動ドアはつけているのでハタキは不要らしいが、落葉の季節になると、門口を掃く店主の姿をよく見かける。いつ行っても、客のいないことが多い。正直言って品揃えは目茶苦茶で、これも昔の小さな本屋と同じだ。そして、なによりも昔とそっくりなのは、平積みにする台の低さである。開業以来、一度も台を替えていないと睨んだ。平均して昔の人は背が低かったからちょうどよかったのだろうが、いまどきの若者だと、いや中背の私でもかなり屈まなければ本に触れない低さなのだ。レトロもいいけど、ちょっとねえ……。『俳句歳時記・春之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 3112004

 キオスクに黒タイを買ふ漢の嚔

                           石井ひさ子

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。「漢(かん)」は男子のこと。好漢、悪漢、無頼漢などと使う。これから通夜に出かけるところか。不祝儀は突然にやってくるものだから、男もあわてて「キオスク」で「黒タイ」を買っているのだろう。そのときに、思わずも「嚔」が出てしまったのを作者は目撃した。って、嚔はたいてい思わずも出るものだが、傍で見ていると、なんとなくその人が緊張感を欠いているように写ってしまう。だから、この男の通夜に行く心情も、あまり切実ではなく、どちらかといえば義理を果たしに行くという感じに見えたのだった。義理の付き合いも大変だな……。そういうことだろうと思う。こういうときにキオスクはまことに便利で、黒タイもあれば香典袋もある。むろん祝儀袋もあり、署名用の筆記用具もあるといった案配だ。私も、何度かそういうものを求めた経験がある。品揃えにはコンビニと共通するところもあるが、やはりキオスクならではの独特の仕入れ方があるのだろう。なにしろ、客が電車を待つ間のほんの短い時間での勝負だ。よく眺めたことはないけれど、句の「黒タイ」同様に、他の商品も緊急事にとりあえず間に合うような、しかも安価なものが多く取りそろえてあるはずである。そのときに不必要な人には、なんでこんなものが置いてあるのかと首をかしげたくなる商品も、きっとあるに違いない。一度、じっくりと観察してみよう。俳誌「吟遊」(No.21・2004年1月)所載。(清水哲男)


January 3012004

 病む妻へ買ひ選る卵日脚伸ぶ

                           中村金鈴

語は「日脚伸ぶ」で冬。冬至を過ぎると、わずか畳の目ひとつずつくらい日脚が伸びてくる。春が、ゆっくりと近づいてくる。「病む妻」のために、店先で卵を選る作者。粒ぞろいの卵がワンパックいくらの時代ではなかったから、大の男が慎重に一個ずつ選んでいる。昔の卵は高価だったし、おおかたの庶民は病気の時くらいしか口にできなかった。そういうこともあって、選ぶのも慎重になるわけだが、この慎重さに妻へのいつくしみの心が重なっている。このときに、「日脚伸ぶ」の候は吉兆のように思える。彼女が伸びてゆく日脚とともに、快方に向かってくれているような気がするのだ。何度か書いたことだが、その昔の我が家はこの卵を供給する側だった。といっても三十羽程度しか飼っていなかったけれど、貴重な現金収入源だったので、まず家族で口にすることはなかった。たまに何かの拍子でこわれてしまい、売り物にならなくなったものを食べた。鶏はみな放し飼いである。彼らの世話の一部が、学校から帰ってきての私の仕事。夕暮れに鶏舎に追い込んでから風呂をわかし、仕事が終わる。その風呂のかまどの火の明りで、いろいろな本を読んだ。あるとき父が購読していた「養鶏の友」を見ていたら、バタリー方式なる画期的な鶏の飼い方が紹介されていて、目を瞠った記憶は鮮明だ。現在の工場みたいな卵生産装置のさきがけである。バタリー方式はあっという間に広がり、すでに半世紀以上を閲している。しかし、生きているものを身動きもならない狭間に閉じ込めておいて、生態系にゆがみが生じないわけがない。鳥インフルエンザは、そのゆがみの現れだと思う。ツケがまわってきたのだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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