ボーボワール『老い』。彼女のファイティング・スピリットにあやかりたい。




2004ソスN1ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2812004

 手配写真あり熱燗の販売機

                           泉田秋硯

語は「熱燗(あつかん)」で冬。日本酒は飲まないから、熱燗の販売機があるとは知らなかった。面白いもので、人は自分に関心の無いものだと、目の前にあっても気がつかない。毎朝の新聞を読むときなどは、その典型的な縮図みたいなものであって、たとえばいかに巨大なカラー広告が載っていようとも、興味の無いジャンルの商品だと、ぱっと見てはいるのだが何も残らないものである。寒夜、作者は熱燗を買うべく販売機に近づいた。数種類あるうちのどれを買おうかと眺め渡したときに、はじめてそこに「手配写真」が張られていることに気づいたのだろう。でも、たぶんしげしげと見つめたりはしなかった。こんなときに私だったら、逃亡者に同情するのでもないが、この寒空に逃げ回るのも大変だなと、ぼんやりそんなことを思うような気がする。むろん作者がどう思ったかは知る由もないけれど、しかし句の要諦はそこにあるわけじゃない。ささやかな楽しみのために熱燗を買おうとしているのに、イヤな感じを目の前に突き出してくれるなということである。逃亡者の存在がイヤなのではなく、そういうところにまで張り出す警察の姿勢がイヤな感じなのだ。手配写真は密告のそそのかしだから、いかに社会正義のためという大義名分が背景にあるにせよ、あれを晴れやかな気持ちで眺められる人はいないだろう。「せっかくの酒がまずくなる」とは、こういうときに使う言葉だ。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


January 2712004

 亡き人の忘れてゆきし冬日向

                           三田きえ子

語は「冬日向(ふゆひなた)」、「冬の日」に分類。今日も良い天気、冬に特有の明るい日差しが降り注いでいる。庭だろうか。いつもの冬ならば、そこで必ずのように日向ぼこを楽しんでいた人の姿が、今年は見かけられない。明るい日溜まりであるだけに、余計に喪失感がわいてくる。一見誰にでも詠めそうな平凡な句のようだが、そうじゃない。日向の喪失感までは誰の感受性でも届きそうだけれど、その先が違うのだ。つまり、作者がこの日向を「亡き人」の忘れ物と詠んだところである。この心優しさだ。普通は、というと語弊があるかもしれないが、日向をあの世に持っていくなどという発想はしないものだろう。死者は逝くが、日向はとどまる。そういう発想のなかで、多くの人は詠むはずである。それを作者は、ごく当たり前のように「忘れてゆきし」と詠んでいる。もっと言えば、「当たり前のように」ではなくて、「当たり前」のこととして詠んでいる。心根の優しさが、ごく自然にそう詠ませている。この一句だけからでは、あるいはそんなに感心できない読者もおられるかもしれない。しかし、この一句からだけでもハッとする感受性を持ちたいものだと思う。優しい人柄が自然に出るかどうかは、実作者にとっては非常に大きい。一冊の句集になったときには、そうでない人の句集とは、読者の受ける印象が天と地ほどの差になってあらわれてしまうからだ。最近の俳句が失ったのは、たとえばこうした優しさではないのか。そんな気持ちから、自戒をこめてご紹介してみた。『初黄』(2003)所収。(清水哲男)


January 2612004

 花嫁にけふ寒晴の日本海

                           比田誠子

語は「寒」。最近「寒晴(かんばれ)」はよく使われるので、もはや季語として定着している感もあるが、たぶん載せている歳時記はまだ無いと思う。というのも、「寒晴」は飯島晴子が「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」で使って成功し、この句から広まった言葉だからだ。昔からありそうだけれど、実は新しい言葉というわけである。掲句は、言うまでもなく祝婚句。快晴の「日本海」を一望できる披露宴会場の情景で、想像するだに清々しく気持ちが良い。日本海が太平洋と異っているのは、まず、その色彩だろう。日本海のほうが、海の色が濃いというのか深いというのか、太平洋よりもよほど黒っぽい感じがする。太平洋が淡いとすれば、日本海は鮮明だ。ましてや晴れ上がった冬空の下、その鮮明さがいよいよ冴え渡り、「花嫁」の純白の衣裳がことのほか鮮烈に映えている。雪空や曇天に覆われがちな地域だけに、人生の門出としてはまことに幸先もよろしい。作者の花嫁を寿ぐ気持ちが、すっと素直に出た佳句と言えよう。変にひねくりまわさなかったところで、良い味が出た。作ってみるとわかるが、祝婚の句や歌はなかなかに難しい。どう歌っても、どこか通り一遍のような気がして、少なくとも私は一度も「これだ」と自己満足できるような句は作れていない。俳句に限らず、どうやら日本の(とくに近代以降の)詩歌は、パブリックな歓びや寿ぎを表現することが得意ではないらしいのである。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)

[読者より]「寒晴」が角川春樹編『季寄せ』(角川春樹事務所)には、季語として採用されている由。例句には上掲の飯島晴子句が載っているそうです。Tさん、ありがとうございました。




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