ドイツ在住の娘とパソコン操作のやりとり。ちょっと見に行ければなあ…。




2004ソスN1ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2712004

 亡き人の忘れてゆきし冬日向

                           三田きえ子

語は「冬日向(ふゆひなた)」、「冬の日」に分類。今日も良い天気、冬に特有の明るい日差しが降り注いでいる。庭だろうか。いつもの冬ならば、そこで必ずのように日向ぼこを楽しんでいた人の姿が、今年は見かけられない。明るい日溜まりであるだけに、余計に喪失感がわいてくる。一見誰にでも詠めそうな平凡な句のようだが、そうじゃない。日向の喪失感までは誰の感受性でも届きそうだけれど、その先が違うのだ。つまり、作者がこの日向を「亡き人」の忘れ物と詠んだところである。この心優しさだ。普通は、というと語弊があるかもしれないが、日向をあの世に持っていくなどという発想はしないものだろう。死者は逝くが、日向はとどまる。そういう発想のなかで、多くの人は詠むはずである。それを作者は、ごく当たり前のように「忘れてゆきし」と詠んでいる。もっと言えば、「当たり前のように」ではなくて、「当たり前」のこととして詠んでいる。心根の優しさが、ごく自然にそう詠ませている。この一句だけからでは、あるいはそんなに感心できない読者もおられるかもしれない。しかし、この一句からだけでもハッとする感受性を持ちたいものだと思う。優しい人柄が自然に出るかどうかは、実作者にとっては非常に大きい。一冊の句集になったときには、そうでない人の句集とは、読者の受ける印象が天と地ほどの差になってあらわれてしまうからだ。最近の俳句が失ったのは、たとえばこうした優しさではないのか。そんな気持ちから、自戒をこめてご紹介してみた。『初黄』(2003)所収。(清水哲男)


January 2612004

 花嫁にけふ寒晴の日本海

                           比田誠子

語は「寒」。最近「寒晴(かんばれ)」はよく使われるので、もはや季語として定着している感もあるが、たぶん載せている歳時記はまだ無いと思う。というのも、「寒晴」は飯島晴子が「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」で使って成功し、この句から広まった言葉だからだ。昔からありそうだけれど、実は新しい言葉というわけである。掲句は、言うまでもなく祝婚句。快晴の「日本海」を一望できる披露宴会場の情景で、想像するだに清々しく気持ちが良い。日本海が太平洋と異っているのは、まず、その色彩だろう。日本海のほうが、海の色が濃いというのか深いというのか、太平洋よりもよほど黒っぽい感じがする。太平洋が淡いとすれば、日本海は鮮明だ。ましてや晴れ上がった冬空の下、その鮮明さがいよいよ冴え渡り、「花嫁」の純白の衣裳がことのほか鮮烈に映えている。雪空や曇天に覆われがちな地域だけに、人生の門出としてはまことに幸先もよろしい。作者の花嫁を寿ぐ気持ちが、すっと素直に出た佳句と言えよう。変にひねくりまわさなかったところで、良い味が出た。作ってみるとわかるが、祝婚の句や歌はなかなかに難しい。どう歌っても、どこか通り一遍のような気がして、少なくとも私は一度も「これだ」と自己満足できるような句は作れていない。俳句に限らず、どうやら日本の(とくに近代以降の)詩歌は、パブリックな歓びや寿ぎを表現することが得意ではないらしいのである。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)

[読者より]「寒晴」が角川春樹編『季寄せ』(角川春樹事務所)には、季語として採用されている由。例句には上掲の飯島晴子句が載っているそうです。Tさん、ありがとうございました。


January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)




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