最近は図書館によく出かける。借りた本が読める落ち着いた喫茶店が欲しい。




2004ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2612004

 花嫁にけふ寒晴の日本海

                           比田誠子

語は「寒」。最近「寒晴(かんばれ)」はよく使われるので、もはや季語として定着している感もあるが、たぶん載せている歳時記はまだ無いと思う。というのも、「寒晴」は飯島晴子が「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」で使って成功し、この句から広まった言葉だからだ。昔からありそうだけれど、実は新しい言葉というわけである。掲句は、言うまでもなく祝婚句。快晴の「日本海」を一望できる披露宴会場の情景で、想像するだに清々しく気持ちが良い。日本海が太平洋と異っているのは、まず、その色彩だろう。日本海のほうが、海の色が濃いというのか深いというのか、太平洋よりもよほど黒っぽい感じがする。太平洋が淡いとすれば、日本海は鮮明だ。ましてや晴れ上がった冬空の下、その鮮明さがいよいよ冴え渡り、「花嫁」の純白の衣裳がことのほか鮮烈に映えている。雪空や曇天に覆われがちな地域だけに、人生の門出としてはまことに幸先もよろしい。作者の花嫁を寿ぐ気持ちが、すっと素直に出た佳句と言えよう。変にひねくりまわさなかったところで、良い味が出た。作ってみるとわかるが、祝婚の句や歌はなかなかに難しい。どう歌っても、どこか通り一遍のような気がして、少なくとも私は一度も「これだ」と自己満足できるような句は作れていない。俳句に限らず、どうやら日本の(とくに近代以降の)詩歌は、パブリックな歓びや寿ぎを表現することが得意ではないらしいのである。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)

[読者より]「寒晴」が角川春樹編『季寄せ』(角川春樹事務所)には、季語として採用されている由。例句には上掲の飯島晴子句が載っているそうです。Tさん、ありがとうございました。


January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)


January 2412004

 鮟鱇の句ばかり詠んでまだ食はず

                           大串 章

語は「鮟鱇(あんこう)」で冬。食べる機会がなかったのか、食べたくないので食べなかったのか。いずれにしても句の素材にはよく使ってきたのだが、「まだ食はず」。ははは、なかなか正直でよろしい。かくいう私も、これまで一度も食べた覚えがない。美味というが、どんな味がするのだろう。実はこの冬にある詩人に誘われて、本場茨城まで鍋を食べに行く予定だったが、彼の突然の入院で、あえなく中止となってしまった。この分では、一生食べないままで終わりそうだ。私の場合は食べたいとは言っても、とりあえず「ハナシのタネに」程度の願望だから、それはそれで構わないのだけれど……。ところで掲句の味は、正直がおのずからユーモアに転化しているところにある。作者も、そこを意図して詠んでいる。だが、何でもかでも正直に言えばユーモラスな味が出るかといえば、そうはいかないところが微妙である。季語の使用に際しては、詠む当人はもとより、読者もその物や事象をよく知っていることが前提だ。この約束事を無視してしまえば、有季定型句は崩壊する。だから句の鮟鱇などは、作者が食べていなくても姿を知っていることで前提は崩れないけれど、他の季語ではいわゆる知ったかぶりでしかない使用句も散見される。例えば何故か人気の高い「涅槃(ねはん)」句の半分以上は、私の偏見からすると、その意味で同意できない。このときに仮に「涅槃句を作りつづけて本意知らず」と正直に言う人がいたとしても、絶対にユーモアには転化しないのである。掲句は、そうした知ったかぶり句に対し、あえておのれを道化役にして、やんわりと皮肉っているようにも読めてくる。『天風』(1999)所収。(清水哲男)




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