鹿児島にも雪が降り、今がいちばん寒い時期なのだろう。日脚は伸びている。




2004ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312004

 運命やりんごを砕く象の口

                           長谷川裕

来「りんご(林檎)」は秋の季語だが、貯蔵力が強いので、昔から冬季にも広く出まわってきた。雪の降る日の店先で真っ赤な林檎を見かけたりすると、胸の内までがぽっと明るくなるような気がする。だが、掲句の「りんご」は、そんな抒情的なしろものじゃない。情を感じる余裕もあらばこそ、大量の林檎があっという間に次から次へと「象の口」に放り込まれ噛み砕かれてしまう。これが「運命」と言うものか。と、作者は呆れつつも得心し、得心しつつも呆然としている図だ。自分の運命も、考えてみればあれらの林檎のように、あれよという間に噛み砕かれてきたようである。ちょっと待ってくれ。そう願ういとまもなく、他の多くの林檎たちともどもに噛み砕かれ消化され、あとには何の痕跡も残らない。そこで力なく「へへへ」と笑うがごとくに、自然に「運命や」の慨嘆が口をついて出てきたということだろう。なんとなく滑稽であり、なんとなく哀切でもある。自己韜晦も、ここまで来れば立派な芸だと言うべきか。ところで、象も歯が抜ける。近所の井の頭自然文化園で飼育されている「花子」は、もう五十年以上も生きているのだが、歯はもはや一本もない。といっても、象の歯は四本しかないけれど……。だから、いまは完全に流動食で暮らしており、係の人は大変だそうだ。すなわち、象にもそれぞれの運命がある。「花子」が掲句を読んだとしたら、はたして何と言うだろうか。やはり、力なく笑ってしまうのだろうか。『彼等』(2003)所収。(清水哲男)


January 2212004

 軒を出て狗寒月に照らされる

                           藤沢周平

語は「寒月(冬の月)」。軒下にいた「狗(いぬ)」が、のそりと庭に出た。折しも月は中天にかかっており、煌々と狗を照らしだしたと言うのである。狗の輪郭も影のそれもがくっきりと写し出されていて、いかにも寒そうだ。寒夜の寂寥感も漂っている。いつか見たことのあるような、懐かしいような冬の夜の情景である。狗一匹の動きから、冷え込んだ夜の大気を連想させたところが巧い。なお初稿では「狗」の表記ではなく「犬」となっていて、私は「犬」のほうが良いと思う。この句は作家・藤沢周平の自信作だったらしく、色紙にはいつも「バカのひとつおぼえのように」この句を書いたという。エッセイに曰く。「この句は、むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句なので、誰はばかるところもない。臆するところもなく書く。だが、同じひとに二枚も三枚も色紙を出されると、とたんに私の馬脚があらわれる。これはと思う手持ちの句は、『軒を出て』一句だけなのだ」。謙遜しているのではなく、正直な文章だ。彼が句作に集中したのは若き日の結核療養所時代の一年半ほどらしいから、そうそう手持ちがあるはずはない。いま、残された彼の句を見渡してみても、掲句に比肩するものは数句程度だ。でも、それで良いのである。そう思う。どんどん傑作の書ける人はむろん素晴らしいけれど、たまたま先生にほめられた一句を後生大事に抱えている素人同然の人のほうが、私は好きだ。人にはこうした「いじらしさ」があったほうが、人間としての味がよほど良く出る。作品以前に、人ありきではないか。俳句よりも人が大事。『藤沢周平句集』(1999・文藝春秋)所収。(清水哲男)


January 2112004

 冬草にふかくも入るる腕かな

                           きちせあや

語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます