大君の辺にこそ死なめ。昔の権力者は戦場で先頭に立った。そこへいくと…。




2004ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112004

 冬草にふかくも入るる腕かな

                           きちせあや

語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)


January 2012004

 日の冬をすかさず日雀小雀かな

                           岩下四十雀

者の四十雀(しじゅうから)という俳号からして、鳥好きを思わせる。そう言えば、「日雀(ひがら)」も「小雀(こがら)」もシジュウカラ科の鳥だ。いずれも夏の季語とするが、寒くなってくると人里近くに降りてくる。掲句は、それこそ「すかさず」その姿を詠んだものだ。寒い冬の朝、日が昇ると同時にやってきて、しきりに何かをついばみ囀っている。そんな彼らのおしゃべりが、作者には毎朝のささやかな楽しみなのだ。早朝の寒気のなかにあって、心温まる一刻である。鳥が一般的に早起きなのは、胃袋が小さくて空腹に耐えかねるからだという話を、どこかで聞いたことがある。そういうことなのだろうが、人はそんな彼らの事情には関係なくいつくしむ。おそらく、作者は餌を与えているのだろう。というのも、我が家の近所のお宅にいつも小鳥たちが囀っている庭があって、環境的には拙宅と変わらないのだけれど、とても賑やかだ。引っ越してきた当座は不思議に思ったが、どうやら鳥好きの家人が餌を与えているらしいことがわかった。腹を空かせた近所中の鳥が、毎日そこに集合して囀る様子は、さながら野鳥園のようだ。おかげで餌をやらない我が家には、めったに飛んでこない。ときおり、スズメが二羽か三羽ほど来る。そのお宅の庭の仲間たちから、いじめられてはじき出された弱者なのだろうか。などと、埒もないことを思ったりして眺めている。「俳句研究」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)




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