陸自先遣隊イラク入り。これが全てのはじまりだった。と、ならぬよう願う。




2004N120句(前日までの二句を含む)

January 2012004

 日の冬をすかさず日雀小雀かな

                           岩下四十雀

者の四十雀(しじゅうから)という俳号からして、鳥好きを思わせる。そう言えば、「日雀(ひがら)」も「小雀(こがら)」もシジュウカラ科の鳥だ。いずれも夏の季語とするが、寒くなってくると人里近くに降りてくる。掲句は、それこそ「すかさず」その姿を詠んだものだ。寒い冬の朝、日が昇ると同時にやってきて、しきりに何かをついばみ囀っている。そんな彼らのおしゃべりが、作者には毎朝のささやかな楽しみなのだ。早朝の寒気のなかにあって、心温まる一刻である。鳥が一般的に早起きなのは、胃袋が小さくて空腹に耐えかねるからだという話を、どこかで聞いたことがある。そういうことなのだろうが、人はそんな彼らの事情には関係なくいつくしむ。おそらく、作者は餌を与えているのだろう。というのも、我が家の近所のお宅にいつも小鳥たちが囀っている庭があって、環境的には拙宅と変わらないのだけれど、とても賑やかだ。引っ越してきた当座は不思議に思ったが、どうやら鳥好きの家人が餌を与えているらしいことがわかった。腹を空かせた近所中の鳥が、毎日そこに集合して囀る様子は、さながら野鳥園のようだ。おかげで餌をやらない我が家には、めったに飛んでこない。ときおり、スズメが二羽か三羽ほど来る。そのお宅の庭の仲間たちから、いじめられてはじき出された弱者なのだろうか。などと、埒もないことを思ったりして眺めている。「俳句研究」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)


January 1812004

 女客帰りしあとの冬座敷

                           志摩芳次郎

語は「冬座敷」。明るい夏座敷とは対照的で、障子や襖を閉めきってある。句の場合は家族が起居する部屋ではなく、いわゆる客間だ。昔であれば火鉢に鉄瓶の湯をたぎらせたりして、冬の座敷ならではの風情を演出した。我が家にはそんな余裕はないけれど、少年時代に一時厄介になった祖父の家には、ちゃんと来客用の座敷があった。客のいないとき、気まぐれに入り込んだこともあるけれど、子供には純日本間の良さなどはわかりようもなく、ただガランとしていてつまらない空間としか思えなかった。部屋はやはり、いつも誰かがいたり、いた気配があってこそ親しめる空間なのだろう。さて、掲句。「女客」は自分の客ではなく、母親か妻を訪れた女性だと思う。自分の客であれば、女客などと他人行儀な言い方はしないはずだ。だから作者は、その客がどこの誰と聞かされてはいても、挨拶もしていないのだから、よくは知らないのである。で、「帰りしあと」に何か必要があって、座敷に入った。男の客が帰ったあととは、部屋の雰囲気がずいぶんと違う。煙草の煙もなく、もてなしの茶菓にもほとんど手がつけられていなかったりする。唯一そこに家族とは違う人がいたのだという痕跡は、香水の残り香であって、それがつい最前までの座敷の華やぎを思わせる。べつに淋しいということでもないけれど、華やぎを喪失した部屋のたたずまいに、作者は軽い失望感のようなものを覚えているのである。しばらく、意味もなく部屋を眺め回したりする。「それがどうしたんだ」と言われても答えにくいけれど、冬座敷はこのように、漠然たる人恋しさを感じさせる空間でもあるようだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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