東京にも雪の予報。幼かったころはよく降り、母が玄関に雪兎を飾ったことを思い出す。




2004ソスN1ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1712004

 雪をんな紐一本を握りたる

                           鳥居真里子

語は「雪をんな(雪女)」、雪女郎とも。たいがいの歳時記は春夏秋冬・新年と言葉を季節ごとに分類し、さらに「天文」「地理」「生活」「行事」などと項目を細分化して収録している。さて、それでは「雪女」はどの小項目に分類されているのか。「生活」とか「人事」だろうか、待てよ「動物」かしらんと、案外に即答できる人は少ない。正解は「天文」で、「雪晴」や「風花」と同列である。つまり「雪女」は、昔から明確に自然現象と位置づけられてきたわけだ。もう少し細かく分けるとすれば、豪雪が人にもたらす幻想幻覚だから、「狐火」などとともに「天文>幻想」の部に入れることになるだろう。「みちのくの雪深ければ雪女郎」(山口青邨)。ところが昨日あたりまでの北日本の大雪は例外として、地球温暖化が進むに連れ、雪があまり降らなくなってきた。正月には雪が当たり前だった地方でも、むしろ雪のない新年を迎えることはしばしばだ。したがって、当然のことながら、雪女の出番も少なくなってきた。にもかかわらず、俳句の世界では人気が高く、よく詠まれているようだ。が、昔の人はこの幻想に実感が伴っていた。深い雪に閉ざされた暮しのなかでは、その存在を信じないにせよ、自然に対する怖れの心があったからだ。いまは、それがない。だから、現代の多くの雪女句は、自然への怖れを欠いているがゆえに、本意を遠く離れて軽いものが多い。無理もないけれど、もはや多くの俳人にとっての雪女は天文現象とは切れていて、なにやらアイドル扱いしている様子さえうかがえる。掲句の作者はおそらくそのことに気がついていて、雪女にもう一度リアリティを持たせたかったのだと思う。そのためには、どうするか。思いを巡らせ、小道具に「紐一本」を握らせることで、何をしでかすかわからぬ不気味さを演出してみせたのである。現代版雪女には違いないけれど、少しでも本意に近づこうとしている作者に好感を持つ。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


January 1612004

 夜目に追ふ雪山は我が帰る方

                           深谷雄大

日本の猛吹雪はおさまっただろうか。テレビで見ていても足がすくむ思いだから、いくら雪に慣れているとはいえ、あの猛烈な雪嵐には現地の人もたじたじだったにちがいない。お見舞い申し上げます。ところで当たり前のことを言うのだが、雪国に暮らしているからといって、きちんと雪を詠めるとは限らない。その土地ならではの雪の様子を読者に伝えることは、雪が目の前にあるだけに、かえって難しいのだと思う。作者は旭川在住で、「雪の雄大」と異名をとるほどに雪の句の多い人だ。むろん佳句もたくさんあるが、初期の句を読んでみると、雪に観念の負荷をかけすぎていると言おうか、若さゆえの気負いが勝っていて、意外に雪そのものは伝わってこない気がする。たとえば「雪深く拒絶の闇に立てる樹樹」と、青春の抒情はわかるし悪くないのだが、雪の深さはあまり迫ってこない。そこへいくと同じ句集にある掲句は、過剰な観念性を廃しているがゆえに、逆に詠まれている雪(山)が身に沁みる。雪国の人にとっては、ごく日常的で、なんでもない情景だろう。雪の少ない街場の喫茶店あたりで、友人と談笑している。あるいは、仕事が長引いているのかもしれない。家路を急ぎながらの解釈もできるが、むしろ作者は止まっているほうが効果的だ。そんな間にも、ときおり気になって「我が帰る方(かた)」を「夜目に」追っている。何度も、そうしてしまう。夜だから、追っても何かが見えるわけではない。つまりこの言い方は、作者がそうせざるを得ない行為の無意識性を表現している。すなわち、旭川の雪と人との日常的なありようが鮮やかに捉えられている。地味な句だけれど、心に残った。『定本裸天』(1998・邑書林)所収。(清水哲男)


January 1512004

 鬱きざす頭蓋に散らす花骨牌

                           山本 掌

語は「花骨牌(はなかるた)・歌留多」で新年。今日は小正月、女正月だから、昔であれば「歌留多」遊びに興じる人々もあったろう。いまでも競技会は盛んなようだが、一般の遊びとしてはすっかり廃れてしまった。ただし、句の花骨牌は花札のことで、百人一首の札などではない。人によりけりではあろうが、句のように「鬱(うつ)きざす」感覚は私にも確かにある。さしたる理由もなく、気持ちがなんとなくふさいでくるのだ。落ち込んでも仕方がないとわかってはいるけれど、ずるずると暗い気分に傾いていく。こうなると、止めようがない。その兆しのところで、作者は「頭蓋」に花骨牌を散らせた。一種の心象風景であるが、百人一首や西洋のカード類ではなく、花骨牌を散らすイメージそれ自体が、既にして「鬱」の兆候を示している。花札は賭博と結びついてきた 陰湿な色合いが濃いので、花や鳥や月といった本来は明るい絵柄が、逆に人の心の暗さを喚起するからだろう。べつに鬱ではなくても、花札にあまり明るさを感じないのはそのせいだと思われる。しかしこの情景は単に暗いのではなく、どこかに救いも見えるのであって、それはやはり花や鳥や月本来の明るさによるものではあるまいか。頭蓋に散っている絵札のすべてが、裏返しにはなっているのではない。そこには本来の花もあれば、鳥や月が見えてもいる。だから、暗いけど明るい。明るいけど暗いのである。花札の印象をよく特徴づけたことで、句に不思議な抒情性がそなわった。『漆黒の翼』(2003)所収。(清水哲男)




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