2004N1句

January 0112004

 初刷のうすき一片事繁し

                           永野孫柳

語は「初刷(はつずり)」で新年。新年になってはじめて手にする印刷物を言うのだが、元旦に配達される新聞をさす場合が多い。戦争中の句か、それとも敗戦直後のものだろうか。いまでこそ元日付の新聞は手に重いほど分厚いが、当時は物資不足でうすかった。判型も、しばらくはタブロイド判と小さく、敗戦時の新聞は裏表たった2ページだったと記憶する。まさに「一片」でしかなかった。しかし時代は激動していたから、ニュースには事欠かない。読めばまことに「事繁し」であって、元旦から今年のこの国は、そして自分たちの生活はどうなってしまうのかと、慶祝気分どころではなかっただろう。私はまだちっぽけな子供だったので、新聞が読めなくて助かったようなものである。その後は年ごとに厚くなってきて、附録の別刷りがカラーになったのが、たしか中学生のときだった。トップには富士山の写真が載り、その下には草野心平などの新年を寿ぐ詩が載ったものだ。詩の意味などわからなくても、眺めているだけで気分がよかった。色刷りの漫画を見るのも元日の楽しみで、盛んに漫画を描いていたころだから、水彩絵の具を持ちだしては真似をした。テレビもなく娯楽が少なかったから、あのころの少年少女たちは、けっこう元日の新聞を待ちかねて楽しんでいたのではなかろうか。今日付の新聞を、当時の目で楽しんでみようと思う。もう一句。「初刷を手にしたるとき記者冥利」(吉井莫生)。分厚い新聞は、こうした記者たちの奮闘のおかげもあるのだ。昔のことを思えば、読まずに捨てるのは実にもったいない。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0212004

 懸想文売りに懸想をしてみても

                           西野文代

語は「懸想文売(けそうぶみうり)」で新年。現代の歳時記には、まず載っていないだろう。江戸期の季語だ。「懸想文」とは艶書、ラブレターのことだが、まさかラブレターを売ってまわったわけじゃない。曲亭馬琴の編纂した『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)に、こうある。「鷺水云、赤き袴、立烏帽子にてありく也。銭を与へつれば、女の縁の目出たく有べしといふことを、つくり祝して洗米をあたへ帰る也。今は絶て其事なければ、恋の文のやうに覚えたる人も有故に、口伝をこゝにしるしはべる」。要するに、良縁を得る縁起物を売り歩いた男のことである。馬琴の生きた18世紀後半から19世紀半ばのころにも、既に存在しなかったようで、「それって、なに?」の世界だったわけだ。ところが、ところが……。1923年に京都で生まれた作者は、馬琴も見たことのない「懸想文売り」に、実際に会っている。こう書いている。「その年の懸想文売りは匂うように美しかった。おもてをつつむ白絹のあわいからのぞく切れ長な目。それは、男であるということを忘れさせるほどの艶があった」。で、掲句ができたわけだが、ううむ、いかな京都でもそんな商売が成り立っていたのだろうか。作者は、八百円で買ったというが……。その日は、ちょうど波多野爽波の句会があって、さっそく作者がこの題を出したところ、爽波が言ったそうだ。「誰ですか。こんな作りにくい題を出したのは」。たしかに作りにくかろうが、しかし懸想文売りの存在は爽波も一座の人も知っていたことになる。で、その席で爽波が作りにくそうに作った句が、「東山三十六峰懸想文」。何のこっちゃろか。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


January 0312004

 真っさらで無くてもいいや寝正月

                           榊原風伯

詣でに出かけたり、きちんと挨拶回りをしたりと、正月を粛然とした「真っさら」な気持ちで過ごす人がいる一方で、こういう人もいる。せっかくのまとまった休日だ。思う存分朝寝をして、何をするでもなく一日をやり過ごす。淑気も何もあるものか、これに勝る贅沢なしと「寝正月」を決め込むのだ。どうぞ、ごゆっくり……。ただ変なことを言うようだが、こうした心境になるにも才能が要る。そんな気がする。私は昨春までスタジオ暮らしだったので、暮れにも正月にも休みがなかった。実に久しぶりに仕事のない新年を迎えているわけだが、元日はともかく、昨日あたりからどうも落ち着けないでいる。何もしないで過ごしてよいことはわかっているのだが、ときどき自分に言い聞かせないと、不安になってくる。かといって世間は休みだし、まさか誰かを呼びだして遊ぶわけにもゆかないし、どうにもこの時空間を持て余し気味である。傍目からすれば、私の様子は完ぺきな寝正月なのだろうが、内心はほとんど逆なのだ。掲句に触れて思ったのは、だから寝正月にも才能が必要なのではないかということだった。もう一句、こんなのもある。「ごろりんこごろんと極め寝正月」(北星墨花)。そうか、やはり寝正月も「極め」るものであるらしい。才能に加えて、努力も要るようである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


January 0412004

 膝にパン置く少年へお年玉

                           矢沼冬星

族で年賀の挨拶に来ている。「はい、お年玉」と差しだすと、少年が食べかけのパンを膝の上に置いて、両手で受けとった図だ。たぶん、他には大人ばかりの席なのだろう。パンをテーブルに置かないのは、歯形のついたものを剥き出しに晒したくないという含羞からである。だから、咄嗟に隠すように膝に置いたのだ。初々しい少年の仕草が好もしい。また、お節料理は子供の口に合うまいと、ちゃんとパンを用意しておいた主人の側の配慮も暖かい。正月ならではのほほ笑ましい情景だ。こういう句を読むと、おのずから微笑が浮かんでくるが、ちょっびり哀しい気分にもなってくる。というのも、膝にパンを置くというような純情な少年期が、誰にもそう長くは続かないことを思ってしまうからだ。まことに「少年老いやすく」なのであって、この少年に自分の同じ時期のあれこれが重なり、そしてすぐに現在の自分との隔たりの遠さを思い知らされるからである。作者の意図が那辺にあるにせよ、このあたりまで読まないと、鑑賞が成立しないような気がする。大人の前ではかしこまってばかりいて、故に例えばよくしてくださった先生とも、遂に一定の距離を置き続けてしまった。そんなことまでに思いがいたり、正月早々からしんみりさせられたことである。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


January 0512004

 皴のない黒カーボン紙事務始

                           河原芦月

ういえば、こんな時代が長かった。現在のようなコピー機がなかったころには、複写のためには「カーボン紙」を何枚か白紙の間に挟み、筆圧をかけて文字などを書いていくしかなかった。使っていくうちに、だんだん複写の鮮明度が落ちてくる。それでも経費節減で、皴だらけになっても、すり切れる寸前まで大切に使ったものだ。さて、今日は新年の「事務始(仕事始)」。作者は皴ひとつない真新しいカーボン紙を広げて、清々しい気持ちになっている。事務職の現場の人でないと、カーボン紙に初春の喜びを感じる気持ちはわかるまい。あれはしかし、手が汚れて、取り扱いが厄介だった。このカーボン紙を職場から追放するきっかけになったのは、1955年(昭和30年)に登場したジアゾ感光紙だ。複写したい原稿を重ねて、上から光を当てると原稿の文字や図形で光が遮られ、複写できるというもの。その後は現在の電子写真複写機が普及し、さらにはパソコンの導入もあって、カーボン紙はすっかり姿を消してしまった。ただし、ノーカーボン紙というかたちでは生き残っている。「ノー」とうたってはいるけれど、複写の原理としては昔のカーボン紙と変わらないものだ。さらに生き残りの影を探せば、パソコンのメーラーの宛先欄に「CC」という項目がある。同一のメールを何人かに送るときに便利だが、あれが「Carbon Copy」の略であることを知らない人は結構多い。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 0612004

 絶筆となる日もあらむ初日記

                           沼田黄葉子

学高校時代と日記をつけていた。はじめは学校で提出を義務づけられたからで、惰性でなんとか高校まではつづけられたが、それもだんだん飛び飛びになり、いつしか頓挫した。したがって、いまは「初日記」の感慨はない。感慨ではないけれど、つけていた頃の正月には、いつも市販の日記帳のトップにある「年頭の所感」を書きあぐねて苦労したことを思い出す。だいたいが人生や生活を設計したりするタイプじゃないから、年の始めだといって「よし、がんばるぞ」という気が起きなかったようだ。この気質は、相変わらずである。しかし世の中を見渡すと、日記をつけている人は多いらしく、歳時記にもたくさんの「初日記」句が並んでいる。なかで目についたのは、掲句のような高齢者(とおぼしき人)が詠んだもので、新しいページを前にして思うことは、もはや「よし、やるぞ」ということよりも、余命についてなのであった。若いうちだと、絶対に出てこない思いである。当たり前といえば当たり前の思いかもしれないが、あらためて差しだされてみると、胸の奥がかすかにうずく。私にも、こういう句がわかるような年齢が訪れたということか。いたしかたなし。されど、口惜し。へんてこりんな感想になってしまった。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


January 0712004

 前髪の額に影さす手毬唄

                           角谷昌子

語は「手毬(唄)」で新年。♪あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、……。ついぞ手毬唄を聞くこともなくなった。手毬をつく女の子たちも見かけない。だから、この句も実景かどうかはわからないのだが、べつに実景でなくてもよいと思う。まだあどけない女の子が、日溜まりで無心に毬をついている。歌っているのは、どんな唄なのか。手毬唄にはわりに残酷な内容のものが多いけれど、むろん女の子は意味もわからずに歌っているのだ。このとき少女の「額(ぬか)」にさしている「影」は単なる物理的なものでしかないが、作者にはそうは見えない。既にしてさし初めている「人生のかげり」のように思えているのである。この影はかつての幼かった自分にさしていた影なのであり、それはいつまでも無心に生きることを許さない影なのだった。この思いに手毬唄の明るいメロディが重なり、それがかえって哀感を呼ぶ。からっとした光景に湿度の高さを見たところに、作者の発見がある。ところで、この正月に新年の句をたくさん読んでみて感じたのは、手毬もそうだが、いかに新年の遊びや行事が遠くなってしまったかということだった。それでも私などはまだ過去の記憶にあるからわかるのだが、あと半世紀もしないうちに、手毬の何たるかすら忘れ去られてしまうのだろう。そう思うと、どんなに明るく詠まれていても、正月の句はなべて哀しく写ってしまう。『源流』(2003)所収。(清水哲男)


January 0812004

 冬草もそよぐ時ありおもひでも

                           橋本 薫

語は「冬草(ふゆくさ)」。枯れているのもあれば、枯れかかっているのもある。むろん、なかには枯れずに青いままの草もある。言われてみれば、なるほどそれらは「おもひで」に似ている。見捨てられ忘れられたような冬の草も、ときには優しく風にそよぐ。それに気がつくとき、人は立ち止まり優しい気持ちになる。春風にそよぐ草々とは違い、冬草のそよぎには明るい兆しが見えるわけではない。「おもひで」も同様で、もはや過去の現実は動かない。動かせない。が、それでもたまさか何かのはずみで、ほのぼのとした動きを見せることがある。楽しかったことだけではなく、苦しかったことですら同じように心の風に優しくそよぐのである。これはおそらく、いまの自分の境遇や気持ちのありようと密接に関係しているのだろう。自分の今が、心のなかにいろいろな風を吹かせるからだろう。そして、もう一つ。心に吹く風は、加齢とともにだんだん穏やかになってくるようだ。微風が多くなるらしい。私はこのことを、詩人・永瀬清子の『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という随想集に感じた。「自我が強くなければ物は書けない」と言った詩人の晩年は、自我が「おもひで」のなかに溶け込んでゆく過程なのであった。すぎ去ればすべてなつかしい日々……。自然にこう思える日が、誰にでも訪れるてくれればと願う。しかし、まだまだ私は生臭い草のままのようである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)


January 0912004

 空青しフレームの玻璃したたりて

                           金子麒麟草

語は「フレーム」で冬。といっても、すぐにイメージのわく読者がどれくらいおられるだろうか。外来語(英語の"frame")ではあるが、季語にまでなっているほどだから、一時は一般用語としても普通に通用していたのだろう。しかし、私は知らなかった。この句をみつけた歳時記に曰く。「寒さから植物を保護し、また蔬菜や花卉を促成栽培するための保温装置あるひは人工を以て温熱を補給する設備のこと。藁・蓆などで覆つた簡単なものなどいろいろある」。要するに温室のことで、英語の辞書で"frame"を引くと、何番目かの意味にちゃんと「温室」と出てきた。一般住宅とは違い、枠(フレーム)組みが露わであることからの命名だろうか。句のそれはガラス張りだ。昔の農家の設備としては高価すぎる感じがするので、農事試験場や植物園の温室だろうと思う。何日かつづいた雪空が一転して晴れわたり、抜けるような青空の下で、温室の大きな「玻璃(はり)」が溶ける雪のしずくを滴らせている。まことに清々しい情景で、仕事始めの句だとすれば、なおさらに気持ちがよい。この「フレーム」が使われなくなったのは、おそらくビニール・ハウスの圧倒的な普及に原因していると思われる。昨秋訪れた故郷の村も、「ハウス」だらけであった。米作だけでは生活が成り立たなくなり、どこの家でもハウスでトマトやキュウリを栽培していると聞いた。本来は夏の野菜が、一年中出回っているわけである。そのことに私などはよく季節感の喪失を嘆くのだが、農家は生きるために、そんな悠長なことを言ってはいられないのだ。そのことが、よくわかった旅でもあった。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1012004

 餅を食ふ三十三年前の父

                           吉田汀史

語は「餅」で冬。なぜ「三十三年前」なのだろうか。前書はないのだが、何か理由があるはずだと、句集の作句年代を見てみた。1977年(昭和五十二年)の冬に詠まれている。この年の三十三年前は1944年(昭和十九年)であり、すなわち敗戦の前年にあたる。この年、作者は十三歳。冬なので、まだ国民学校(小学校)6年生だったろう。こう見取り図を描いてみると、黙々と「餅を食ふ」父親像が浮かんでくる。作者がその姿をよく覚えているのは、食料難の時代だったからだ。配給の糯米で搗いたのか、あるいは他家よりのお裾分けなのか。比較的豊かな稲作農家であれば話は別だが、普通の家庭であれば潤沢に餅があったとは考えにくい。少しの餅を、家族で少しずつ分け合って食べた。それを少しも嬉しそうにではなく、むしろ不機嫌そうに食べていた父親。いまにして思えば、父親の不機嫌の理由は理解できるが、当時は何もわからなかった……。いま作者も餅を食べていて、ふっと当時のことを思い出し、家族を抱えて前途暗澹、さぞや苦しかったであろう父親の胸中を思っているのである。知らず知らずのうちに、作者もまたそのときの父親の顔つきで「餅を」食っていたのだろうなと想像される。あのころの父親は、そしてもちろん母親もまた、まだ若い時代を、ただ苦労するためにだけ生まれてきたようなものだと思う。憎んでも憎みたりないのは戦争である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


January 1112004

 冬川の假橋わたりとつぎゆく

                           金尾梅の門

校時代は電車通学だったが、駅までの道に多摩川を越える50メートルほどの長さの高い橋があった。永田橋という名前だった。それまでの渡船場が廃止され橋をかけたわけだが、これがいかにも急造といった木造の頼りない橋で、まさに「假橋」。車が通るたびにギシギシと鳴り、かなり揺れるのだった。申し訳程度に低い欄干がついてはいたが、ダンプカーと擦れ違った際にあやまって河原に転落し、一年間の休学を余儀なくされた同級生がいる。句の「假橋」も、そんなものではないかと連想した。荒涼たる冬の川にかかる粗末な橋を渡って「とつぎゆく」女性は、実の娘か身内の者だろうか、それとも偶然に見かけた見知らぬ人だろうか。いずれにしても「わたり」「とつぎゆく」の平仮名表記が、まだどこかに幼さの残る女性を思わせる。この橋の向こうに爛漫たる春が待っていてくれればよいのだが、なんだか苦労だけが待ち受けているような心細さのほうが先に立ってならない。その気持ちを打ち消しつつ、花嫁を見送る作者の気持ちがよく滲み出ている句だ。なお作者の「梅の門(うめのかど)」とはいかにも古風な俳号で、江戸か明治に活躍した人を思わせるけれど、1980年に八十歳で亡くなった人だから、現代の俳人と言ってよい。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1212004

 隠し持つ狂気三分や霜の朝

                           西尾憲司

とえば雪が人の心を包み込み埋め込むのだとすれば、「霜」は逆だろう。神経を逆撫でするするようなところがあり、人を身構えさせる。作者が「狂気三分」を覚えたのも、心でキッと身構えたからにちがいない。出勤の朝だろうか。いや休日であろうとも、おのれの狂気を「隠し持つ」一日がまたはじまったわけである。このときに「狂気」とは、世の中の仕組みとはとうてい折り合わないけれど、しかし自分にとってはしごく自然な心のありようのことだろう。人はひとりでは生きられないから、誰もが折り合いをつけるために、折り合いのつかない部分を抑えながら生きていく。ワッと叫びたいけど、叫べない。いっそ一思いに叫んだら、どうなるのか。その答えを知っている心がなお自分を押さえつけ、その自己抑圧はおそらく生涯つづいてゆくような気がする。昨日から、谷崎潤一郎が七十七歳のときに書いた『瘋癲老人日記』を読みはじめた。日記という形式だから、ことさらに狂気を隠す必要はないわけで、そこが面白い。テーマを単純化してしまうと、かつての名作『春琴抄』の佐助の狂気を、現実の老人の日常に置き換える試みのようだ。主人公は老人という弱者の立場を逆に利用して、ずる賢くも狂気の現実化を少しずつ計ろうとするのだが、たとえ家族同士の狭いつきあいでも、やはり世の中であることには変わりない。簡単には、事は進まない。掲句の作者の心情は多くに共通するそれだろうから、そんな読者像を熟知していた老いたる谷崎は、ついに人の心は解放されっこないぜと、この世の中に捨て台詞を残したかったかのようである。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


January 1312004

 ピッチャーは冬田の狼 息白し

                           天沢退二郎

作「カムフラージュ」九句のうち。季語が二つ出てくるので、当歳時記ではまとめて「冬」に分類しておく。前書に「以下の九名(ナイン)、野球チームとは世を忍ぶ仮の姿也」とあるから、男の性格や気質、ありようなどを野球のポジションになぞらえて詠んだものだろう。餌を求めて里に下りてきた孤狼一匹、吐く息はあくまでも白く、眼光炯々として獲物を求めている図である。かつての田んぼ野球派としては、投手の気概をさもありなんと感じて、懐しくも力の入る句だ。田んぼ野球からプロ野球まで、投手の性格はこうでなければ勤まらない。「お先にどうぞ」などという優しい性格は、マウンドには不向きである。本当は心優しくても、マウンド上では必死の狼になる必要がある。まだ現役のときの江夏豊に聞いた話だが、彼の肩をいからせてのっしのっしと歩く姿までが、ほとんど演出だった。「そうでもしないと、なめられてしまう」。草野球でも同じである。野球に限らず、そんな演出が必要なポジションは、世の中にいろいろとありそうだ。だから「カムフラージュ」というわけか。作者は知る人ぞ知る野球狂で、とくに少年期に親しんだ職業野球や六大学、都市対抗の選手たちの話を聞いていると、その博覧強記たるや尋常ではない。このごろでは、床についてからふと往時のある球団のセンターのことを思い出し、次に「ではライトには誰がいたか」と思い出そうとして思い出せず、それが原因で寝られなくなるというのだから、これまた尋常じゃない。そんな詩人の詠んだ句である。もう一句。「辛酸を嘗め過ぎ捕手の下痢やまず」。ははは。なにせ相棒は狼なので、気苦労が多いからね。と笑っては、全国の捕手諸君に失礼か。俳誌「蜻蛉句帳」(21号・2003年12月)所載。(清水哲男)


January 1412004

 明け方の夢でもの食う寒さかな

                           辻貨物船

物船(詩人・辻征夫)にしては俳句になりすぎているような句だが、この味は捨てがたい。寒い日の明け方、意識は少し覚醒しかけていて、もう起きなければと思いつつ、しかしまだ蒲団をかぶっていたい。そのうちにまた少しトロトロと眠りに引き込まれ、空腹を覚えてきたのか、夢の中で何かを食べているというのである。誰もが思い当たる冬の朝まだきの一齣(ひとこま)だ。まことに極楽、しかしこの極楽状態は長くはつづかない。ほんの束の間だからこそ、句に哀れが滲む。いとおしいような人間存在が、理屈抜きに匂ってくる。物を食べる夢といえば、子供のころには日常的な飢えもあって、かなりよく見た。でも、せっかくのご馳走を前にして、やれ嬉しやと食べようとしたところで、必ず目が覚めた。なんだ夢かと、いつも落胆した。だから大人になっても夢では食べられないと思っていたのだが、あれは何歳くらいのときだったろうか。なんと、夢で何かがちゃんと食べられたのだった。何を食べたのかは起きてすぐに忘れたけれど、そのもの本来の味もきちんとあった。それもいまは夢の中だという自覚があって、しかも食べられたのである。感動したというよりも、びっくりしてしまった。これはおそらく、もはやガツガツとしなくなった年齢的身体的な余裕が、かえって幸いしたのだろうと思ったことだが、どうなんだかよくはわからない。その後も、二三度そういうことが起きた。ところで、今日一月十四日は作者・辻征夫の命日だ。彼が逝って、もう四年にもなるのだ。辻よ、そっちも寒いか。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


January 1512004

 鬱きざす頭蓋に散らす花骨牌

                           山本 掌

語は「花骨牌(はなかるた)・歌留多」で新年。今日は小正月、女正月だから、昔であれば「歌留多」遊びに興じる人々もあったろう。いまでも競技会は盛んなようだが、一般の遊びとしてはすっかり廃れてしまった。ただし、句の花骨牌は花札のことで、百人一首の札などではない。人によりけりではあろうが、句のように「鬱(うつ)きざす」感覚は私にも確かにある。さしたる理由もなく、気持ちがなんとなくふさいでくるのだ。落ち込んでも仕方がないとわかってはいるけれど、ずるずると暗い気分に傾いていく。こうなると、止めようがない。その兆しのところで、作者は「頭蓋」に花骨牌を散らせた。一種の心象風景であるが、百人一首や西洋のカード類ではなく、花骨牌を散らすイメージそれ自体が、既にして「鬱」の兆候を示している。花札は賭博と結びついてきた 陰湿な色合いが濃いので、花や鳥や月といった本来は明るい絵柄が、逆に人の心の暗さを喚起するからだろう。べつに鬱ではなくても、花札にあまり明るさを感じないのはそのせいだと思われる。しかしこの情景は単に暗いのではなく、どこかに救いも見えるのであって、それはやはり花や鳥や月本来の明るさによるものではあるまいか。頭蓋に散っている絵札のすべてが、裏返しにはなっているのではない。そこには本来の花もあれば、鳥や月が見えてもいる。だから、暗いけど明るい。明るいけど暗いのである。花札の印象をよく特徴づけたことで、句に不思議な抒情性がそなわった。『漆黒の翼』(2003)所収。(清水哲男)


January 1612004

 夜目に追ふ雪山は我が帰る方

                           深谷雄大

日本の猛吹雪はおさまっただろうか。テレビで見ていても足がすくむ思いだから、いくら雪に慣れているとはいえ、あの猛烈な雪嵐には現地の人もたじたじだったにちがいない。お見舞い申し上げます。ところで当たり前のことを言うのだが、雪国に暮らしているからといって、きちんと雪を詠めるとは限らない。その土地ならではの雪の様子を読者に伝えることは、雪が目の前にあるだけに、かえって難しいのだと思う。作者は旭川在住で、「雪の雄大」と異名をとるほどに雪の句の多い人だ。むろん佳句もたくさんあるが、初期の句を読んでみると、雪に観念の負荷をかけすぎていると言おうか、若さゆえの気負いが勝っていて、意外に雪そのものは伝わってこない気がする。たとえば「雪深く拒絶の闇に立てる樹樹」と、青春の抒情はわかるし悪くないのだが、雪の深さはあまり迫ってこない。そこへいくと同じ句集にある掲句は、過剰な観念性を廃しているがゆえに、逆に詠まれている雪(山)が身に沁みる。雪国の人にとっては、ごく日常的で、なんでもない情景だろう。雪の少ない街場の喫茶店あたりで、友人と談笑している。あるいは、仕事が長引いているのかもしれない。家路を急ぎながらの解釈もできるが、むしろ作者は止まっているほうが効果的だ。そんな間にも、ときおり気になって「我が帰る方(かた)」を「夜目に」追っている。何度も、そうしてしまう。夜だから、追っても何かが見えるわけではない。つまりこの言い方は、作者がそうせざるを得ない行為の無意識性を表現している。すなわち、旭川の雪と人との日常的なありようが鮮やかに捉えられている。地味な句だけれど、心に残った。『定本裸天』(1998・邑書林)所収。(清水哲男)


January 1712004

 雪をんな紐一本を握りたる

                           鳥居真里子

語は「雪をんな(雪女)」、雪女郎とも。たいがいの歳時記は春夏秋冬・新年と言葉を季節ごとに分類し、さらに「天文」「地理」「生活」「行事」などと項目を細分化して収録している。さて、それでは「雪女」はどの小項目に分類されているのか。「生活」とか「人事」だろうか、待てよ「動物」かしらんと、案外に即答できる人は少ない。正解は「天文」で、「雪晴」や「風花」と同列である。つまり「雪女」は、昔から明確に自然現象と位置づけられてきたわけだ。もう少し細かく分けるとすれば、豪雪が人にもたらす幻想幻覚だから、「狐火」などとともに「天文>幻想」の部に入れることになるだろう。「みちのくの雪深ければ雪女郎」(山口青邨)。ところが昨日あたりまでの北日本の大雪は例外として、地球温暖化が進むに連れ、雪があまり降らなくなってきた。正月には雪が当たり前だった地方でも、むしろ雪のない新年を迎えることはしばしばだ。したがって、当然のことながら、雪女の出番も少なくなってきた。にもかかわらず、俳句の世界では人気が高く、よく詠まれているようだ。が、昔の人はこの幻想に実感が伴っていた。深い雪に閉ざされた暮しのなかでは、その存在を信じないにせよ、自然に対する怖れの心があったからだ。いまは、それがない。だから、現代の多くの雪女句は、自然への怖れを欠いているがゆえに、本意を遠く離れて軽いものが多い。無理もないけれど、もはや多くの俳人にとっての雪女は天文現象とは切れていて、なにやらアイドル扱いしている様子さえうかがえる。掲句の作者はおそらくそのことに気がついていて、雪女にもう一度リアリティを持たせたかったのだと思う。そのためには、どうするか。思いを巡らせ、小道具に「紐一本」を握らせることで、何をしでかすかわからぬ不気味さを演出してみせたのである。現代版雪女には違いないけれど、少しでも本意に近づこうとしている作者に好感を持つ。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


January 1812004

 女客帰りしあとの冬座敷

                           志摩芳次郎

語は「冬座敷」。明るい夏座敷とは対照的で、障子や襖を閉めきってある。句の場合は家族が起居する部屋ではなく、いわゆる客間だ。昔であれば火鉢に鉄瓶の湯をたぎらせたりして、冬の座敷ならではの風情を演出した。我が家にはそんな余裕はないけれど、少年時代に一時厄介になった祖父の家には、ちゃんと来客用の座敷があった。客のいないとき、気まぐれに入り込んだこともあるけれど、子供には純日本間の良さなどはわかりようもなく、ただガランとしていてつまらない空間としか思えなかった。部屋はやはり、いつも誰かがいたり、いた気配があってこそ親しめる空間なのだろう。さて、掲句。「女客」は自分の客ではなく、母親か妻を訪れた女性だと思う。自分の客であれば、女客などと他人行儀な言い方はしないはずだ。だから作者は、その客がどこの誰と聞かされてはいても、挨拶もしていないのだから、よくは知らないのである。で、「帰りしあと」に何か必要があって、座敷に入った。男の客が帰ったあととは、部屋の雰囲気がずいぶんと違う。煙草の煙もなく、もてなしの茶菓にもほとんど手がつけられていなかったりする。唯一そこに家族とは違う人がいたのだという痕跡は、香水の残り香であって、それがつい最前までの座敷の華やぎを思わせる。べつに淋しいということでもないけれど、華やぎを喪失した部屋のたたずまいに、作者は軽い失望感のようなものを覚えているのである。しばらく、意味もなく部屋を眺め回したりする。「それがどうしたんだ」と言われても答えにくいけれど、冬座敷はこのように、漠然たる人恋しさを感じさせる空間でもあるようだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)


January 2012004

 日の冬をすかさず日雀小雀かな

                           岩下四十雀

者の四十雀(しじゅうから)という俳号からして、鳥好きを思わせる。そう言えば、「日雀(ひがら)」も「小雀(こがら)」もシジュウカラ科の鳥だ。いずれも夏の季語とするが、寒くなってくると人里近くに降りてくる。掲句は、それこそ「すかさず」その姿を詠んだものだ。寒い冬の朝、日が昇ると同時にやってきて、しきりに何かをついばみ囀っている。そんな彼らのおしゃべりが、作者には毎朝のささやかな楽しみなのだ。早朝の寒気のなかにあって、心温まる一刻である。鳥が一般的に早起きなのは、胃袋が小さくて空腹に耐えかねるからだという話を、どこかで聞いたことがある。そういうことなのだろうが、人はそんな彼らの事情には関係なくいつくしむ。おそらく、作者は餌を与えているのだろう。というのも、我が家の近所のお宅にいつも小鳥たちが囀っている庭があって、環境的には拙宅と変わらないのだけれど、とても賑やかだ。引っ越してきた当座は不思議に思ったが、どうやら鳥好きの家人が餌を与えているらしいことがわかった。腹を空かせた近所中の鳥が、毎日そこに集合して囀る様子は、さながら野鳥園のようだ。おかげで餌をやらない我が家には、めったに飛んでこない。ときおり、スズメが二羽か三羽ほど来る。そのお宅の庭の仲間たちから、いじめられてはじき出された弱者なのだろうか。などと、埒もないことを思ったりして眺めている。「俳句研究」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


January 2112004

 冬草にふかくも入るる腕かな

                           きちせあや

語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)


January 2212004

 軒を出て狗寒月に照らされる

                           藤沢周平

語は「寒月(冬の月)」。軒下にいた「狗(いぬ)」が、のそりと庭に出た。折しも月は中天にかかっており、煌々と狗を照らしだしたと言うのである。狗の輪郭も影のそれもがくっきりと写し出されていて、いかにも寒そうだ。寒夜の寂寥感も漂っている。いつか見たことのあるような、懐かしいような冬の夜の情景である。狗一匹の動きから、冷え込んだ夜の大気を連想させたところが巧い。なお初稿では「狗」の表記ではなく「犬」となっていて、私は「犬」のほうが良いと思う。この句は作家・藤沢周平の自信作だったらしく、色紙にはいつも「バカのひとつおぼえのように」この句を書いたという。エッセイに曰く。「この句は、むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句なので、誰はばかるところもない。臆するところもなく書く。だが、同じひとに二枚も三枚も色紙を出されると、とたんに私の馬脚があらわれる。これはと思う手持ちの句は、『軒を出て』一句だけなのだ」。謙遜しているのではなく、正直な文章だ。彼が句作に集中したのは若き日の結核療養所時代の一年半ほどらしいから、そうそう手持ちがあるはずはない。いま、残された彼の句を見渡してみても、掲句に比肩するものは数句程度だ。でも、それで良いのである。そう思う。どんどん傑作の書ける人はむろん素晴らしいけれど、たまたま先生にほめられた一句を後生大事に抱えている素人同然の人のほうが、私は好きだ。人にはこうした「いじらしさ」があったほうが、人間としての味がよほど良く出る。作品以前に、人ありきではないか。俳句よりも人が大事。『藤沢周平句集』(1999・文藝春秋)所収。(清水哲男)


January 2312004

 運命やりんごを砕く象の口

                           長谷川裕

来「りんご(林檎)」は秋の季語だが、貯蔵力が強いので、昔から冬季にも広く出まわってきた。雪の降る日の店先で真っ赤な林檎を見かけたりすると、胸の内までがぽっと明るくなるような気がする。だが、掲句の「りんご」は、そんな抒情的なしろものじゃない。情を感じる余裕もあらばこそ、大量の林檎があっという間に次から次へと「象の口」に放り込まれ噛み砕かれてしまう。これが「運命」と言うものか。と、作者は呆れつつも得心し、得心しつつも呆然としている図だ。自分の運命も、考えてみればあれらの林檎のように、あれよという間に噛み砕かれてきたようである。ちょっと待ってくれ。そう願ういとまもなく、他の多くの林檎たちともどもに噛み砕かれ消化され、あとには何の痕跡も残らない。そこで力なく「へへへ」と笑うがごとくに、自然に「運命や」の慨嘆が口をついて出てきたということだろう。なんとなく滑稽であり、なんとなく哀切でもある。自己韜晦も、ここまで来れば立派な芸だと言うべきか。ところで、象も歯が抜ける。近所の井の頭自然文化園で飼育されている「花子」は、もう五十年以上も生きているのだが、歯はもはや一本もない。といっても、象の歯は四本しかないけれど……。だから、いまは完全に流動食で暮らしており、係の人は大変だそうだ。すなわち、象にもそれぞれの運命がある。「花子」が掲句を読んだとしたら、はたして何と言うだろうか。やはり、力なく笑ってしまうのだろうか。『彼等』(2003)所収。(清水哲男)


January 2412004

 鮟鱇の句ばかり詠んでまだ食はず

                           大串 章

語は「鮟鱇(あんこう)」で冬。食べる機会がなかったのか、食べたくないので食べなかったのか。いずれにしても句の素材にはよく使ってきたのだが、「まだ食はず」。ははは、なかなか正直でよろしい。かくいう私も、これまで一度も食べた覚えがない。美味というが、どんな味がするのだろう。実はこの冬にある詩人に誘われて、本場茨城まで鍋を食べに行く予定だったが、彼の突然の入院で、あえなく中止となってしまった。この分では、一生食べないままで終わりそうだ。私の場合は食べたいとは言っても、とりあえず「ハナシのタネに」程度の願望だから、それはそれで構わないのだけれど……。ところで掲句の味は、正直がおのずからユーモアに転化しているところにある。作者も、そこを意図して詠んでいる。だが、何でもかでも正直に言えばユーモラスな味が出るかといえば、そうはいかないところが微妙である。季語の使用に際しては、詠む当人はもとより、読者もその物や事象をよく知っていることが前提だ。この約束事を無視してしまえば、有季定型句は崩壊する。だから句の鮟鱇などは、作者が食べていなくても姿を知っていることで前提は崩れないけれど、他の季語ではいわゆる知ったかぶりでしかない使用句も散見される。例えば何故か人気の高い「涅槃(ねはん)」句の半分以上は、私の偏見からすると、その意味で同意できない。このときに仮に「涅槃句を作りつづけて本意知らず」と正直に言う人がいたとしても、絶対にユーモアには転化しないのである。掲句は、そうした知ったかぶり句に対し、あえておのれを道化役にして、やんわりと皮肉っているようにも読めてくる。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)


January 2612004

 花嫁にけふ寒晴の日本海

                           比田誠子

語は「寒」。最近「寒晴(かんばれ)」はよく使われるので、もはや季語として定着している感もあるが、たぶん載せている歳時記はまだ無いと思う。というのも、「寒晴」は飯島晴子が「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」で使って成功し、この句から広まった言葉だからだ。昔からありそうだけれど、実は新しい言葉というわけである。掲句は、言うまでもなく祝婚句。快晴の「日本海」を一望できる披露宴会場の情景で、想像するだに清々しく気持ちが良い。日本海が太平洋と異っているのは、まず、その色彩だろう。日本海のほうが、海の色が濃いというのか深いというのか、太平洋よりもよほど黒っぽい感じがする。太平洋が淡いとすれば、日本海は鮮明だ。ましてや晴れ上がった冬空の下、その鮮明さがいよいよ冴え渡り、「花嫁」の純白の衣裳がことのほか鮮烈に映えている。雪空や曇天に覆われがちな地域だけに、人生の門出としてはまことに幸先もよろしい。作者の花嫁を寿ぐ気持ちが、すっと素直に出た佳句と言えよう。変にひねくりまわさなかったところで、良い味が出た。作ってみるとわかるが、祝婚の句や歌はなかなかに難しい。どう歌っても、どこか通り一遍のような気がして、少なくとも私は一度も「これだ」と自己満足できるような句は作れていない。俳句に限らず、どうやら日本の(とくに近代以降の)詩歌は、パブリックな歓びや寿ぎを表現することが得意ではないらしいのである。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)

[読者より]「寒晴」が角川春樹編『季寄せ』(角川春樹事務所)には、季語として採用されている由。例句には上掲の飯島晴子句が載っているそうです。Tさん、ありがとうございました。


January 2712004

 亡き人の忘れてゆきし冬日向

                           三田きえ子

語は「冬日向(ふゆひなた)」、「冬の日」に分類。今日も良い天気、冬に特有の明るい日差しが降り注いでいる。庭だろうか。いつもの冬ならば、そこで必ずのように日向ぼこを楽しんでいた人の姿が、今年は見かけられない。明るい日溜まりであるだけに、余計に喪失感がわいてくる。一見誰にでも詠めそうな平凡な句のようだが、そうじゃない。日向の喪失感までは誰の感受性でも届きそうだけれど、その先が違うのだ。つまり、作者がこの日向を「亡き人」の忘れ物と詠んだところである。この心優しさだ。普通は、というと語弊があるかもしれないが、日向をあの世に持っていくなどという発想はしないものだろう。死者は逝くが、日向はとどまる。そういう発想のなかで、多くの人は詠むはずである。それを作者は、ごく当たり前のように「忘れてゆきし」と詠んでいる。もっと言えば、「当たり前のように」ではなくて、「当たり前」のこととして詠んでいる。心根の優しさが、ごく自然にそう詠ませている。この一句だけからでは、あるいはそんなに感心できない読者もおられるかもしれない。しかし、この一句からだけでもハッとする感受性を持ちたいものだと思う。優しい人柄が自然に出るかどうかは、実作者にとっては非常に大きい。一冊の句集になったときには、そうでない人の句集とは、読者の受ける印象が天と地ほどの差になってあらわれてしまうからだ。最近の俳句が失ったのは、たとえばこうした優しさではないのか。そんな気持ちから、自戒をこめてご紹介してみた。『初黄』(2003)所収。(清水哲男)


January 2812004

 手配写真あり熱燗の販売機

                           泉田秋硯

語は「熱燗(あつかん)」で冬。日本酒は飲まないから、熱燗の販売機があるとは知らなかった。面白いもので、人は自分に関心の無いものだと、目の前にあっても気がつかない。毎朝の新聞を読むときなどは、その典型的な縮図みたいなものであって、たとえばいかに巨大なカラー広告が載っていようとも、興味の無いジャンルの商品だと、ぱっと見てはいるのだが何も残らないものである。寒夜、作者は熱燗を買うべく販売機に近づいた。数種類あるうちのどれを買おうかと眺め渡したときに、はじめてそこに「手配写真」が張られていることに気づいたのだろう。でも、たぶんしげしげと見つめたりはしなかった。こんなときに私だったら、逃亡者に同情するのでもないが、この寒空に逃げ回るのも大変だなと、ぼんやりそんなことを思うような気がする。むろん作者がどう思ったかは知る由もないけれど、しかし句の要諦はそこにあるわけじゃない。ささやかな楽しみのために熱燗を買おうとしているのに、イヤな感じを目の前に突き出してくれるなということである。逃亡者の存在がイヤなのではなく、そういうところにまで張り出す警察の姿勢がイヤな感じなのだ。手配写真は密告のそそのかしだから、いかに社会正義のためという大義名分が背景にあるにせよ、あれを晴れやかな気持ちで眺められる人はいないだろう。「せっかくの酒がまずくなる」とは、こういうときに使う言葉だ。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


January 2912004

 パソコンに並べて軍手雪来るか

                           水上孤城

近、パソコンを素材にした句が散見されるようになってきた。だいぶ普及してきた様子がうかがえる。ある調査によれば、家庭への普及率は60バーセントを越えたという。私がはじめて触った二十年前に比べると、まさに隔世の感ありだ。間もなく、テレビ並に行き渡るのだろう。さて、掲句。雪が降ってきそうな気配なので、用心のために(たぶん)雪掻き用の「軍手(ぐんて)」を用意し、「パソコン」の隣りにちょっと置いた図だ。パソコンは室内で使うもの、軍手は戸外で使うもの。何でもない取り合わせのようでいて、これらが実際に並んだ様子には、かなりの違和感がある。机の上にもそれなりに秩序というものがあるから、パソコンや筆記具や本などだと秩序は乱れない。ところが軍手に限らず、机の上では使わないものを置くと、途端に机上の世界の秩序が乱れ、なんとも落ち着かない気分にさせられてしまう。どなたにも経験があるだろうが、これは買ってきた新品の靴を畳の上で試しにはいてみるようなもので、なんとなく気分にぴったり来ないのだ。そこらへんの感覚の微妙な揺れをとらえていて、面白いと思った。その揺れが、雪に身構える姿勢と重なり合って伝わってくる。知らず知らずのうちに、私たちはあちこちに秩序世界を形成し、そのなかで暮らしているのである。俳誌「梟」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


January 3012004

 病む妻へ買ひ選る卵日脚伸ぶ

                           中村金鈴

語は「日脚伸ぶ」で冬。冬至を過ぎると、わずか畳の目ひとつずつくらい日脚が伸びてくる。春が、ゆっくりと近づいてくる。「病む妻」のために、店先で卵を選る作者。粒ぞろいの卵がワンパックいくらの時代ではなかったから、大の男が慎重に一個ずつ選んでいる。昔の卵は高価だったし、おおかたの庶民は病気の時くらいしか口にできなかった。そういうこともあって、選ぶのも慎重になるわけだが、この慎重さに妻へのいつくしみの心が重なっている。このときに、「日脚伸ぶ」の候は吉兆のように思える。彼女が伸びてゆく日脚とともに、快方に向かってくれているような気がするのだ。何度か書いたことだが、その昔の我が家はこの卵を供給する側だった。といっても三十羽程度しか飼っていなかったけれど、貴重な現金収入源だったので、まず家族で口にすることはなかった。たまに何かの拍子でこわれてしまい、売り物にならなくなったものを食べた。鶏はみな放し飼いである。彼らの世話の一部が、学校から帰ってきての私の仕事。夕暮れに鶏舎に追い込んでから風呂をわかし、仕事が終わる。その風呂のかまどの火の明りで、いろいろな本を読んだ。あるとき父が購読していた「養鶏の友」を見ていたら、バタリー方式なる画期的な鶏の飼い方が紹介されていて、目を瞠った記憶は鮮明だ。現在の工場みたいな卵生産装置のさきがけである。バタリー方式はあっという間に広がり、すでに半世紀以上を閲している。しかし、生きているものを身動きもならない狭間に閉じ込めておいて、生態系にゆがみが生じないわけがない。鳥インフルエンザは、そのゆがみの現れだと思う。ツケがまわってきたのだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 3112004

 キオスクに黒タイを買ふ漢の嚔

                           石井ひさ子

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。「漢(かん)」は男子のこと。好漢、悪漢、無頼漢などと使う。これから通夜に出かけるところか。不祝儀は突然にやってくるものだから、男もあわてて「キオスク」で「黒タイ」を買っているのだろう。そのときに、思わずも「嚔」が出てしまったのを作者は目撃した。って、嚔はたいてい思わずも出るものだが、傍で見ていると、なんとなくその人が緊張感を欠いているように写ってしまう。だから、この男の通夜に行く心情も、あまり切実ではなく、どちらかといえば義理を果たしに行くという感じに見えたのだった。義理の付き合いも大変だな……。そういうことだろうと思う。こういうときにキオスクはまことに便利で、黒タイもあれば香典袋もある。むろん祝儀袋もあり、署名用の筆記用具もあるといった案配だ。私も、何度かそういうものを求めた経験がある。品揃えにはコンビニと共通するところもあるが、やはりキオスクならではの独特の仕入れ方があるのだろう。なにしろ、客が電車を待つ間のほんの短い時間での勝負だ。よく眺めたことはないけれど、句の「黒タイ」同様に、他の商品も緊急事にとりあえず間に合うような、しかも安価なものが多く取りそろえてあるはずである。そのときに不必要な人には、なんでこんなものが置いてあるのかと首をかしげたくなる商品も、きっとあるに違いない。一度、じっくりと観察してみよう。俳誌「吟遊」(No.21・2004年1月)所載。(清水哲男)




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