♪ただ毎日が素晴らしい祭りの続きで欲しかっただけさ(囚人の歌)。今でも切に願う。




2004ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112004

 初刷のうすき一片事繁し

                           永野孫柳

語は「初刷(はつずり)」で新年。新年になってはじめて手にする印刷物を言うのだが、元旦に配達される新聞をさす場合が多い。戦争中の句か、それとも敗戦直後のものだろうか。いまでこそ元日付の新聞は手に重いほど分厚いが、当時は物資不足でうすかった。判型も、しばらくはタブロイド判と小さく、敗戦時の新聞は裏表たった2ページだったと記憶する。まさに「一片」でしかなかった。しかし時代は激動していたから、ニュースには事欠かない。読めばまことに「事繁し」であって、元旦から今年のこの国は、そして自分たちの生活はどうなってしまうのかと、慶祝気分どころではなかっただろう。私はまだちっぽけな子供だったので、新聞が読めなくて助かったようなものである。その後は年ごとに厚くなってきて、附録の別刷りがカラーになったのが、たしか中学生のときだった。トップには富士山の写真が載り、その下には草野心平などの新年を寿ぐ詩が載ったものだ。詩の意味などわからなくても、眺めているだけで気分がよかった。色刷りの漫画を見るのも元日の楽しみで、盛んに漫画を描いていたころだから、水彩絵の具を持ちだしては真似をした。テレビもなく娯楽が少なかったから、あのころの少年少女たちは、けっこう元日の新聞を待ちかねて楽しんでいたのではなかろうか。今日付の新聞を、当時の目で楽しんでみようと思う。もう一句。「初刷を手にしたるとき記者冥利」(吉井莫生)。分厚い新聞は、こうした記者たちの奮闘のおかげもあるのだ。昔のことを思えば、読まずに捨てるのは実にもったいない。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


December 31122003

 晴れきつて除夜の桜の幹揃ふ

                           廣瀬直人

すがに蛇笏門。重厚な品格がある。こういう句は、作ろうと企んでも、なかなか出てくるものではない。日頃の鍛練から滲み出てくるものだ。専門俳人と素人との差は、このあたりにあるのだろう。句をばらしてみれば、そのことがよくわかる。「晴天」「除夜」、そして「桜の幹」と、これだけだ。いずれもが、特別な風物風景じゃない。よく晴れた大晦日の夜に、これから参拝に出かけようとして、たとえば桜並木の道に出れば、それで句の条件は誰にでもすべて整う。作者だけの特権的な条件は、一切何もないのである。しかし作者以外には、このようには誰も詠まないし、詠めない。まずもって目の前にあるというのに、「桜」に注目しないからだ。いわんや「幹」に、その幹が整然と揃って立っていることに……。何故なのかは、読者各位の胸の内に問うてみられよ。すっかり葉を落して黒々と立つ桜の幹には、何があるだろう。あるのは、来たるべき芽吹きに向かっているひそやかな胎動だ。生命の逞しい見えざる脈動が、除夜の作者の来春への思いと重なって読者に伝わる。「去年今年」の季語に倣って言うならば、さながら「今年来年」の趣がある。除夜にして既に兆している春への鼓動。それはまた、新しい年を待つ私たちの鼓動でもある。「木を見て森を見ず」ではないけれど、専門家はこのように「木を見て木を見る」ことができる。鍛練の成果と言う所以だ。少なくとも私なんぞには、逆立ちしてもできっこないと感心させられた。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


December 30122003

 注連賣の灯影のくらき店じまひ

                           宇佐美ふき子

語は「注連売(しめうり・飾売)」。近くの吉祥寺の街に、ハモニカ横丁と呼ばれる一画がある。戦後にバラック建てではじまったヤミ市マーケットの雰囲気が、いまでも残っている。通りは人二人がやっと擦れ違えるほどの狭さで、両側に小さな洋品店や雑貨店、食堂や飲屋などが軒を連ねている。普段はひっそりとしているが、年の暮れともなると、にわかに活気づく。昔ながらの「年の市」の雰囲気があるからだろう。お年よりの客が多いけれど、最近では若者の姿も目立つようになってきた。ここの飾り売りは、花屋の狭い店先だ。なんとなく値段などを眺めていたら、年配の女性がやってきた。「今夜は、何時までやってるの」。と、店のおばさんが「遅くまで」とぶっきらぼうに答える。「遅くったって、何時までよ」。「さあ、何時までにしようかねえ」。すると傍らの客が「まあ、おばさんが眠くなるまでだな」。そんな案配に、くだんの女性客は笑いながら「しょうがないのねえ。じゃ、いま買っとく。今日は大安だからね」。つられて私も「そうか、大安か」と思い、買うつもりもなかった輪飾りを買ってしまったのだった。なんのことはない、客のほうが商売しているようなものである。帰ってから、この句を読んだ。そして、あのおばさん、そろそろ「店じまひ」の頃かしらんと、吹き抜けの横丁の暗い寒さを思った。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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