松本、明石、新潟、久留米、京都、萩、むつみ村、松山。仕事上も含むが、よく動いた。




2003ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29122003

 数へ日のともあれわたくしの居場所

                           土肥あき子

語は「数へ日」。♪もういくつ寝るとお正月。これである。今年もあれやこれやといろいろなことがあり、押し詰まったら詰まったであれやこれやと忙しい。それらあれやこれやのなかには、もちろん不愉快なこともあるわけだし、来年に持ち越さざるを得ない面倒なこともある。が、そんな「わたくし」にも「ともあれ」いまの「居場所」だけはある。もって瞑すべきではないのか。「わたし」ではなく「わたくし」とあらたまった表現に、作者の謙虚な姿勢がうかがわれる。そうなのだ。ともかくも自分の居場所があるということは、それだけで幸福と言うべきなのだ。句の「居場所」は家という意味か、あるいは家の中での自分の部屋の意なのか、それとももっと精神的な意味があるのか。それは受け取る読者にまかされている。年の暮れではなかったが、私には数ヵ月ほど物理的な意味での居場所がなかった時期があるので、過剰に掲句は心に響くのかもしれない。若かったから日銭を稼げたのはよいとして、毎夜帰るべき部屋がなかった。いかな呑気な性格でも、あの暮しは相当にコタえた。最初は友人宅に世話になっていたけれど、それにも限界がある。以後は山手線界隈の曖昧宿を転々とし、原稿はほとんど喫茶店や飲屋で書いていた。その日暮らしの金はあっても、アパートを借りるだけのまとまったものがなかったからである。幸い奇特な出版社に拾われて危機は脱したものの、いまだに夢に見る。「東京新聞」「中日新聞」(2003年12月27日付夕刊)所載。(清水哲男)


December 28122003

 電線の密にこの空年の暮

                           田中裕明

年も暮れてゆく。ぼんやりとでもそんな感慨を持つとき、私たちはたいてい空を見上げる。どうして空を見るのだろう。こういうときに、俯いて地べたを見る人はあまりいないのではなかろうか。不思議といえば不思議な習性だ。誰に教わったわけでもないと思うのだが、といって生得の気質からでもなさそうで、やはり知らぬうちに摺り込まれた後天的な何かからなのだろう。我が家の近所にも、電柱と電線が多い。普段でも、カラスがとまって鳴いていたりすると見上げることはしばしばだ。でも、そんなときには「電線の密」には気がつかない。というか、気にならない。おそらく、作者も同じような気持ちなのだろう。「年の暮」の感慨を持ったときに、はじめてのように見えたというわけだ。ああ、こんなにも電線が混みあっていたのか……。そこであらためて、まじまじと見てしまう。句の世界を敷衍して言えば、私たちが何かを見るというときには、自分の心持ちによって、見えるものと見えないものとがあるということになる。正確には、見えていても気がつかない物もあるのである。むろん、事は電線には限らない。今日あたり、日頃は気にも止めていない何かを、まじまじと眺める人も多いだろう。年末も年始も、物理的には昨日に変わらぬ今日の連続でしかない。が、年を区切るという人間の文化は、このように物の見方を変えてしまう力も持つ。面白いものである。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


December 27122003

 闘牛士の如くに煤を払ひけり

                           波多野爽波

語は「煤払(すすはらい)」。いまは神社仏閣などの年中行事は別にして、一般には年末の大掃除の意味で使われる。今日あたり、そんな家庭も多いことだろう。句の眼目はむろん「闘牛士の如く」にあるわけだが、いったいどんな格好でどんなふうに掃除をしたのだろうか。まさかマントを颯爽と翻してなんてことはあるまいから、「闘牛士の如く」はあくまでも作者の主観に属するイメージだ。周辺の誰が見ても、闘牛士には見えるはずもない。強いて感じることがあるとすれば、常になく張り切って掃除に励む作者の姿くらいなものである。だが、そんなことは百も承知で、イケシャアシャアと闘牛士を持ちだしたところに、爽波のサービス精神躍如たるものがある。本人だって、具体的なイメージがあるのではない。なんとなく闘牛士みたいだなと思いつつ、機嫌よく掃除ができたのである。で、その突拍子もない気分をそのまま書いて、あとのことは読者にいわば託したというわけだ。どんなふうにでもご自由に想像してくださいな、と。そしてここで重要なのは、作者が自分の滑稽な世界を提出するに際して、ニコリともしていないところだ。「払ひけり」と、むしろ生真面目な顔つきである。この顔つきがあって、はじめて滑稽さが伝わるのだと、ちゃんと作者は心得ている。三流のお笑い芸人がしらけるのは、彼らは滑稽なネタを笑いながら披露するからだ。自分の話に自分で笑うようでは、世話はない。サービス精神の何たるかを履き違えているのである。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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