今日でしばらくパソコンの前を離れる方もおられるでしょう。良いお年をお迎え下さい。




2003ソスN12ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 26122003

 冬木立日のあるうちに別れけり

                           清水基吉

の句を読んで、すぐに師走の句だと感じた人は鋭い。というか、人情の機微によく通じている。実際にも十二月に詠まれているのだが、冬は冬でも押し詰まった時期の冬には、独特の人事的な意識が働く。つまり、自分はともかくとして、相手はみななにやかやと忙しいだろうと推測する意識だ。句の相手に対する作者の気持ちも同様で、わざわざ「日のあるうちに」とことわったのは、他の季節ならそんな時間には別れない人であることを示している。飲み友だちのような、気の置けない間柄なのだ。それがせっかく会ったのに、明るいうちに別れた。お互いに相手の多忙をおもんぱかり「ちょっと一杯」など言わないで、いや言えないで別れてしまった。ところがこのときに、おそらく作者には時間がたっぷりあったのだと思う。相手にだって、あったのかもしれない。別れてしまったあとで、やはり誘ってみるべきだったかなどと、ちょっとうじうじとした気分なのである。この気分が、すっかり葉を落した「冬木立」の淋しい風景に通じていく。さて、これから余った時間をどうしようか……。ところで、多くのサラリーマンは今日で仕事納めだ。だいたいの人が、それこそ日のあるうちに退社できるのだろう。私が勤め人だったころは独身のこともあって、明るいうちに同僚と別れるのはなんとなくイヤだった。帰宅しても、何もすることはない。かといって、忙しそうに見える人を誘うわけにもいかないし、結局はひとり淋しく映画でも見たのだったろうか。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)


December 25122003

 賀状書く痴呆かなしき友ひとり

                           細見しゆこう

状を書いているうちに、風の便りに痴呆が進んでいる友人宛のところで手が止まった。彼に、この年賀状が読めるのだろうか。読めたとはしても、差出人が誰かを理解できるのか。あんなに元気だった奴が何故……と、信じられない思いで暗く悲しい気持ちに沈みこむ。だが、やはり作者は例年のように彼に元気よく書いただろう。そう思いたい。たとえわからなくたって、それでよい。それが友情というものではないか。幸い、私には痴呆の友はいない(はずだ)。ただ、毎年のようにポツリポツリと亡くなる友人がいる。今年も、同級生ひとりと若い友人ひとりを失った。パソコンに入れた名簿を見ながら順番に書いてきて、亡くなった人の名前のところで筆が止まる。出そうか出すまいかの話ではなく、もう出してはいけないのだから、暗澹とする。そして元気だったころの姿を思い出すのだが、妙なもので、こういうときに浮かんでくるのは何故か些細なイメージばかりだ。よく赤いセーターを着ていたなとか、そういうことである。もう一つ、焦点が結ばない。そして最も辛いのは、もはや不要となった彼のアドレスを名簿から消去するときだ。パソコンでの操作だから、一瞬で消えてしまう。が、その操作には逡巡が伴ってなかなか踏ん切れない。あらためて電話番号などまで読み直して、それから思い切って消去ボタンを押す。そうすれば、見事に消えてなくなる。しかし、なんだかそのまま通りすぎるのも忍びなくて、また消去作業の取り消しボタンを押してみたりする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 24122003

 硝子戸に小さき手の跡クリスマス

                           大倉恵子

然に「硝子(ガラス)戸」についている子供の「小さき手の跡」を見つけた。よくあることだが、これを「クリスマス」に結びつけると、途端にある情景が浮かんでくる。サンタクロースの到着を待っている子供が、しきりに「まだかなあ、遅いなあ」と硝子戸の外の暗い夜空を見上げている。そんな情景だ。待ちきれないままに、子供はもうすやすやと眠ってしまった。そのときについたのであろう「小さき手の跡」を見て、作者は微笑しつつ、子供の純真をいとおしく思うのだ。サンタクロースが橇に乗って、世界中の子供たちにプレゼントを配ってまわる。どこのどなたの創案かは知らないが、すばらしいアイディアだ。一年に一夜だけ、夢を現実にかなえてやる。むろん、そのために逆に哀しい思いをする子供もいるわけだが、それもこれもをひっくるめて、このアイディアは子供たちに夢を描くことの喜びを教えてくれる。長じてサンタの存在を信じなくなっても、それは心のどこかに「小さき手の跡」のように残っていくだろう。サンタを商業主義の回し者みたいに言う人もいるけれど、私はそうは思わない。たしかにそうした一面がないとは言えないが、単なる商魂だけではカバーできない魅力をサンタは持っている。そうでなければ、多くがクリスチャンでもないこの国に、子供へのプレゼントの風習が定着するはずがない。新年のお年玉をねらう商魂がいまひとつ伸びを欠くのは、こうした夢の構造を持ち得ないからだろう。私が小さかった頃は戦争の真っ最中で、サンタのサの字もなかった。いまだに残念で仕方がない。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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