昨年は押し詰まって風邪を引いたことを思い出した。発熱しての正月放送、散々だった。




2003ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18122003

 屑買ひがみてわれがみて雪催

                           清水径子

語は「雪催(ゆきもよい)」。冷え込んできて、いまにも雪が降り出しそうな曇天のこと。さながら小津映画にでも出てきそうな情景だ。「屑買ひ」は、いまで言う廃品回収業者。昔は「お払い物はありませんかー」と呼ばわりながら、リヤカーで町内を回っていた。年の暮れは稼ぎ時だったろう。そんな屑屋さんを呼び止めて、勝手口で不要なもののあれこれを渡している図。代金として、なにがしかの銭を手渡しながらでもあろうか。「降ってきそうですねえ」と屑買いの男が空を見上げ、つられて作者も同じような方角に目をやる。いままで暖かい室内にいたので気づかなかったが、言われてみればたしかに「雪催」だ。二人同時に見上げたのではなく、まず「屑買ひがみて」、それから「われがみて」。そうわざわざ書いたところに、手柄がある。この順番は、すなわち寒空の下で仕事をしなければならない人と、そういうことをしなくても生活の成り立つ自分を象徴的に表現しており、しかし自分とても決してご大層な身分ではない。ぼんやりとそんな思いもわいてきて、そこにいわば小市民的な哀感が醸し出されてくる。屑屋さんが去ってしまえば、すぐに忘れてしまうような小さな思いを素早く書きとめた作者は、まぎれもない俳人だ。本当はその場でのスケッチではないにしても、こうしたまなざしが生きる場所としての俳句様式をよく心得ている。中身はなんでもないようなことかもしれないが、俳句に言わせればちっともなんでもなくはないのである。「俳句ってのはこういうものさ」。『鶸』(1973)所収。(清水哲男)


December 17122003

 牡丹鍋力合せて食ひにけり

                           大串 章

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。イノシシの肉の鍋料理だ。食べると、身体がホカホカする。だいたいが関西から発した料理らしく、東京あたりでは店も少ない。イノシシの生息地と関係があるのだろう。いまでも六甲山麓一帯の住宅地などでは、たまに見かけられるという話だ。句の「力合せて」が上手い。なにせ、相手は全力で猛進してくるイノシシだもの。力を合わせなかったら、みんなぶっとばされちまう。というのは半分冗談だが、半分は本当だ。料理屋などの一人前という量は何を基準にしているのかよくわからないが、少なくとも高齢者の食欲を目安にはしていないだろう。かといって、食べ盛りの若者のそれでもない。あいだを取って二で割ったようなものだから、老人には多すぎるし、若者には少なすぎる。作者は、むろん後者の年代に入る。若い頃ならぺろっと食べられた量が、いまでは持て余すほどだ。いっしょに鍋を囲んでいる連中も、みな同じ。残したって構わないようなものだけれど、なんだかもったいない。とりわけて作者の世代は、敗戦後の飢えを知っている。もったいないと思う気持ちには、単なるケチというのではなく、残したものが捨てられるかと思うと、身を切られるような気がするのだ。そこで誰言うとなく、「よしっ、みんな食っちまおうぜ」ということになった。こうなると、もう味は二の次だ。ひたすら食うことだけを自己目的化して、食いに食いまくる。そして全部を食べ終わったときの満足感たるや、ない。そこから自然に立ち上がってきたのが、「力合せて」の実感である。この滑稽さのなかに漂っているほろ苦い隠し味……。俳誌「百鳥」(2003年3月号)所載。(清水哲男)


December 16122003

 一人身の心安さよ年の暮

                           小津安二郎

のとき(1932年)、小津安二郎満三十歳。『生れてはみたけれど』で映画界最高の名誉であったキネマ旬報ベストテン第一位に輝き、将来を大いに嘱望される監督になっていた。しかも「一人身」とあっては、家庭のあれこれを心配する必要もなく、年末なんぞも呑気なもんだ。我が世の春、順風満帆なり。そんな心持ちの句とも読めるけれど、実は自嘲の句である。いまでこそ三十歳独身などはむしろ当たり前くらいに受け取られるが、昔は違った。変人か能無しと思われても、仕方がなかった。私の三十歳のときですら、まだ同じような世間の目があったほどだ。生涯独身であった小津とても、人並みに異性には関心があった。同じ年の句に「わが恋もしのぶるまゝに老いにけり」があるから、片想いの女性が存在したようだ。が、自身日記に書きつけているように、どうも情熱一筋になれない性格であったらしい。すぐに、醒めた目が起き上がってきてしまう。まことに恋愛には不向きで厄介な気質である。そういえば小津映画は、いつもどこかで画面が醒めている。熱中して乗りに乗って撮ったのではなく、あらかじめ用意した緻密な設計図にしたがって撮った感じを受ける。でも実際には設計図にしたがったわけではなくて、天性の醒めた目に忠実にしたがった結果が独特の世界になったと見るべきだろう。あれが彼の乗っている姿なのだ。そんな醒めた目で自分を見つめるときに、落ち着き先は多く自嘲の沼である。年末なんてどうってことない、気楽なものさ。うそぶく醒めた目は、しかし家庭のために忙しく走り回っている人々を羨ましがっているのだ。都築政昭『ココロニモナキウタヲヨミテ』(2000)所載。(清水哲男)




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