ぼつぼつ年賀状の準備をせねば。昨年は肝心の時期に風邪を引いて、欠礼が多かったし。




2003ソスN12ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 05122003

 枯山の人間臭き新聞紙

                           鷹羽狩行

語は「枯山(かれやま)・冬の山」。全山枯一色の山道を歩いていたら、使いさしの「新聞紙」が無造作に丸めて捨てられていた。人と擦れ違うでもなく、およそ人間社会とは無縁のような山奥の道に落ちている新聞紙は、たしかに生臭くも人間臭い感じがするだろう。捨てた人はゴミとして捨てたわけだが、見つけたほうには単なるゴミを越えて、離れてきた俗世間へ一気に引き戻される思いがするからだ。そのあたりの機微がよく押さえられているが、この「人間臭き」の印象の中身は、読者によってさまざまであるに違いない。山歩きの目的にいささかでも厭人厭世的な動機が伴っている場合には、不快感を覚えてしまうだろう。作者はあるところで、「新聞もテレビ、ラジオのニュースもない場所を求め、深山幽谷に入ったつもりだったのに」と恨めしげに述べている。が、そうでない人にとっては、べつに拾って読むほどではないにしても、どこかでほっとした気持ちになるはずだ。私の場合はいつも世間が恋しい性格だから、旅に出て何日か新聞を眺めない日があったりすると、忘れ物をしたような気にさえなる。昨今の小さなビジネスホテルでは、まったく新聞の置いてないところもあって、何が「ビジネスかよ」と腹立たしい。外国に出かけても同じことで、昔出かけたアテネの街で、辛抱たまらなくなり新聞を買ったまではよかったが、悲しいことにギリシャ語ゆえ一字も読めず。でも、一安心の気分は日本にいるときと変わらなかった。いずれの印象を受けるにせよ、新聞の「毒」はまことに強力、その威力には凄いものがある。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)


December 04122003

 マラソンの余す白息働きたし

                           野沢節子

語は「白息(しらいき)・息白し」で冬。そろそろ、連日のように吐く息が白く見えるようになる。いわゆるリストラの憂き目にあった人の句ではない。「余す白息」から、作者の健康状態のよくないことがすぐに読み取れる。健康な人であれば、「余す」の措辞はなかなか出てこないだろう。せいぜいが「吐く白息」くらいだろうか。ところが作者には、走りすぎるマラソン・ランナーの吐く白い息が、羨ましくも生きていくエネルギーの余剰と写ったのだ。自分には到底、あんなふうに「白息」を「余す」ようなエネルギーはない。いくら働きたくても、私には余すエネルギー、体力などないのだから無理だろう。しかし、みんなと同じように私も身体を使って働きたいのだ。切実にそう思う作者の目に、ランナーの白息がどこまでもまぶしい……。このように、句は作者の境遇を何も知らなくても読むことができるが、少し付言しておく。句は、作者の二十数年来の宿痾であったカリエスがやっと治癒した後に書かれたものだ。一応名目的な健康は取り戻したものの、むろんそう簡単に体力がつくわけのものではない。病気から解放された信じられないような嬉しさと、しかし人並みの体力を持ちえない哀しみとの交錯する日常がつづいていた。このとき、作者は既に三十八歳。一度も働いたことはなく、あいかわらず両親の庇護の下にあった。焦るなと言うほうが無理だろう。なりたくて、病気になる人は一人もいない。しかし不運としか言いようのない境遇のなかにあって、作者と同じく多くの病者が俳句をよすがとし、その世界を更に豊饒なものとしてきた。俳句が今日あるのは、社会的弱者の目に拠るところが実に大きいのである。『雪しろ』(1960)所収。(清水哲男)


December 03122003

 暖房や生徒の眠り浅からず

                           村上沙央

つらうつら、こっくりこっくり、なんてものじゃない。机に俯せて気持ちよさそうに、もう完全に眠っている。こうなると、下手に起こしては可哀想だと思えてくるから不思議だ。作者は、微笑しつつ見て見ぬふりをしたのだろう。実際、ほど良く暖房がきいた教室での眠りは気持ちが良い。教師の声が、まるで子守歌のように聞こえてくる。私の高校時代は、スチーム式の暖房だった。あのまろやかな暖かさは、疲れている生徒にはたまらない。眠れ眠れと、催眠術をかけられているようなものである。教師の声のトーンが一定で単調であればあるほど、術はよく効く。声の催眠性といえば、自分の声のせいで自分が眠くなることがある。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、しばしば私は、ラジオのスタジオで経験した。生放送中に、どうしようもなく眠くなってくるのだ。ゲストがいるときにはまさか眠りはしないが、ひとりで長時間放送していると、自分の声が子守歌みたいになってくる。ひとりのときは、声がモノトーンにならざるを得ないので、余計にそう聞こえるらしい。それに普通の場所で話すのとは違い、スタジオではイヤホーンをつけて自分の声を自分で聞かされているわけだから、そのせいもある。冬のスタジオは暖かいし、静かこの上ない空間だし、ひとたび眠くなってくると回復するのが大変だ。首をまわしてみたり背伸びをしてみたりする程度では、立ち直れない。そんなわけで、短い時間ながら、半分以上は自分で何を言っているのか定かではない放送をしたこともあった。私だけかと思って聞いてみると、アナウンサーの何人かが、眠りつつしゃべった経験があると言った。ほっとした。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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