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2003ソスN12ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 03122003

 暖房や生徒の眠り浅からず

                           村上沙央

つらうつら、こっくりこっくり、なんてものじゃない。机に俯せて気持ちよさそうに、もう完全に眠っている。こうなると、下手に起こしては可哀想だと思えてくるから不思議だ。作者は、微笑しつつ見て見ぬふりをしたのだろう。実際、ほど良く暖房がきいた教室での眠りは気持ちが良い。教師の声が、まるで子守歌のように聞こえてくる。私の高校時代は、スチーム式の暖房だった。あのまろやかな暖かさは、疲れている生徒にはたまらない。眠れ眠れと、催眠術をかけられているようなものである。教師の声のトーンが一定で単調であればあるほど、術はよく効く。声の催眠性といえば、自分の声のせいで自分が眠くなることがある。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、しばしば私は、ラジオのスタジオで経験した。生放送中に、どうしようもなく眠くなってくるのだ。ゲストがいるときにはまさか眠りはしないが、ひとりで長時間放送していると、自分の声が子守歌みたいになってくる。ひとりのときは、声がモノトーンにならざるを得ないので、余計にそう聞こえるらしい。それに普通の場所で話すのとは違い、スタジオではイヤホーンをつけて自分の声を自分で聞かされているわけだから、そのせいもある。冬のスタジオは暖かいし、静かこの上ない空間だし、ひとたび眠くなってくると回復するのが大変だ。首をまわしてみたり背伸びをしてみたりする程度では、立ち直れない。そんなわけで、短い時間ながら、半分以上は自分で何を言っているのか定かではない放送をしたこともあった。私だけかと思って聞いてみると、アナウンサーの何人かが、眠りつつしゃべった経験があると言った。ほっとした。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 02122003

 牛鍋は湯気立て父子いさかへる

                           湯浅藤袴

語は「牛鍋(ぎゅうなべ)」で冬。ボーナスが出たのか、何か良いことがあったのか。今夜は特別の夕飯である。だが、せっかくのご馳走を前にして、父と子が言い争いをはじめた。まわりの家族も食べるに食べられず、成り行きを見守るのみ。そんなことにはお構いなしに、目の前の「牛鍋」はおいしそうな湯気を盛んに立てている。愉しかるべき夕餉が、これでは目茶苦茶だ。家庭に限らず、忘年会などでもこういうことはたまに起きる。人間の駄目なところ、寂しいところである我欲が剥き出しになり、我欲の前では食欲も減退してしまう。たとえいさかいの原因が他愛ないものだとしても、我欲のパワーはあなどれない。不愉快な情景だが、句は的確にその場の雰囲気を伝えていて巧みだ。ところで、ご存知の方も多いとは思うが、「牛鍋」は江戸東京の料理である。同じ牛肉主体でも、関西では「鋤焼(すき焼き)」と言って料理調理法が若干異る。句にも「湯気立て」とあるように、牛鍋が肉を煮るのに対して、鋤焼は文字通りに焼く料理だ。簡単に手順を示すと、鋤焼ではまず脂身をひいて肉を焼いてから野菜などを加え、醤油や砂糖で味付けをしていく。牛鍋では肉や野菜などを、あらかじめ作っておいた割り下(ダシ)で最初から煮る。鋤焼のほうが、だんぜん手間がかかる。最近では鋤焼と称して牛鍋を出す店も多いけれど、本来はこういうことだった。家人が関西の出なので、我が家ではずっと鋤焼だったが、だんだんお互いに面倒になってきて、いつしか牛鍋風になってしまった。二つの調理法をめぐって、それこそいさかいになる新婚夫婦もあると聞く。これから結婚する人はご用心。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 01122003

 古書街に肩叩かるる歳の暮

                           皆川盤水

二月に入った。毎年感じることだが、この一ヵ月は飛ぶように過ぎていく。まさに「あれよあれよ」が実感だ。そう言ってはナンだけれど、この多忙な月の「古書」店は、さして商売にならないのではあるまいか。ゆっくりとウィンドウや棚を見て本を選ぶ時間的な余裕など、たいていの人にはないからである。句の「古書街」は、おそらく東京・神田だろう。あのあたりにはオフィスもたくさんあるので、年末でも人通りは普段とあまり変わらないかもしれない。でも、古書を求めて歩く人は少ないはずだ。そんな街を、作者は明らかに本を探しながらゆっくりと歩いている。めぼしい店の前で立ち止まりウィンドウを眺めているときに、後ろからぽんと肩を叩かれた。振りむくと、知った顔が微笑している。この忙しいのに、お前、こんなところで何やってるんだ。そんな顔つきである。だが、どうやら彼も同じように本を求めてやってきたらしい。一瞬でそうわかったときに、お互いの間に生まれる一種の「共犯者」意識のような感情。この親密感は、やはり「歳の暮」に特有なものである。私は若い頃に、大晦日には映画を見に行くと決めていた。正月作品を、ガラ空きの映画館で見られたからだ。もちろん私も他の客からそう思われていたのだろうが、大晦日に映画を見る人々は、よほどヒマを持て余しているか、家にいられないだとか何かの事情がある人たちに違いない。そういう時空間では、お互いに見知らぬ同士ながら、なんとなく親密感が漂っているような雰囲気があったものだ。ましてや掲句の場合には知りあい同士なのだから、その密度は濃かっただろう。きっと、そこらで一杯というくらいの話にはなったはずである。『寒靄』(1993)所収。(清水哲男)




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