亡くなった団令子が昔、京大新聞で働きたいと訪ねてきた。断わったアホは未だ語り草。




2003ソスN11ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 28112003

 炬燵せりこころ半分外に出し

                           中原道夫

かりますねえ、この気持ち。そろそろ「炬燵(こたつ)」を出そうかというとき、どこかに「いや、まだ早いかな」という気持ちが働く。ひとたび炬燵を出して入ってしまうと、つい離れるのが億劫になるので、それを警戒するからだ。外出はむろんのこと、隣の部屋に行くことすら面倒臭くなる。作者もそんな思いで我慢をしていたのだが、とうとう辛抱たまらずに、出すことにした。しかし、それでもなお「こころ半分」は炬燵の「外」に向けながらと言うのである。それほど炬燵は快適だし、かといって行動力が落ちるのも困るしと、逡巡しつつも「炬燵せり」の感じがよく伝わってくる。一瞬「炬燵せり」は「炬燵出す」でも面白いかなと思ったけれど、句のほうが既に炬燵に入りながらもまだ逡巡している可笑しさがあって、やはり「せり」で正解だろう。炬燵というと、いまはほとんどの家庭が赤外線コタツを使っている。戦後もだいぶ経ってからの発明だが、聞いた話では、発明者は小さな町工場の技術屋だったという。そのパテントを大手のメーカーが極安で手に入れ、盛大に宣伝しまくったことで、今日の隆盛をもたらした。でも、最初のうちはコタツの中が赤く見えなかったので、あまり売れなかったらしい。そこで一工夫して内部の電球を赤く塗ってみたところ見た目にも暖かそうになり、そこからブレークしたという話もある。機能や性能が優れていても、それだけでは売れないという商売の難しさ。パソコンではないけれど、インターフェイスのデザインはとても大事だ。我が家にも、この方式のコタツがある。出そうか出すまいか、まだぐずぐずと迷っている。『不覺』(2003)所収。(清水哲男)


November 27112003

 懐手かくて人の世に飛躍あり

                           軽部烏頭子

語は「懐手(ふところで)」で冬。句の所載本に曰く。「和服の場合、袂の中や胸もとに両手を突つこむの言、手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者の所作として、あまりみてくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」。そうかなあ、文士などの写真によく懐手の姿があるが、子供のころから私は、いかにも大人(たいじん)風でカッコいいなと思ってきた。ズボンのポケットに手を入れているのとは大違いで、どこか思慮深さを感じさせるスタイルだなと。ま、しかし、それは人によるのであって、一般的にはこの解説のように見栄えがしなかったのだろう。ポケットに手をいれていても、たとえばジェームス・ディーンなどはよく似合ったように、である。懐手をして背を丸めて、作者はそこらへんを歩いている。すれ違う男たちもみな、いちように同じ恰好だ。なにか寒々しくもみじめな光景だが、このときにふと思ったことが句になった。そうか、みながこうして縮こまっているからこそ、「人の世」には次なる「飛躍」ということがあるのだ。いつも背筋をピンと這っていたのでは、ジャンプへの溜めがなくなるではないか。懐手こそ、飛ぶためのステップなのである。と、これは半分くらい自己弁護に通じる物言いだとけれど、そこがまた面白いと感じた。たしかに人の世には冬の時代もあり、その暗い時代が飛躍のバネになったこともある。こうした自己弁護は悪くない。さて、現代は春夏秋冬に例えれば、どんな季節なのだろうか。少なくとも、春や夏とは言えないだろう。やはり、懐手の季節に近いことは近いのだろうが……。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 26112003

 飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな

                           高柳重信

語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)




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