イラクでのアタックが続く。この事態は戦争そのものだ。自衛隊派遣などとんでもない。




2003ソスN11ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 24112003

 ぶちぬきの部屋の敷居や桜鍋

                           綾部仁喜

語は「桜鍋(さくらなべ)」で冬。馬肉の鍋料理だ。大人数の宴会なので、部屋が「ぶちぬ」いてある。詰め合わせているうちに、運が悪いと「敷居(しきい)」の上の座布団に坐る破目になる。すぐ傍らに敷居があっても、あれはなんとなく気になるものだ。作者の位置は、そのあたりなのだろう。だが、会はお構いなしに進行していく。そのにぎやかな様子を、敷居から連想させたところが巧みだ。「ぶちぬき」という言葉も、威勢が良くてよろしい。東京の新宿御苑近くに、馬肉専門の店があって、ほぼ毎年そこで友人たちと忘年会を開く。もう三十年ほどは続いたたろうか。出版や映画の世界の男たちが主だけれど、なかにはどこでいつどうして知りあったのか、よくわからない友人もいる。本人に聞いてみても、「さあ……」と頼りなくも要領を得ない。それもまた愉し。小さな店だから、二階には八畳ほどの部屋が二間しかない。最初の頃には二十人以上はいたから、部屋はいつもぶちぬきだった。にぎやかを通りすぎて、うるさいくらいだった。それが歳月を経るうちに、亡くなる人もあったり病気がちの奴もでてきたりで、いつしかぶちぬかなくても間に合うようになってしまった。去年まではここに元気に坐ってたのになアと、誰言うとなくつぶやきが洩れてくる。近年は出かけて行くたびに、人生がそうであるように、会にもまた盛りがあることがしみじみと思われる。今年も年末に集まるのだが、何人くらい来られるだろうか。敷居の上の座布団の座り心地の悪さが、いまとなっては懐しいよ。「俳句」(2003年12月号)所載。(清水哲男)


November 23112003

 素人が吹雪の芯へ出てゆくと

                           櫂未知子

日本に大寒波襲来。お見舞い申し上げます。日本海側で暮らしていた私には多少の吹雪の体験はあるが、北国での本当の怖さは知らない。作者は北海道出身なので、そのあたりは骨身に沁みているのだろう。なによりも「吹雪の中」ではなくて「吹雪の芯」という表現が、そのことを裏付けている。実体験者ならではの措辞だと、しばし感じ入った。それこそ「素人」には及びもつかない言い方だ。そんな「芯」をめがけて、怖いもの知らずの奴が「出てゆく」と息巻いている。止めたほうがいいと言っても、聞く耳を持たない。根負けしたのか、じゃあ勝手になさい、どうせ泣きべそをかいて戻ってくるのがオチだからと、半ば呆れつつ相手を突き放している。しかも、突き放しながら心配もしている。「出てゆくと」と、あえて言葉を濁すように止めたのは、そんなちょっぴり矛盾した複雑な心情を表すためだと思う。実際、素人ほど無鉄砲であぶなっかしい存在はない。吹雪に限らず何が相手でも言えることだが、素人は木を見て森を見ず、と言うよりも全く森は見えていないのだから、何を仕出かすかわかったものじゃない。たまたま巧く行くこともあるけれど、それはあくまでも「たまたま」なのであって、そのことに他ならぬ当人が後でゾッとすることになったりする。そこへいくと「玄人」は、まことに用心深い。猜疑心の塊であり、臆病なことこの上ないのである。片桐ユズルに「専門家は保守的だ」という詩があるけれど、そう揶揄されても仕方がないほどに慎重には慎重を期してから、やっと行動に移る。面白いものだ。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


November 22112003

 掻爬了へ女寒がる首飾り

                           田川飛旅子

季句。えっ、「寒がる」とあるから冬の句じゃないの。そう思った読者は、もう一度読み直していただきたい。「掻爬(そうは)」は最近一般ではあまり使われない言葉になってきたが、本義は「組織を掻きとること」で、この場合は人工妊娠中絶を意味している。1975年(昭和五十年)の作。いわゆる性解放が進み、安直な堕胎が社会問題化しはじめたころだったろうか。もぐりの中絶医がはびこっているとも、よく聞いた。私は少年時代に、若い女性の三分の一がパンパンガールだと言われた基地の町近くに住んでいたので、どこからか「掻爬」についてのある程度のことは聞いていた。耳学問と言うのかしらん。そんなことはどうでもよろしいが、この句をはじめて読んだときには、作者は婦人科医かなと思った。掻爬した女性本人はもとより、関係当事者がこんな句を公表するはずはないと思ったからだ。でも、作者は技術者であって医者ではないと、後で知った。では、体験句だろうか、それともまったくの想像句なのだろうか。野次馬根性が動かないわけではないけれど、そんな詮索もまたどうでもよろしい。たった十七音で、これだけの影のあるドラマを描きえた作者の腕前に感心させられる。掻爬までの経緯によって愚かな女とあざ笑われようが、逆に周囲の同情を集めようが、句には術後の女性の哀しみが静かに滲み出ている。手術を「了へ」てやつれた姿のおのれを、なお半ば本能的に飾ろうとする性(さが)の痛々しさ。その象徴としての「首飾り」。見て見ぬふりをしたいところだが、作者は目をそらさなかった。作家魂のなせる業とでも言うべきか。このときに寒いのは外気ではなく、女性の身体と精神そのものだろう。真夏の句と読んでも、いっこうに差支えはない理屈だ。『邯鄲』(1975)所収。(清水哲男)




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