商店街は、はやクリスマス・モードに。でも、ツリーも飾り付けも超倹約節約モードだ。




2003N1121句(前日までの二句を含む)

November 21112003

 旅人われに雨降り山口市の鴉

                           鈴木六林男

季句。句とは裏腹に、今回の山口への旅は晴天に恵まれた。山道のあちこちが懐しく何度も立ち止まったが、深閑とした山の中で鴉(からす)の鳴き声が聞こえてきたときにも、思わず足が止まった。鴉の鳴き声など珍しくもないのにと思われるかもしれないけれど、都会の鴉とはかなり違う鳴き声だったからだ。実にのんびりと鳴いていて、気分がよくなる声だった。東京の鴉のように、ケンを含んだ声じゃない。「♪カラスといっしょに帰りましょ」と、歌いたくなるような声とでも言えばいいのか。こんな鴉を東京に移住させたら、苛烈な生存競争にひとたまりもなく敗れてしまうだろうな、などと余計なことも思った。掲句の鴉も、きっと同じようにのんびりとした声だったに違いない。「山口市」は、全国でいちばん辺鄙な場所に位置する県庁所在地だ。わずかに瀬戸内海に接している部分もあるが、山の中という印象がだんぜん濃い「町」である。昔から人口は少なく、現在でも14万人と私の住む三鷹市よりも少ないし、際立った産業があるわけでもない。戦後間もなく、そんな山口市を作者が訪ねたときの句である。わざわざ訪ねたのは、作者が高商時代を過ごした青春の思い出の地だったからだ。それもかつての大戦(フィリピンのバターン・コレヒドール要塞攻防戦に参戦)で九死に一生を得て引き揚げてきた身とあっては、私の呑気な旅などとは思い入れの度合が違うのだ。ただこうした註記が必要なところに、句として普遍性に欠ける恨みは残る。が、山河や建物よりも「鴉(の鳴き声)」に何よりも懐しさを覚えているところに、我が意を得たりの思いがした。たとえ降る雨は冷たかろうとも、青春懐旧の念のなかでは、かぎりなく優しく甘く感じられたことだろう。『荒天』(1949)所収。(清水哲男)


November 20112003

 明日会へる今日よく晴れて冬の空

                           小野房子

号では「子」の字がつくからといって性別を特定しがたいが、掲句の作者は女性だ。川端茅舎の弟子であった。まるで明日遠足がある子供のように、晴れ上がった冬空に期待と喜びを写している。この晴れた冬空の様子が、すなわち作者の今日の心持ちなのだ。明日という日を、よほど待ちかねていたのだろう。ただ遠足の子と違うのは、明日の天気などはどうでもいいというところだ。雨になろうと雪になろうと、会うことができれば心の中は青空だからである。今日の晴れた空さながらの心持ちを、そのまま抱いてゆくことができるからだ。むろん、どなたにも覚えがあるだろう。かと思うと、同じ作者に「すつぽりとふとんかぶりてそして泣く」がある。失恋だろうか、失意だろうか。いずれにしても、これらの句の特長は「すっかり句の中に溶け込んで」(野見山朱鳥)情を述べているところにある。斜に構えるのではなく、いわば手放しに無邪気に詠んでいる。なんとなく子供っぽくさえある。一言で言えば短歌的なのだ。しばしば言われるように、良い恋愛句にはなかなかお目にかかれない。それはやはり短歌(和歌)の分家である俳句が、本家とはできるだけ違う方向を目指してきたが故である。大雑把に言ってしまえば、万葉の昔から短歌作者は短歌そのもののなかでも人生を生きてきたのに対して、多くの俳句作家は俳句のなかで生きることはしていない。いや、そもそも様式上そんなことは不可能なのだ。いっだって、俳句とは現実の人生を写す鏡の破片にしかすぎないのである。したがって、俳句は掲句のようないわば無邪気を詠むことが苦手だ。おそらくそんなことは百も承知で、なお作者はこう詠まざるを得なかった。恋する人の心情はよくわかるけれど、「でもね……」と、俳句様式そのものが何か苦いことを言いたくなるような句であることも間違いない。野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』(1987・朝日選書342)所載。(清水哲男)


November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)




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