視聴率調査を廃止せよ。食い入るように見た時代ならばともかく数字の中身が不分明だ。




2003ソスN11ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 20112003

 明日会へる今日よく晴れて冬の空

                           小野房子

号では「子」の字がつくからといって性別を特定しがたいが、掲句の作者は女性だ。川端茅舎の弟子であった。まるで明日遠足がある子供のように、晴れ上がった冬空に期待と喜びを写している。この晴れた冬空の様子が、すなわち作者の今日の心持ちなのだ。明日という日を、よほど待ちかねていたのだろう。ただ遠足の子と違うのは、明日の天気などはどうでもいいというところだ。雨になろうと雪になろうと、会うことができれば心の中は青空だからである。今日の晴れた空さながらの心持ちを、そのまま抱いてゆくことができるからだ。むろん、どなたにも覚えがあるだろう。かと思うと、同じ作者に「すつぽりとふとんかぶりてそして泣く」がある。失恋だろうか、失意だろうか。いずれにしても、これらの句の特長は「すっかり句の中に溶け込んで」(野見山朱鳥)情を述べているところにある。斜に構えるのではなく、いわば手放しに無邪気に詠んでいる。なんとなく子供っぽくさえある。一言で言えば短歌的なのだ。しばしば言われるように、良い恋愛句にはなかなかお目にかかれない。それはやはり短歌(和歌)の分家である俳句が、本家とはできるだけ違う方向を目指してきたが故である。大雑把に言ってしまえば、万葉の昔から短歌作者は短歌そのもののなかでも人生を生きてきたのに対して、多くの俳句作家は俳句のなかで生きることはしていない。いや、そもそも様式上そんなことは不可能なのだ。いっだって、俳句とは現実の人生を写す鏡の破片にしかすぎないのである。したがって、俳句は掲句のようないわば無邪気を詠むことが苦手だ。おそらくそんなことは百も承知で、なお作者はこう詠まざるを得なかった。恋する人の心情はよくわかるけれど、「でもね……」と、俳句様式そのものが何か苦いことを言いたくなるような句であることも間違いない。野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』(1987・朝日選書342)所載。(清水哲男)


November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


November 18112003

 セーターの黒の魔術にかかりけり

                           草深昌子

語は「セーター」で冬。この黒いセーターは他人が着ているのか、それとも自分が着ているのか。いずれとも解釈できるが、私としては作者当人が着ていると解しておきたい。他人に眩惑されたというよりも、自分の思惑を超えて、心ならずも自身が着ているものに気持ちを支配されることは起きうるだろう。私のような着たきりスズメにはよくわからないことながら、たまに新しいものを着たりすると、なんとなく居心地が悪かったりするようなことがある。多くの女性は、ファッションにこだわる。何故なのかと、学生時代の女友だちに野暮な質問をしたことがあった。彼女の答えは明快だった。「自分を飾るというよりも、その日の気分を換えるためね」と。赤いセーターと黒いそれとでは、大違いなのだと言った。へえ、そんなもんかなあ。以来私は、似合う似合わないの前に、そういう目で女性のファッションを見る癖がついたようである。だから、掲句についても、上記の解釈へと導かれてしまうわけだ。「黒の魔術」といっても、まさか悪魔と契約を結ぶ「黒魔術」とは関係なかろうが、着た後の自分の気分が着る前の予想を超えて昂揚したりしたのであれば、やはり「魔術」という時代がかった言葉を使うのは適切だろう。黒といえば、この季節の東京では、やたらと細いヒールの黒ブーツが目立つ。私などは、万一転んだりしたら捻挫は免れないななどと余計な心配をしてしまうのだが、あれも気分転換のためだとすれば、彼女たちはどんな気分に浸って街を闊歩しているのだろうか。こっちはいきなり踏みつけられそうで、なんだかちょっとコワい気もするのだが……。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)




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