福島泰樹が毎朝チョコレートを食べると言った。酒飲みに甘いもの。そういえば私も。




2003ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


November 18112003

 セーターの黒の魔術にかかりけり

                           草深昌子

語は「セーター」で冬。この黒いセーターは他人が着ているのか、それとも自分が着ているのか。いずれとも解釈できるが、私としては作者当人が着ていると解しておきたい。他人に眩惑されたというよりも、自分の思惑を超えて、心ならずも自身が着ているものに気持ちを支配されることは起きうるだろう。私のような着たきりスズメにはよくわからないことながら、たまに新しいものを着たりすると、なんとなく居心地が悪かったりするようなことがある。多くの女性は、ファッションにこだわる。何故なのかと、学生時代の女友だちに野暮な質問をしたことがあった。彼女の答えは明快だった。「自分を飾るというよりも、その日の気分を換えるためね」と。赤いセーターと黒いそれとでは、大違いなのだと言った。へえ、そんなもんかなあ。以来私は、似合う似合わないの前に、そういう目で女性のファッションを見る癖がついたようである。だから、掲句についても、上記の解釈へと導かれてしまうわけだ。「黒の魔術」といっても、まさか悪魔と契約を結ぶ「黒魔術」とは関係なかろうが、着た後の自分の気分が着る前の予想を超えて昂揚したりしたのであれば、やはり「魔術」という時代がかった言葉を使うのは適切だろう。黒といえば、この季節の東京では、やたらと細いヒールの黒ブーツが目立つ。私などは、万一転んだりしたら捻挫は免れないななどと余計な心配をしてしまうのだが、あれも気分転換のためだとすれば、彼女たちはどんな気分に浸って街を闊歩しているのだろうか。こっちはいきなり踏みつけられそうで、なんだかちょっとコワい気もするのだが……。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


November 17112003

 枯葉踏む乳母車から降ろされて

                           中田尚子

ちよち歩きの幼児が「乳母車から降ろされて」、「枯葉」の上に立った。ただそれだけの情景だが、その様子を見た途端に、作者が赤ん坊の気持ちに入っているところがミソだ。おそらく生まれてはじめての体験であるはずで、どんな気持ちがしているのか。踏んで歩くと、普通の道とは違った音がする。どんなふうに聞こえているのだろうか。と、そんなに理屈っぽく考えているわけではないけれど、咄嗟に自分が赤ちゃんになった感じがして、なんとなく足の裏がこそばゆくさえ思えてくるのだ。こういう気分は、他の場面でも日常的によく起きる。誰かが転ぶのを目撃して、「痛いっ」と感じたりするのと共通する心理状態だろう。そういうことがあるから、掲句は「それがどうしたの」ということにはならないわけだ。赤ん坊に対する作者の優しいまなざしが、ちゃんと生きてくるのである。「乳母車」はたぶん、折り畳み式のそれではなくて、昔ながらのボックス型のものだろう。最近はあまり見かけなくなったが、狭い道路事情や建物に階段が多くなったせいだ。でもここでは、小回りの利くバギーの類だと、乗っている赤ん坊の目が地面に近すぎて、句のインパクトが薄れてしまう。やはり、赤ん坊が急に別世界に降ろされるのでなければ……。余談ながら、アメリカ大リーグ「マリナーズ」の本拠地球場には、折り畳み式でない乳母車を預かってくれるシートがネット裏に二席用意されている。揺り籠時代から野球漬けになれる環境が整っているというわけで、さすがに本場のサービスは違う。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)




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