五輪予選中継アナの「ニッポン」連呼は醜悪だ。もっとスポーツを楽しまなくっちや。




2003ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18112003

 セーターの黒の魔術にかかりけり

                           草深昌子

語は「セーター」で冬。この黒いセーターは他人が着ているのか、それとも自分が着ているのか。いずれとも解釈できるが、私としては作者当人が着ていると解しておきたい。他人に眩惑されたというよりも、自分の思惑を超えて、心ならずも自身が着ているものに気持ちを支配されることは起きうるだろう。私のような着たきりスズメにはよくわからないことながら、たまに新しいものを着たりすると、なんとなく居心地が悪かったりするようなことがある。多くの女性は、ファッションにこだわる。何故なのかと、学生時代の女友だちに野暮な質問をしたことがあった。彼女の答えは明快だった。「自分を飾るというよりも、その日の気分を換えるためね」と。赤いセーターと黒いそれとでは、大違いなのだと言った。へえ、そんなもんかなあ。以来私は、似合う似合わないの前に、そういう目で女性のファッションを見る癖がついたようである。だから、掲句についても、上記の解釈へと導かれてしまうわけだ。「黒の魔術」といっても、まさか悪魔と契約を結ぶ「黒魔術」とは関係なかろうが、着た後の自分の気分が着る前の予想を超えて昂揚したりしたのであれば、やはり「魔術」という時代がかった言葉を使うのは適切だろう。黒といえば、この季節の東京では、やたらと細いヒールの黒ブーツが目立つ。私などは、万一転んだりしたら捻挫は免れないななどと余計な心配をしてしまうのだが、あれも気分転換のためだとすれば、彼女たちはどんな気分に浸って街を闊歩しているのだろうか。こっちはいきなり踏みつけられそうで、なんだかちょっとコワい気もするのだが……。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


November 17112003

 枯葉踏む乳母車から降ろされて

                           中田尚子

ちよち歩きの幼児が「乳母車から降ろされて」、「枯葉」の上に立った。ただそれだけの情景だが、その様子を見た途端に、作者が赤ん坊の気持ちに入っているところがミソだ。おそらく生まれてはじめての体験であるはずで、どんな気持ちがしているのか。踏んで歩くと、普通の道とは違った音がする。どんなふうに聞こえているのだろうか。と、そんなに理屈っぽく考えているわけではないけれど、咄嗟に自分が赤ちゃんになった感じがして、なんとなく足の裏がこそばゆくさえ思えてくるのだ。こういう気分は、他の場面でも日常的によく起きる。誰かが転ぶのを目撃して、「痛いっ」と感じたりするのと共通する心理状態だろう。そういうことがあるから、掲句は「それがどうしたの」ということにはならないわけだ。赤ん坊に対する作者の優しいまなざしが、ちゃんと生きてくるのである。「乳母車」はたぶん、折り畳み式のそれではなくて、昔ながらのボックス型のものだろう。最近はあまり見かけなくなったが、狭い道路事情や建物に階段が多くなったせいだ。でもここでは、小回りの利くバギーの類だと、乗っている赤ん坊の目が地面に近すぎて、句のインパクトが薄れてしまう。やはり、赤ん坊が急に別世界に降ろされるのでなければ……。余談ながら、アメリカ大リーグ「マリナーズ」の本拠地球場には、折り畳み式でない乳母車を預かってくれるシートがネット裏に二席用意されている。揺り籠時代から野球漬けになれる環境が整っているというわけで、さすがに本場のサービスは違う。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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