再出発した雑誌「野性時代」のレイアウトが面白い。どうせ読まないから買わないけど。




2003ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 15112003

 事件あり記者闇汁の席外す

                           宮武章之

語は「闇汁(やみじる)」で冬。各自が思いつくままの食材を持ち寄り、暗くした部屋で鍋で煮て食べる。美味いというよりも、何が入っているかわからないスリルを味わう鍋だ。そんな楽しい集いの最中に、ひとり席を外す新聞記者。なんだ、もう帰っちゃうのか。でも「事件あり」ではやむを得ないなと、仲間たちも納得する。句の出来としては「事件あり」にもう一工夫欲しいところだが、その場の雰囲気はよく伝わってくる。当人はもちろん、仲間たちもちょっぴり名残惜しいという空気……。だが、こういうときの新聞記者の気持ちの切り替えは実に早い。彼は部屋を出れば、いや席を立ったときに、もう切り替えができてしまう。新聞記者の友人知己が多いので、このことには昔から感心してきた。週刊誌の記者や放送記者などでも、およそ「記者」と名のつく職業の人たちは、気分や頭の切り替えが早くないと勤まらないのだ。いつまでも前のことが尾を引くようでは、仕事にならない。その昔、テレビに『事件記者』という人気ドラマがあったけれど、ストーリーとは別に、私は彼らの切り替えの早さに見惚れていた。社会に出ても、とてもあんなふうにはいかないだろうなと、愚図な少年は憧れのまなざしで眺めていた。どんな職業に就いても、誰もが知らず知らずのうちにその世界の色に染まってゆく。医者は医者らしく、教師は教師らしく、銀行員は銀行員らしくなる。酒場などで見知らぬ人と隣り合っても、およそその人の職業の見当はつく。「らしくない」人には、なかなかお目にかかれない。休日にラフな恰好はしていても、たいていどこかで「らしさ」が出るものなのだ。放送の世界が長かった私にも、きっと「らしさ」があるのだろう。だが、当人には自分の「らしさ」がよくわからない。そのあたりが面白いところだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 14112003

 猟夫と鴨同じ湖上に夜明待つ

                           津田清子

語は「猟夫(さつお)」と「鴨(かも)」で、いずれも冬。「猟夫」は「狩」に分類する。狩猟解禁日の未明の情景だろう。息をひそめ手ぐすねをひいて「夜明」を待つ猟夫たちと、そんなこととは露知らぬ鴨たちとの対比の妙。標的をねらうものと標的にされるものとが「同じ湖上」に、しかも指呼の間にいるだけに、緊迫感がひしひしと伝わってくる。私は鴨猟をやったこともないし、見たこともない。銃も、空気銃以外は撃ったことがない。だが、掲句のはりつめた空気はよくわかる。きっと過去のいろいろな細かい体験の積み重ねから、待ち伏せる者の心の状態がシミュレートできるからだと思う。自治体によって狩猟解禁日は違うし、解禁時間も異る。なかには午前6時7分からなどと、ヤケに細かく定めたところもあるという。そしてこの解禁時間の直後が、鴨猟連中の勝負どころだそうだ。時間が来たからといって、遠くにいるのを撃っても当たらない。でも近くに来すぎると、今度は散弾が広がらないので仕留めそこなってしまう。しかし解禁時間になった途端に、必ず誰かが撃ちはじめるので、うかうかしていると逃げられる。猟夫たちはみな鴨の習性を知っているから、句のようにじっと夜明けを待つ間は、自分なりの作戦を頭の中で組み立てめぐらして過ごすのだろう。そういうことを想像すると、なおさらに、いわば嵐の前の静けさにある時空間の雰囲気が鮮かに浮き上がってくる。句とは離れるが、ずっと昔に「狩」といえば「鷹狩」のみを指した。現代の俳人・鷹羽狩行の筆名は、おそらくこの本意にしたがったものだろう。本名を「高橋行雄」という。山口誓子の命名だと聞いたことがあるが、なかなかに洒落ていて巧みなもじりだ。『礼拝』(1959)所収。(清水哲男)




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