焼芋屋がやってくるようになった。一度買ってみたいと思うが、かなり高いそうですね。




2003ソスN11ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 14112003

 猟夫と鴨同じ湖上に夜明待つ

                           津田清子

語は「猟夫(さつお)」と「鴨(かも)」で、いずれも冬。「猟夫」は「狩」に分類する。狩猟解禁日の未明の情景だろう。息をひそめ手ぐすねをひいて「夜明」を待つ猟夫たちと、そんなこととは露知らぬ鴨たちとの対比の妙。標的をねらうものと標的にされるものとが「同じ湖上」に、しかも指呼の間にいるだけに、緊迫感がひしひしと伝わってくる。私は鴨猟をやったこともないし、見たこともない。銃も、空気銃以外は撃ったことがない。だが、掲句のはりつめた空気はよくわかる。きっと過去のいろいろな細かい体験の積み重ねから、待ち伏せる者の心の状態がシミュレートできるからだと思う。自治体によって狩猟解禁日は違うし、解禁時間も異る。なかには午前6時7分からなどと、ヤケに細かく定めたところもあるという。そしてこの解禁時間の直後が、鴨猟連中の勝負どころだそうだ。時間が来たからといって、遠くにいるのを撃っても当たらない。でも近くに来すぎると、今度は散弾が広がらないので仕留めそこなってしまう。しかし解禁時間になった途端に、必ず誰かが撃ちはじめるので、うかうかしていると逃げられる。猟夫たちはみな鴨の習性を知っているから、句のようにじっと夜明けを待つ間は、自分なりの作戦を頭の中で組み立てめぐらして過ごすのだろう。そういうことを想像すると、なおさらに、いわば嵐の前の静けさにある時空間の雰囲気が鮮かに浮き上がってくる。句とは離れるが、ずっと昔に「狩」といえば「鷹狩」のみを指した。現代の俳人・鷹羽狩行の筆名は、おそらくこの本意にしたがったものだろう。本名を「高橋行雄」という。山口誓子の命名だと聞いたことがあるが、なかなかに洒落ていて巧みなもじりだ。『礼拝』(1959)所収。(清水哲男)


November 13112003

 米犇きたちまち狭し暖房車

                           高島 茂

語は「暖房」で、もちろん冬。昨日の句と同じように、戦後の混乱期の作である。なぜ「暖房車」で「米(こめ)」が「犇(ひしめ)く」のか。今となっては、当時の世相などを含めた若干の解説が必要だろう。この句を目にしたときに、私はすぐに天野忠の詩「米」を思い出した。そして、久しぶりに詩集を取りだして読んでみた。天野さんにしては、珍しく社会への怒りをストレートにぶつけている。何度読んでも粛然とさせられ、感動する詩だ。今日は私が下手な解説を書きつけるよりも、この詩にすべてをまかせることにしたい。詩人が怒っているのは、列車内に踏み込んでヤミ米を摘発していった官憲に対してである。「/」は改行を、「//」は改連を示す。「この/雨に濡れた鉄道線路に/散らばった米を拾ってくれたまえ/これはバクダンといわれて/汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ//その米袋からこぼれ出た米だ/このレールの上に レールの傍に/雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ/そしてさっき汽車の外へ 荒々しく/曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ//どうして夫が戦争に引き出され 殺され/どうして貯えもなく残された子供らを育て/どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ/そしてその子供らは/こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを/たずねてくれたまえ/自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ/雨と泥の中でじっとひかっている/このむざんに散らばったものは/愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ//この美しい米を拾ってくれたまえ/何も云わず/一粒ずつ拾ってくれたまえ」。……むろん掲句の犇く米も、無事に人の口に入ったかどうかはわからない。不幸な時代だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 12112003

 美容室せまくてクリスマスツリー

                           下田實花

が早いというのか、商魂逞しいというのか。十一月に入った途端に、東京新宿のデパートあたりではクリスマス向きのイルミネーションを飾りつけ、店内では歳暮コーナーを設けるという始末。いや、新宿ばかりじゃない。先日訪ねた四国の松山のホテルでも、なんとなくそれらしき豆電球が明滅していた。古い歳時記をパラパラやっていたら掲句に出会ったのだが、戦後間もなくの句だ。それでなくても狭い美容室にツリーが飾られ、作者は大いに迷惑している。敗戦までは、クリスマスを楽しむ習慣などなかったのだから無理もない。でも美容室は商売柄、時流に乗り遅れてはならじと、狭くてもなんでも無理やりにツリーをセットしたわけだ。こういう句にインパクトを感じる読者が多かった雰囲気を、いまの若い人は理解できないだろう。まったくあのころは、雨後の竹の子のように、急にあちこちにツリーが飾られるようになったっけ。当時の国鉄(現JR)の各駅にもツリーが立ち、国会で問題になったこともある。国営企業が、一つの宗教に肩入れし宣伝するとはけしからん。新憲法が保障する信教の自由を何と心得るのか。まだ、閣僚が靖国神社に参拝しようとする気すらなかった時代の話である。掲句を載せた歳時記の解説が面白い。一応クリスマスやツリーを説明した後に、こうある。「戦後は異教徒の日本人も、大騒ぎするやうになった。デパートや商店、カフェ・キャバレーなども聖樹を飾る」と、句の作者と同じようにいささか苦々しげである。12月25日の朝刊には、必ず銀座あたりで三角帽子をかぶって大騒ぎしている男たちの写真が載ったものだった。そのころは大人の男の異教徒だけが騒いでいたのが、いつしか老若男女みんなのお祭りと化してきたのは、いかなる要因によるものなのだろうか。かくいう私もクリスマスのデコレーションの類は大好きなほうだから、あまり詮索する気にはならないけれど。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます