急に冬になった感じですね。ついにセーターを出して着ました。今年もあと50日です。




2003ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12112003

 美容室せまくてクリスマスツリー

                           下田實花

が早いというのか、商魂逞しいというのか。十一月に入った途端に、東京新宿のデパートあたりではクリスマス向きのイルミネーションを飾りつけ、店内では歳暮コーナーを設けるという始末。いや、新宿ばかりじゃない。先日訪ねた四国の松山のホテルでも、なんとなくそれらしき豆電球が明滅していた。古い歳時記をパラパラやっていたら掲句に出会ったのだが、戦後間もなくの句だ。それでなくても狭い美容室にツリーが飾られ、作者は大いに迷惑している。敗戦までは、クリスマスを楽しむ習慣などなかったのだから無理もない。でも美容室は商売柄、時流に乗り遅れてはならじと、狭くてもなんでも無理やりにツリーをセットしたわけだ。こういう句にインパクトを感じる読者が多かった雰囲気を、いまの若い人は理解できないだろう。まったくあのころは、雨後の竹の子のように、急にあちこちにツリーが飾られるようになったっけ。当時の国鉄(現JR)の各駅にもツリーが立ち、国会で問題になったこともある。国営企業が、一つの宗教に肩入れし宣伝するとはけしからん。新憲法が保障する信教の自由を何と心得るのか。まだ、閣僚が靖国神社に参拝しようとする気すらなかった時代の話である。掲句を載せた歳時記の解説が面白い。一応クリスマスやツリーを説明した後に、こうある。「戦後は異教徒の日本人も、大騒ぎするやうになった。デパートや商店、カフェ・キャバレーなども聖樹を飾る」と、句の作者と同じようにいささか苦々しげである。12月25日の朝刊には、必ず銀座あたりで三角帽子をかぶって大騒ぎしている男たちの写真が載ったものだった。そのころは大人の男の異教徒だけが騒いでいたのが、いつしか老若男女みんなのお祭りと化してきたのは、いかなる要因によるものなのだろうか。かくいう私もクリスマスのデコレーションの類は大好きなほうだから、あまり詮索する気にはならないけれど。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 11112003

 風の服つくる北風役の子に

                           富田敏子

語は「北風」で冬。学芸会(と、いまでも言うのかしらん)で北風役を演じることになった子供のために、「風の服」をつくってやっている。どんな内容の劇かは、句からはわからないが、あまり良い役ではなさそうだ。たとえばイソップ物語にある「北風と太陽」の北風のように、どちらかといえば憎まれ役なのだろう。旅人の上衣をどちらがちゃんと脱がすことができるか、という力比べの物語。この話ならば、風の服の色は太陽の赤に対比させて青色にするのだろうが、さて、全体の形はどんなふうにするのか。たぶん西洋の悪魔のファッションにも似て、とげとげしい印象に仕上げるのではなかろうかか。もっと良い役だったらなどと思いながらも、それでもできるだけ舞台映えがするようにと、ていねいに縫っている。そんな事実だけを淡々と詠んでいるだけなのだけれど、いろいろに親心が想像され連想されて飽きが来ない。それに実際につくった体験がないと、虚構ではとても詠めない強さもある。なんということもない句のようだが、作者は俳句の要諦をきちんと心得ている人だ。読者への句のゆだね方をよく承知している。風の服で思い出したが、学芸会で風の役をやった友人がいる。こちらは和風の風の役で、大きな風の袋をかかえて、陰の先生の合図で下手から上手までを一気に舞台を駆け抜けるだけ。演目はたしか『風の又三郎』のはずだったと言うのだけれど、はてな。たしかにあの物語は風が命みたいなものだけれど、いったい彼はどんな場面で飛び出していったのだろう。そして服と袋は、やはり句のように母親につくってもらったのだろうか。今度会ったら、掲句のことを教えて聞いてみよう。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


November 10112003

 愚陀仏は主人の名也冬籠

                           夏目漱石

国松山への短い旅から戻ってきました。何をおいても行きたかった道後の子規記念博物館を見ることができ、満足しています。手紙や原稿、書籍などが中心の展示ですから、「見る」というよりも「読む」博物館ですね。そんななかで、唯一と言ってよい見るための展示が、三階に復元された「愚陀仏庵」一階の部屋の模様です。愚陀仏は漱石の別名で、それをたわむれにそのまま下宿先の家の名前とし、ここに病気療養で帰省した子規が転がり込んだことから、記念館に復元されたというわけです。子規が一階の二部屋を使い、漱石は二階。部屋には、火鉢なんかも置いてありました。ちょうど立冬の日で、なかなか芸がこまかい。と思ったけれど、年中置いてあるのかもしれません。撮影禁止なので、写真を撮れなかったのが残念なり。掲句は俳句的にどうのこうのというものではありませんが、記念に載せておくことにしました。はじめて読んだときに「主人」は大家さんのことかと思い、粋な人もいたものだと感心した覚えがありますが、というようなわけで漱石自身のことなのでした。松山を観光地として見たときに、宣伝に寄与しているのは子規はむろんですが、しかし圧倒的には漱石という印象でしたね。漱石の『坊ちゃん』が松山を全国的に知らしめたと言っても、過言ではないでしょう。市内には坊ちゃん列車が走り、道後や松山城などの観光スポットには坊ちゃんやマドンナ、あるいは赤シャツに扮装したガイドが立ち、土産には坊ちゃん団子をはじめ漱石にちなんだものがいろいろとありました。小説の威力、恐るべし。そんな感を深くした駆け足旅行でした。仕事抜きで、もう一度ゆっくりと訪ねてみたい街です。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)




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