明後日から四国の松山へ。これで今年の旅行は終了だ。こんなに旅した年は久しぶり。




2003ソスN11ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 04112003

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

                           松尾芭蕉

存知『おくのほそ道』の掉尾を飾る一句だ。「行秋」は「ゆくあき」。どんな文集でもそうだが、終わり方、しめくくり方には大いに気をつかう。終わり方如何で、作品全体の印象が決定づけられる。竜頭蛇尾に終われば、それまでの苦労が水の泡だ。よく知られているように、芭蕉は『おくのほそ道』の推敲にはずいぶんと長い年月をかけた。したがって、文中の句に即吟そのままというのは、あまりないだろう。萩と遊女の句のように、まったくのフィクション句もある。この句は大垣の港から二十年に一度の伊勢の遷宮を拝むために、舟で出発したときに詠まれた。すなわち、芭蕉の旅はまだまだ続くわけだが、彼はあえて大垣をもって旅の終着地としている。せっかくの伊勢詣でなのだから、遷宮の様子もレポートしたかったとは思うが、それをしなかった。なぜなら、伊勢を書けば「ほそ道」一巻を貫く思想が崩れてしまうからなのだ。凡俗の徒の営為などは、あっという間に神の懐に吸引吸収されてしまう。「月日は百代の過客にして」の人間としての一種の悟りも、神の前ではちっぽけな考えでしかないだろう。下世話な言葉を使えば、それではヤバかったのである。だから、大垣で止めた。掲句の「ふたみ」が蛤(はまぐり)の蓋と身にかけてあるように、この句には他にも芭蕉の教養と機知と感覚とがいろいろと詰まっている。詳細についてはしかるべき評釈書を参照していただくとして、ここで芭蕉がねらったのは読者をして一巻冒頭の一行目に回帰せしめることだったと思う。だから惜しみつつ惜しまれつつ別れていく人情を、行く秋への惜別の情に巧みに切り換えることで、芭蕉は素早くも個に立ち返っているのだ。つまり、旅立ちのときの個と同じ位置に戻っている。舟が出たのは午前八時ころだというが、早春に江戸を旅立ったのも早朝であった。時間的にも、ぴしゃりと合わせてある。要するに「ほそ道」は円環体に構成されていて、永久に終わりのない読み物なのだ。それもこれもが、この最後の句の工夫にかかっている。(清水哲男)


November 03112003

 蜘蛛の巣に頭を突込めり文化の日

                           神生彩史

後も間もないころの句。こういうことは、とくに田舎でなくても起きた。そこらじゅうに、蜘蛛が巣を張っていた。「頭を突込」むと厄介だ。髪の毛がべたべたになってしまい、洗髪する破目になる。「文化の日」を祝おうだなんて言うけれど、蜘蛛の巣だらけのどこが文化的なんだよ、この国は。と、舌打ちしているのだろう。作者の意識のなかには、明らかに新しく制定された祝日への反感がある。ご存知のように、戦前の今日は明治節。明治天皇の誕生日を祝う日だった。♪アジアの東、日出ずるところ、ひじり(聖)の君のあらはれまして、古きあめつち、とざせるきり(霧)を、大御光(おおみひかり)にくまなくはらひ、……という、今日の某国も真っ青な式歌をみんなが歌った。それが敗戦となって、民主主義国家には最もふさわしくない祝日の一つとなり、急遽十一月三日の日付には何の関係もない「『文化』の日」と読み替えることにしたわけだ。関係がないのだから、別に今日を祝日に制定する必然性もないのだけれど、そこはそれ、なんとか明治節の痕跡だけでもとどめておきたいという守旧派の力が働いたに違いない。事の是非は置くとして、戦前の祝日には制定の根拠や必然性があった。ほとんどが神道や皇室行事などに拠ってはいたが、それなりに納得はいった。ところが、戦後は根拠必然性のない焦点ボケの祝日が多くて、祝う気にもなれない。単なる休日と思う人が大半だろう。今月の「勤労感謝の日」などは収穫を神に感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」の読み替えだが、焦点ボケの代表格だ。第一、感謝の主体すらがはっきりしない。こんなに漠然とした祝日の多い国は、日本だけだろうな。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 02112003

 さやけしや小さき書肆の大六法

                           山崎茂晴

語は「さやけし」で秋。「爽やか」の項に分類。例外はある。だが、ほとんどの「小さき書肆(しょし)」の品揃えは恣意的と言ってよいだろう。我が家の近くにも小さな本屋があって、たまに入ってみるけれど、棚は目茶苦茶に近い。取次業者の言うままに、売れそうな本を取っ換え引っ換えしていることだけは分かるが、店主の目というものが全く感じられない。これでは日々の仕事に張り合いがないだろうなと、余計なことまで思わされてしまう。作者はたぶん、さしたる期待もなく、そんな小さな本屋に立ち寄ったのだ。で、ひとわたり店を見回しているうちに、なんと「大六法」の置いてあるのが目に飛び込んできた。分厚い「六法全書」だ。店のたたずまいからして、わざわざこの店に六法全書を求めに来る客がいるとも思えない。でも、それは置いてある。毅然として棚に納まっている。思わず、作者は店主の顔を見たのではなかろうか。その店主の心映え、心意気をまことに「さやけし」と、作者は感じ取ったのである。よくわかる。ところで、六法とは具体的にどの法律を指すのか。あらためて問われると、咄嗟には私には答えられない。調べたついでに書いておくと、憲法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法の六つの法律を言う。また大六法・六法全書は、以上の六法をはじめとして各種の法令を収録してある書籍のこと。分厚くなるわけだが、ちなみにこのように各種法令を網羅して一冊にまとめた法律の本は外国には無く、日本独自のものだそうである。『秋彼岸』(2003・私家版)所収。(清水哲男)




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